第22話 あおいくん、ボクを連れて行って!
「時田、今からイースト店に来てくれるか?」
電話の向こうの黒沢課長の声が、あおいにはやけに気になった。
聞いたことがないほどに震えていたからだ。
気にしてこちらを見ている氷川主任と清野マリアに、「なんかイースト店で迷子預かってるけど、春田さん不在だから来てほしいっていうんで、ちょっと行ってきます」とあおいは伝えた。
そのまま外出しようとするあおいを制するように、マリアが言った。
「一応、そのまま直帰できるようにしてから向かったら?」
あおいは、「まあ、すぐだとは思いますけど念のためそうします」と答えて、パソコンの電源を落とし、飲みかけのコーヒーがまだ半分入っている愛用の赤いマグカップを洗いに給湯室へ向かった。
なんだか変な胸騒ぎがする。
――迷子を預かったんだったらそのまま黒沢課長がそこに居ればいいのに。それに何で弁当屋で迷子を預かるんだろう。そして、どうしてあんなに黒沢課長の声が震えていたんだろうか……。
あおいは赤いマグカップを洗いながら、思わずぞくっと身震いをした。
――なんか、向かうの嫌だな……。
そして洗い終えた赤いマグカップを両手でぎゅっと握りしめた。
人けのない廊下の奥の給湯室。周りには誰もいない。
あおいは思わず赤いマグカップをつかんだままでひとり言を言った。
「あーあ。なんか一人で行くの、やだなー」
するとその瞬間、手の中のマグカップがぶるるるると震えた。
「うわあっ」
あまりに大きい振動に、あおいは驚いてマグカップを手から離した。マグカップはコロコロとシンクの中に転がった。
「あ、ごめん」
思わず、転がったマグカップを拾って両手で持つ。
「いや、ごめんっていうか、何言ってんだ。えっと、なに今のぶるぶるは……。そうだ、前にこのカップに話しかけられて返事してないからタイミング合えば話しかけようと思ったんだった。いや、でも、そもそもありえないし……。いや、けど今またぶるぶるって、何なんだいったい……」
パニックになっているあおいは、頭の中の考えをすべて声に出してぶつぶつとひとりごとを言っていた。
するともう一度手の中でマグカップがぶるるるるっと震えた。そしてそれはあおいの手を通して振動として伝わり、あおいの脳の中に声となって届いた。
「一人で行きたくないなら、ボクを連れて行って!」
「え……」
「あおいくん! ボクを連れて行って!」
「はい?」
「イースト店に、ボクを連れて行って! お願い、あおいくん、ボクを連れて行って!」
どう考えてもこれは錯覚ではないし、聞き間違いではない。
手の中の赤いマグカップがいま、自分に「ボクを連れて行って!」と連呼しているのだ。
こんなことが起こるわけがない、とあおいの脳は強く否定する。しかし、胸はドンドンと音を立てて早鐘のように打ち、これは現実なのだと告げていた。
そしてあおいは、自分の胸の鼓動のほうに、従うことにした。
「わかったよ。連れていくよ」
その瞬間、あおいの手の中の赤いマグカップの震えは最高潮になった。
その震えは言葉となって伝わらないが、まるで、むせび泣いているかのような感動が両手を通じてあおいの胸に伝わってきた。あおいはその嗚咽のような振動が自分の胸に伝わってくることで、自分も泣き出したいような気持ちになっていた。
――なんか、すごい喜ばれてるんですけど。
白昼の給湯室で自分がいま経験していることを、どう受け止めていいかわからない。
――信じてみる? どうする?
あおいの脳に確認の文字が浮かぶ。
――いや、信じるって無理でしょ。
理性がそれを押しのける。
しかし、それよりずっと大きい力で、
――連れていく! こいつめっちゃかわいい!!!
あおいの胸からあふれるような喜びが泉のようにほとばしるのだった。
それと呼応するように、手の中のマグカップもまた、あふれるような喜びをその震えであおいに伝達するのだった。
それはいつしか言葉になっていった。
「ぶるるるる、ぶるるるる、あおいくん、あおいくん、嬉しい、ボク、嬉しい、嬉しい、一緒にイースト店に行くの、嬉しい!!!!!!」
あおいはまだしつこく残る否定の思考を振り払うように、赤いマグカップをふきんで丁寧に拭き、ハンカチにくるんだ。
そして席に戻り、ハンカチにくるんだ赤いマグカップをこっそりバッグに入れた。
マグカップもまた息をひそめるように、こっそりとバッグの中に納まった。
「行ってきます」
現実離れをした浮遊感のまま、あおいはイースト店に向かった。
みどり食品の社屋から地下鉄大通駅の最寄り出口の1番口まで徒歩5分。そこから地下鉄東豊線大通駅のホームまで徒歩7分。そこから栄町行きの地下鉄に乗ってイースト店の最寄り駅まで乗車8分。
その間じゅう、あおいはずっとバッグの中のマグカップを、バッグの上から触っていた。
不思議なことに、そうしているうちに、だんだん自分のバッグの中にマグカップが入っていることを、受け入れられるようになっていった。
気持ちはだんだんこれから行くイースト店のことに向っていった。
そして黒沢課長は大丈夫なんだろうかとまた心配が募ってきた。
イースト店の最寄り駅で地下鉄を降りたあおいは、コンコースを歩きながらひとりごとをつぶやいた。
「なんでこんなに黒沢課長が気になるのか……」
すると、バッグの中からぶるるるると振動が聞こえてきた。よく聞き取れるように、バッグの上からぎゅっとマグカップをつかむ。
「ぶるるるる、それはね、『相手に関心をもつ』の魔法をはじめたからだよ」
「そうなの?」
マグカップの言葉に、あおいは自然に返事をする。
「そうそう。『相手に関心をもつ』はすごい魔法だよ。だから、黒沢課長が心配なんだよ。関心があるから、心配なんだよ」
「そっか……」
変化の真っ最中にいる人は、その大きな変化が認識できないことがある。
今のあおいがちょうどそれだ。
けれどもこうして指摘されるとわかる。
前ならこういう業務は、面倒だと思っていた。帰るのが遅くなるのは嫌だと思っていた。
ところが今はそれよりも、心配のほうが大きかった。
黒沢課長に何もなければいいんだけれど。
迷子の家族が迎えに来てくれたらいいんだけど。
増大する不安を抱えたまま、あおいは速足で歩いた。
やがてイースト店が見えてきた。
到着する前から、イースト店から女性の怒号が聞こえてきた。
その声の主は、小さい男の子に殴りかかろうとして大声でどなりつける、あの天女のような本田美咲だった。
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