第21話 わけのわからない胸騒ぎ


 7月になり、時田あおいはよりどりぐりーん四店舗の統括とイースト店店長を兼務する日々が始まった。


 そうはいっても実際には、イースト店店長として9月末まで春田一彦が在籍しているから、あおいは毎日イースト店に出勤するわけではない。


 まずは変わらず総務課の席に座り、引継ぎを行うのがメインの仕事だ。


 先日まであおいがやっていた仕事を、今は後任の小田桐このはがやり始めている。

 このははパソコンの入力作業が得意で、すいすいと業務を進行しているのであおいも安心して次々と引き継いでいる。


「これが一か月のだいたいのスケジュールです。いつも月初と月末に少し仕事が集中しますので、比較的時間に余裕がある月中頃に、年間で取り組む大きめの業務を進めておくと全体的にスムーズです」


「はい」


「たとえばよりどりぐりーんの経費などの数字は月末に黒沢課長や清野マリアさんのところにデータが集まってくるので、それを一覧にする仕事が来る可能性もあります」


「はい」


「ですから、自分の業務以外にもそういった月初と月末に起こりうる依頼を想定してスケジュールを組んでおくとよいかと思います」


「はい」


「それから、月初の営業販売課の会議に総務から黒沢課長も参加するんですが、その際にメモ役として参加することもあります。これは、小田桐さんもご存じかと思います。僕が参加したのって覚えてくれていましたか?」


「はい」


「あ、そ、そうですか。で、そのメモしたものを議事録にするテンプレートをつくってありまして、それはこちらのフォルダのこれになります」


「はい」


 あおいはまるで我慢大会に参加しているような気持ちになってきていた。


 営業販売課からあおいの後任として総務課に移動してきた小田桐このはは、入社二年目で、営業販売課では主に法人営業のサポート業務をしてきた。外回りをすることはなく、内勤でデータづくりをすることに集中していた。今回、営業販売課のメンバーに外回りの仕事を強化させる一環で、内勤向きのこのはは総務課でそのパソコンスキルを活かすべく、あおいの後任としてやってきたのだ。


 あおいは自分に後輩ができたようで嬉しく、この引継ぎをていねいに心を込めてやってみようと思っていた。


 引き継ぎ資料も丁寧に作った。毎月のルーティン業務の時系列ファイルは、月初のインデックスが付いているところのファイルを開くと、月初の業務が一つずつ印刷されたものにあおいの手書きメモをびっしりと書いてあるというものだ。


 マリアはこれを見たときに驚いて、「こんな完全マニュアルつくるなんてすごい!」とあおいを賞賛していた。


――きっと、小田桐さんは喜んでくれるだろう。


 そう思って、あおいは残業もしながらさまざまな引継ぎ資料を作った。


 そして、資料だけではなく、できる限り一つ一つの業務について口頭でも説明をした。


 しかし、それらに対するこのはの反応はとても薄いものだった。

 相槌はほとんど「はい」だけだった。


――魔法をプレゼントするわ。周りにもっと関心を持つのよ。


 「はい」だけという反応の薄さに腹が立ち、我慢ができなくなりそうになっていたあおいはその怒りをぐっと飲み込み、碧社長に言われたことを思い出した。


 周りにもっと関心をもつこと。


――小田桐さんに、もっと関心を持ってみようか。


 そう思ってあおいはもう少し小田桐このはに業務以外のことも話しかけてみることにした。


「ところで小田桐さんは、ご趣味は何ですか? お休みの日って何しているんですか?」


 そのあおいの質問に、初めてこのはは「はい」以外の返答をした。

 

 このははパソコンの画面を見たまま、姿勢さえ変えずに小さくため息をついた。


「別に……ないです」


 あおいは二の句が継げずにぐっと言葉に詰まってしまった。


 それを見ていたマリアが思わず吹き出した。


「ぶはっ。ご趣味って!」


 さらに向かいでも氷川主任がマリアと目を合わせて笑っている。


「いやいや、時田くんの最大限の努力を見させてもらって感激してますが、それにしても、突然趣味について聞かれたら小田桐さんも困ってしまいますよね。時田くんだってきっと、別にって答えるんじゃありませんか」


 氷川主任に言われてあおいは自分のこれまでの態度が、今目の前にいる小田桐このはにそっくりだったことに初めて気づいた。


「あ、そっか……」


 業務以外のこと、話しかけないでほしい。うざい。できれば誰とも話したくないんだ。


 あおいはそう思っていた。


 そういう自分は、外から見るとこのように見えるのか。

 そして話しかけた側は、このような怒りを感じるのか。


 あおいはあらためて、黒沢課長や氷川主任や清野マリアが、いかに自分を何度も許してきてくれたかをいま感じるのだった。


 見かねた清野マリアが小田桐このはにお菓子を渡しながら話しかける。


「まったくさー、うざい先輩だよねー、あの人。はい、これ、ちっちゃいカヌレ買ってきたから食べよ。私たち女子の分しかないのよ」


 このははそのマリアの申し出にはにっこり笑って、「カヌレ大好きです」と受け取った。


 あまりの違いにあおいはさらに混乱した。


 マリアが「会話ってね、言葉じゃなくて、空気なんだよ」と、ふざけてあおいをにらんでみせた。


「言葉じゃなくって空気?」


 おうむ返しに反応するあおいに、マリアは思わずふっと笑った。


「そ! 碧社長にさ、周りにもっと関心もちなさいって言われたのって、いろんな意味があると思うな、私。それは相手のことをいろいろ質問するのもそうだけどさー、相手が出してる空気にも関心をもったらいいんじゃないかと、私は思う!」


 マリアの力説に、氷川主任がのけぞって、「まあ、マリアさんの会話術はレベルが高いから、空気に関心をもつなんて高度なことは私には難しいですねえ」と優しくあおいを見た。


 そこへ外出先の黒沢課長から総務課に外線電話が入った。


 マリアが出ると、焦ったように「時田いる?」と大声を出す。


 あおいが電話を代わると雑踏の音にまぎれた黒沢課長の声が聞こえた。


「時田? 引継ぎのタイミングのいいところでイースト店に来てくれるか? 今ちょうど東区の用事の帰りに寄ったんだけどさ、春田が不在なんだけど迷子の子を預かっちゃっていて、誰か社員にここに居てほしいんだ」


「すぐ行きます」


 あおいはすぐさま引継ぎを中止して、イースト店に向かうことにした。


 わけのわからない胸騒ぎがした。


 黒沢課長の声が、聞いたことがないほどに震えていたからだ。


 



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