第19話 冒険に必要なたった一つのこと

「24番でお薬をお待ちの方、6番カウンターにお越しください」


 混雑している病院の薬局カウンターで順番を呼ばれた時田あおいは、お腹をさすりながら立ち上がった。処方された薬をもらい、会計をして病院を出る。


 昨夜から続いた急な腹痛は、いま何事もなかったようにケロリと治っていた。


 急性胃腸炎だと言われた。そういえば数年前にも同じ理由でこの病院に来たな、とあおいは思い返していた。あのときも会社を午前中だけ休んでここに来た。


 時刻は11時半になっていた。会社には13時に出社すると告げてある。薬を飲まなければならないから何か食べよう、とあおいは会社の隣にある蕎麦屋に入り、温かい月見うどんを時間をかけて食べた。


――なんだか変な日曜日だったな。

 

 あつあつの月見うどんをふうふうと一口ずつさましながら口に入れつつ、あおいは昨日のことを思い起こした。


――午前中、イースト店に行って。あのかわいい女の子と出会って。マリアさんとケーキ食べて。マリアさん泣いて。イースト店に戻ったらあのかわいい女の子は居なくて。せっかく東区まで行ったからひじきに会いたかったのに、連絡着いたのは夜遅くで。


 まだ多少チクチク痛む腹部を左手でさする。


――コロッケ弁当、初めて食ったけど、リピートしないだろうな。出来立てを近所の人が食べるなら美味しいけど、地下鉄に乗って持ち帰って数時間後に食べるものでもないな。


 なんとか月見うどんを食べ終わり、ゆっくりお茶を飲んでから、さっき処方された薬を飲む。


――急性胃腸炎かー。前回は、入社した年の夏だったかな。そうだ、あの頃、仕事に慣れなくて……、しかも吃音も出るようになったりして……、すごいストレスだったな……。ってことは今回も、ストレスなのかなあ。気づかないうちに、ストレスたまってたのか……。


 飲み終わった水のグラスをなんとなく両手でつかみながらあおいは考えた。


――「話しかけられて、返事してないことってない?」って、マリアさん、言ってたな。


 そして、それを自らに問いかけてみて得られたのは、「あのマグカップに返事をしていない」ということだった。


――いや、でも、あれは……。錯覚と言うか……。ありえないことだし……。


 あおいの脳内には否定的な思考しか浮かばない。しかし、その奥にもう一つ、思考ではない強い声があった。


――返事をしなきゃ……。


 それは、あおいにとって自分でも信じられないような奇妙な欲求だった。


――いや、でも……、まさか。


 相反する思考と欲求は昨日の昼頃からずっとあおいの中でぐるぐると渦巻くように主張を繰り返していた。



*** 


 

