第30話 手帳は発酵する宇宙

 時田あおいは天野碧社長から二つ目の魔法を授与された。


――すべてをメモしておく、か。


 その日の仕事帰り、あおいは札幌駅の商業ビルにある大きめの文房具店に立ち寄った。

 手帳売り場を物色する。

 いま使っている手帳も気に入っているが、ウィークリータイプのダイアリーで一週間ごとのTODO管理をしている。これではとても書き込むスペースが足りない。やはり自分も天野碧社長のように一日一ページタイプの手帳を手に入れようとここへやってきたのだ。


「どんな手帳がいいかなあ……」


 思わず小さく独り言を言うと、抱えていたバッグの中でマグカップが反応した。


「あおいくんがいちばん大好きなのにしたらいいよ。いつも持ち歩くんでしょう。その手帳も召喚チームに入ることになるわけだから」


「あっ、聞こえた? え、召喚チーム?」


「そうだよ。あおいくんとボクと、あと手帳くん」


「なるほど。手帳は記録係ってとこかな」


「手帳は発酵する宇宙だからさ。漬物樽とか壺とかそういうものかも」


「へっ???」


「係っていうより、召喚チーム一心同体」


「そっか。じゃあほんとに大好きなものにしよ」


 あおいはそういって手帳売り場を見渡した。そして一冊の手帳から眼が離せなくなった。


 森のように深い緑色の革の手帳だ。ワンポイントで、白いりんごが箔押しされている。


 開いてみると1日につきたっぷり見開き2ページを使えるタイプのものだった。


「これ、ビリジアンって言うんだっけ。フォレストグリーンだったかな。深い緑色。白いりんご。なんかすごい好きだな。これにしようかな」


 バッグの中のマグカップがぶるるるると震えて言った。


「それしかないでしょう」



***



 かくして、二つ目の魔法「すべてをメモする」の実践が始まった。


 しかし始めた途端、あおいは絶望感を覚えた。


――「すべて」をメモする、なんてそんなの無理だ。


 朝起きた時間、気温、湿度、見たテレビ番組、食べたパン、飲んだ紅茶、今日の服装、地下鉄の駅の乗車ホームの番号、乗った地下鉄の号車、出発時間、会社に着いたときにすでに出社していたメンバー、交わした会話、窓際のラジオから流れていた曲、黒沢課長のネクタイの色、氷川主任のハンカチの色、清野マリアのブラウスの色、朝いちばんにかかってきた電話の主とその内容その時間……。


「こんなの無理だ!」


 すべてをメモする、を実践し始めた朝。始業10分も経たずにあおいは「すべてをメモする」ことは無理であると気づいた。


 そしてようやく、天野碧が言っていた台詞を思い出した。


「しばらくの間、統括の仕事に関係するすべてのことを、メモしてごらんなさい。書くということは、あなたの内側になにかを刻むのよ。そしてね、刻むことがこの魔法の本質なの」


――そっか、統括の仕事に関係するすべてのことだけでいいんだ。


 それならできる、とあおいは考え直した。そしてもう少し考えてさらに不安になった。


――でも、統括の仕事に関することも、すごい量なんじゃないだろうか。


「そもそもどこまでが統括の仕事なんだろ……」


 あおいはマグカップでコーヒーを一口飲んだ後、そうつぶやいた。


 するとマグカップがあおいの指先に振動を送ってきた。周りには聞こえないが、あおいにはその振動が言葉となって指先から伝わるのだ。


「それは、あおいくんが統括の仕事をどう捉えるか、じゃない?」


「だよなあ。よし。じゃあまずはテーマを決めてメモしよう」


「いいね。じゃあ今なら……」


「今なら店長再ヒアリングだよな。店長に関することをとにかくメモしよう」


 そうしてあおいはメモの方針を決め、今日から店長に関するすべてのことを森の緑色の手帳にメモしていくことにした。


 ちょうど今日は店長再ヒアリングのアポイントが1件入っていた。


 その日あおいは以下のことをメモした。


8月24日(水)晴れ 25度

15:00 ウエスト店 萩野店長


前回のヒアリング(7月14日)

・レジをPOSデータ対応のものに変更してほしい。

・清掃会社を入れてほしい。

・おかずだけの詰め合わせで高級志向対応の商品を作ってほしい。


今回のヒアリングメモ

・よりどりぐりーんウエスト店(地下鉄東西線琴似駅徒歩4分)

店長 萩野穂高(はぎのほだか)32歳 入社7年目


・営業販売課(4年)→よりどりぐりーんウエスト店店長(3年目)


・営業販売課では仕出しチームにて法人営業担当。主に西区の企業研修主催会社Pを大口顧客として持つ。P社はもともと中央区にあったが大手銀行の破綻により連鎖倒産の危機となり、拠点を西区に移して琴似の貸会議室数か所を使っての研修実施をしている。萩野店長はこのP社のK社長に何度もアタックして全面的にみどり食品の仕出しを導入してもらえるようになった。以来、個人的にもP社のK社長とは親しくしている。


・尚、萩野店長が営業販売課から離れてよりどりぐりーん店長となってからも、近所のよしみでP社のK社長は時折来店し、立ち話をする。以下、K社長の言っていたアドバイス。


=====

★少し離れて見るとファサードガラス部分の汚れが目立つ。衛生を視覚化するためにも清掃はプロを入れるべき。

★P社もオンラインが増え、リアルでの研修が減ってきた。よって現在みどり食品の仕出し発注は減っている。申し訳ないのでたまにこうしてアドバイスをさせてもらっている。

★よりどりぐりーんウエスト店は競合をどこに置いているのか。コンビニや他の弁当屋?それとも札幌駅デパ地下で買いそびれたものを地元駅で購入するということなら札幌駅のデパ地下? それであれば夕方の高級総菜商品群を開発すべき。

★そもそも顧客層の分析はできているのか? レジのスペックを上げては?

=====




 あおいはウエスト店から帰ってくると忘れないようにその日聞いた内容をメモした。


 ぶつぶつ言いながら書き込んでいくあおいにマグカップが話しかける。


「そうやって、文章でメモするんだね。あおいくんって」


「なんかさ、単語だけだとあとで思いだす自信ないから。今のところはこうやって書いとく」


「文章でメモするのいいと思う。主語述語がはっきりするもんね」


「そうなんだよ。前回の7月の時と内容似てるんだけどさ、メモしようと思って聞くと、「誰が言ってたんだろう」とか主語をはっきりさせたくなって質問の仕方も変わってさ。清掃とか高級商品のことをP社の人からアドバイスされただなんて、7月の時はまったく聞けなかったよ」


 あおいの中で、「関心をもつ」という第一の魔法に、「すべてをメモする」という第二の魔法が重なっていくような瞬間が訪れていた。


 重なるだけじゃない、そこに何かが発酵するうごめきがひそやかに始まっていた。

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