第29話 二つ目の魔法が授与された

 総務課ミーティングの後で小田桐このはがそっとあおいに話しかけてきた。


「時田さん。ときどきマグカップとお話してますよね。めっちゃ楽しそうで、うらやましいんですけど」


 ぎくりとしたあおいは、どう平静を装えばよいのか混乱したために数秒間無言になった。


 そして無言の後にそっとこのはの眼を見る。


 このはは見たことのないようならんらんと輝く瞳であおいを見ていた。


 あおいは頭をフル回転させて場を取りつくろうとした。


「な! なに言ってるの、小田桐さん。ま、ま、ま、まさかはははははそそそそそんな」


――ああ、こういうときに吃音出るなってば。


 焦れば焦るほど口がうまく動かない。


「なななななにを言うかと思ったらはははははは」


 そんなあおいの弁明はこのはに通用しなかった。


 このはは小さな声でささやいた。


「小さい頃からヴァイオリンやってるからか、私、耳だけは異常にいいんです。いま、救急車の音が聞こえてきましたよ」


 そう言ってこのははふっと笑うと席へ戻った。


 あおいの耳に救急車が近づいてくる音がしてきたのは、それから数十秒後のことだった。



***



 8月下旬になった。


 お盆の休暇は特になく、みどり食品は暦通りだ。夏季休暇を持ち回りで社員が順番に取っていく。総務課でまだ夏季休暇を取っていないのは、時田あおいと清野マリアだけだ。


 あおいは氷川主任が奥さんの実家の帯広で買ってきたというバームクーヘンを食べながら、昼休みの食後の時間を手帳に向かいながら過ごしていた。


 以前のあおいは昼休みの一時間をきっちり休むことを自分の権利として死守したい気持ちでいっぱいだった。そのため、「話しかけないで」オーラを出す道具としてスマホにずっと向き合い、スマホで読むマンガに夢中になりながら昼休みを過ごしていたものだ。


 ところが周りに関心をもつという天野碧社長からプレゼントされた魔法を使うようになってからというもの、あおいの意識はゆっくりと変化していった。


 自分が周りに関心を持つことによって、自分という磁場のフィールドが周りに開かれていき、周りのエネルギーと自分のエネルギーが一体化し、くつろげる自分の状態のままで職場でも居られるようになってきた。そしてそのことはあおいが死守していた自分の世界であるところの「スマホのマンガをどうしても読みたい」という昼休みを一時間休む権利への欲をあっさりと薄れさせ、気がつけば周りと談笑したり、仕事の手順を手帳で確認したりしながら、心と体をリラックスさせる昼休みを過ごすようになっていた。


「ここのバームクーヘン、ひさびさに食べましたけど、美味しいですね」


 あおいがそういうと氷川主任は銀縁眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。


「うちの奥さんは、帰省すると必ずこれなんです。十勝はお菓子が豊富ですのでいろいろ買ってきたいのですが、ワンパターンになってしまいますね。でもこれは濃いめに淹れたストレートティーと実に合うのですよ」


 どんな会話でもいいのだ、ということを最近のあおいは思うようになった。心地よいエネルギーをこうして普段から交換しておくことで、職場の周りの人達とのパイプが太くなっていく。そしてそれはいざというときに、重要なパイプになる。


 だからこそ普段のこういう会話は重要なのだということを、周りに関心をもつようになるまであおいは思いつきもしなかった。


 ついこの間までの自分がおかしくてあおいは小さくふっと笑い、「ストレートティー、いいっすねー」と言いながら、食べた弁当の空き容器を捨てに席を離れた。


 廊下を歩いていくと、前方からカツカツカツという力強い音が響いてきた。


「あら」


 天野碧社長である。今日の彼女は、濃紺のスーツに、ラベンダー色のブラウス。真っ赤なシステム手帳を抱えている。


「あ、お疲れ様です」


「黒さんから聞いたわよ。店長ヒアリング、二回目回ってるんだって?」


「あ、はい。一回目が薄っぺらすぎたので……」


「そう思うことがすごく大事ね。丁寧な仕事おつかれさん」


「あ、いやあの、社長に教えていただいた「周りに関心を持つ」のおかげかと。本当に、ありがとうございました」


「ふうん」


 天野碧社長はそう言いながら真っ白な9センチヒールの靴のバックストラップをかかとにかけ直した。


「この靴すこし大きかったかな。外れてきちゃうの。ねえ、私がどうしてこういう高いヒールを履いているか、知ってる?」


「えっと、絶縁体でしたっけ」


「あらまあよく知っているわね」


「なぜか議事録メモに、それもメモしていました」


 天野社長は両側の口角をきゅっとあげ、眼は真剣なままで「いいわねえ」と大きく頷いた。


「非常にいいわ。素質あり」


「素質ってあの」


「冒険者の素質よ。言ったでしょう、よりどりぐりーんの統括は冒険者の仕事だって。これからの新しい時代においてのよりどりぐりーんのため、これまで内部の人間には当たり前だとしか思えないものを打ち砕き、本質に沿ったものに変容させていく冒険が必要なの。あなたは、よりどりぐりーんが、いいえ、みどり食品がこれからしなければならない冒険の、中心的英雄役として、召命されたのよって」


「はあ、もちろん覚えています。でもですねえ……」


「ということで二個目の魔法を渡すわ」


「はい?」


「すべてをメモしておく」


「メモ?」


「そうよ、二個目の魔法は「すべてをメモしておく」です。ねえ、見てこれ」


 天野碧社長は、いつも持ち歩いている書類やメモを挟んでふくらんでいる真っ赤なシステム手帳を開いてあおいに見せた。


「これが今日のページ。私は一日一ページ使っているの」


今日の日付が書かれたページに、几帳面な小さい字でぎっしりと何かが書かれている。


「たとえばこれ見て」


 そこには、<氷川主任 奥様帯広 バームクーヘン>という記述があった。


「社長がこんなことまでメモしてるんですか?」


 あおいもノートにTODOを書いて仕事を管理しているが、この情報量には圧倒された。


「こういう情報が、役に立つときが来るの。ということで二つ目の魔法をあなたに授けるわよ。いい? しばらくの間、統括の仕事に関係するすべてのことを、メモしてごらんなさい。書くということは、あなたの内側になにかを刻むのよ。そしてね、刻むことがこの魔法の本質なの」


 天野碧社長はそう言うとまたカツカツと何かを絶縁しながら歩き去っていった。

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