第20話 見まごうことなき一条の光
「あなたの絵を見ました。あなたのその眼が、冒険に必要なたった一つのことだからよ」
時田あおいに、よりどりぐりーん四店舗の統括とイースト店店長兼務を伝えた天野碧社長は、そういってあおいをいつくしむように静かに見つめた。
「え? 絵? 僕の?」
「ちょっと調べ物があって、図書館で15年前の新聞を見ていたらね。あなたが最優秀賞を取ったときの記事を偶然見つけたのです」
「えっ」
「あのリンゴの絵」
「うわあ、びっくりです」
「私もびっくりしたわよ。時田あおいって書いてあるから。年齢的にもあなただとわかって。あなたは、あのリンゴをどのくらいの時間をかけて描いたの?」
「ひと夏…かかりました」
「そうなのね。すばらしいわ。あの絵には、あのリンゴがあの台所のテーブルのレースの敷物の上にごろんとのっているそのことのすべてが描かれていた。足し算も、引き算もされていなかったわ。リンゴの気配、リンゴの呼吸、リンゴのとまどい、全部描かれてた」
「リンゴのとまどい?」、横で聞いていた黒沢課長がいぶかしそうに口をはさんだ。
「そ。リンゴは、とまどっていたのでしょう、きっと。時田くん、あなたはそういうものを全部、私情をはさまずにただ見ることができるのね」
「え、なんでそれを。え、それがどうして、このことと?」
「こんなとびぬけた能力があっても、当の本人にとっては当たり前すぎてわからないのよね」
「ええと」
「その眼が特別だと言っているのよ。その眼で、よりどりぐりーんを見てちょうだい。そしてよりどりぐりーんが欲しがっているものを、あなたの手で授けていってほしいの。よりどりぐりーんが困っていることを、あなたが解決してほしいのよ。ただそれだけ。それ以外の面倒なことは、全部黒沢課長に相談してください」
「いや、俺も忙しいんですけどね。まあ、そういうことだ。四店舗の統括、よろしく頼むな」
「……」
あおいは、あまりに突然の内示に、大きな不安と動揺を感じるだけだった。
「そして現在の時田の仕事は、7月1日づけで営業販売課から小田桐このはがこっちに異動になるから引継ぎを頼む」
「小田桐さん……?」
「時田、何回も会議で近い席に座っていたけど、知らない?」
「ちょっと、ぱっとわからないです」
「これからはもう少し、周りに関心をもってくれ」
黒沢課長とあおいのやりとりを見ていた碧社長もうなずいて話し始めた。
「まさに、それなのよ。時田くん、あなたがこの冒険をするにあたって一つ魔法をプレゼントするわ。それは、周りに関心をもつことよ。周りに関心をもつということは、とてもあなたをパワフルにするから、やってごらんなさい」
あおいはぼうっとしてその言葉を聞いていた。何か感じたことのないエネルギーが足元から立ち上ってくるような気がした。
「じゃあよろしくね」と碧社長は部屋から立ち去った。
それを黒沢課長が「このまま空港直行ですか?」と追いかけていく。
そしてふと立ち止まり、あおいを振り返って言った。
「時田、これはおまえにとって、一世一代の冒険になる。困ったら俺が守るからな」
ふっと笑ってから黒沢課長は部屋から出ていった。
その黒沢課長の言葉を聞いて、なぜかあおいの瞳から涙がこぼれそうになった。
一人残された会議室で、あおいはその不思議な気持ちをかみしめる。
冗談じゃない、こんなの嫌だ、会社やめちゃいたい、という拒絶の気持ちと、面倒なことになったという気の重さが、あおいを憂鬱にしている。
しかし、そこには見まごうことのない一条の光があった。
――あなたのその眼が、冒険に必要なたった一つのことだからよ。
あのリンゴの絵をひと夏かけて描いたときの、世界征服にも似た静かな高揚。周りの影響をすっかり排除できたあのかんぺきな没入。
得たものを絵筆で表現していくときの、無我のあの眼。
あの眼のことを言っているのだ。あの眼が、きっと本当の僕なのだ。
あおいには、深い確信があった。
――これは本当に冒険かもしれない。僕が僕になる冒険かもしれない。
やってみよう、という情熱が、足元からお腹のあたりへ立ちのぼってきた。もしかしたらいま自分は、めちゃくちゃ喜んでいるのかもしれないとあおいは思った。
――周りに関心をもつということは、とてもあなたをパワフルにするから、やってごらんなさい
その碧社長の言葉はいま、魔法のようにあおいの心にスイッチを入れたようだ。
あおいは会議室を出て、自席に戻った。
昼休みはもうすぐ終わるところだ。
マリアは化粧直しにでも行ったのだろう。席を外している。
氷川主任が読んでいた文庫本から眼を上げて、心配そうにあおいを見た。
あおいは氷川主任をじっと見つめた。
そして思った。
――僕は、この人のことを何も知らない。
碧社長がプレゼントしてくれた魔法を、さっそく使ってみようと思った。
「氷川主任……」
氷川主任は、銀縁の眼鏡ごしにこちらを不思議そうに見ている。
「どうしました?」
「氷川主任、何の本、読んでるんですか?」
破顔一笑。
氷川主任は嬉しそうに革製のブックカバーを外して表紙をあおいに見せた。
「『赤毛のアン』です」
「ええっ」
意外だった。いつも難しそうな表情で几帳面に仕事をしている氷川主任が、昼休みに『赤毛のアン』を読んでいるとは思いもしなかった。
「めっちゃ意外です。お好きなんですか?」
「実は妻のものを拝借してきましてね。細かい情景描写が非常に美しいですし、大人になってから読み直すとマリラの気持ちが少しわかって、とてもいいんです」
「へえ、奥さんの。いいですね、そういうの」
「どうしても会社にいると情趣に欠ける忙しさで散文的でしょう。自分を守るためになるべくこういうのを昼休みは読みたいんですよ」
「氷川主任、格好いいっすね」
「ええっ?」
氷川主任が驚いたようにあおいの眼をまじまじと見つめる。
あおいの眼は、とても清らかにまっすぐに、氷川主任を見ていた。
そして自分でも、いま自分の眼が本来の活動を始めたことがわかった。
あおいの眼は、山奥の湖のようにただ澄んでいた。
その瞳で見れば見るほど、氷川主任の、氷川主任にしかない、彼だけのすばらしさが浮かび上がってくるようだった。
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