 出社したのは13時少し前だ。まだ昼休みで、氷川主任が文庫本を読んでいる。黒沢課長と清野マリアの姿はない。


「おはようございます」


 氷川主任が文庫本から眼を上げた。


「ああ、時田くん、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけれど」


「あ、すいません。急性胃腸炎でした」


「えっ! 無理はいけませんよ。今日は休んだらよかったのに」


「あー、もうけろっと治っちゃいまして。一晩の嵐が過ぎ去った感じで……。すいません」


「お昼ごはんは……?」


「あ、となりで月見うどんを……」


「それがいいですね。念のために今日は夜もおかゆか何かにしたほうがよいでしょうね」


「そうします」


「おかゆに、かつおぶしをかけると美味しいですよね」


「かつおぶし?」


「ええ、私は体調を崩すとおかゆをつくるんです。卵と、出汁と、しょうゆを少し。かつおぶしを上からぱらっとかけて、梅干しをおかずにして……」


「へえ、おいしそうですね。それやってみます」


 いつもなら、こういうやりとりが面倒で「はあ」だけで返していたが、今日のあおいは氷川主任のおかゆを自分もつくってみようと思った。


 自分の話をすっと受け入れているあおいに気づいた氷川主任は、銀縁の眼鏡を触って嬉しそうに少し口元をゆるめた。


 そこへ、コンビニの袋をもった清野マリアが帰ってきた。


「ただいまー。銀行混んでて遅くなっちゃったー! あ、あおいくんだいじょーぶ?」


「あ、昨日ありがとうございました」


「なに、あのあとお腹痛くなったの?」


 今朝、病院に行くので午前中休むというあおいの電話を受けたのはマリアだった。


「はい、急性胃腸炎でした。すいません。もう大丈夫です」


「急性胃腸炎ねー。ずばりストレスでしょう!」


「いやいやいやいや……」


 ストレスについて社内でなんとコメントしていいかあおいは言葉に詰まる。

 そして無理やり話題を変える。


「黒沢課長は?」


「まだ会議終わらないみたいですよ」


「おっそ。お腹すいただろうね~」


「えっ? 午前中の会議がまだ終わらないんですか」


「今日は朝9時からいつもの営業会議で。そのあと管理職だけで人事会議で、それがまだ終わらないみたいなのよ」


 マリアが片眉をつりあげて、会議室のほうを見る。


 するとまるでマリアの眼力が効いたかのように会議室のドアがキイッと開き、中からわらわらと管理職たちが出て来た。


 今日もぱりっとしたスーツに身を包んだ営業の白河課長がまず颯爽と現れ、後ろから出て来る黒沢課長の肩に手をかけた。


「黒さん、昼飯は?」


 黒沢課長は「あ、俺、弁当あるんだ」と言ってそれを振り切り、総務部のデスクの方へまっすぐ歩いてくる。


 そしてあおいをじっと見つめ、「お、時田来たな。体調大丈夫か? 無理だけはするなよ」と話しかけてきた。


「はい、すいませんでした。今はもう大丈夫です」


「そっか。じゃ、来てすぐ悪いけどちょっといいか?」


「あ、はい」


 黒沢課長はあおいを、さっき人事会議をやっていた会議室に連れて行った。


 会議室に入っていくと、そこには天野碧社長だけがいた。


「忙しいところごめんなさい。半休だったって聞いたけど、大丈夫?」


「あ、はい、すいませんでした。今はもう大丈夫です」


「お大事にね。ところで、さっそくなんだけれど、私このあと午後の便で東京へ行くのでしばらく直接お話しできないので、申し訳ないけどこのタイミングになってしまいました」


「はあ、えっと……」


「7月1日の人事発表は、このあとそれぞれの課の上長が今週の課会で行うんですがそれ以前に本人には私あるいは上長から内示と思っていたんです。あなたの場合は、黒さんからでも全然いいんだけれど、ちょっと直接お伝えしたくって」


「え……」


 今から何か言い渡されるんだ……ということだけをあおいは認識した。少し姿勢を正す。


「総務課、時田あおいさん。あなたには、7月1日からよりどりぐりーん四店舗の統括を任命いたします」


「へっ」


 場違いに情けない声が出た。脳が激しく解説を求めている。


「えっと、それって……」


 いつ、どのように、なぜ、どれくらい、誰が。

 疑問の洪水が激しくて言葉が出てこない。


「イースト店の春田くんが9月末退社になりますので、イースト店店長兼務となります。とりあえず7月1日からイースト店で店長業務の引き継ぎをしつつ、統括業務の開始をしていただく手筈となります。また、配属先としては総務課で変わりなく、今後も黒沢課長の管轄メンバーですので、引き続きよろしくお願いします。よって具体的業務については黒沢課長と決めていっていただきますが、あなたには今回の人事の意図だけ、直接私から伝えておきます」


 あおいはもはや驚きと解釈不能のエラー状態になった頭で何も考えることができず、ただ茫然と碧社長のよく動く赤い唇を眼で追う。


「今回の人事の意図。それは、あなたに大事な冒険をしてほしいということなの」


「ぼ、冒険?」


「そう。未知の領域へ進まなければならないこの時代において、みどり食品はこれからまったく誰も知らない時代への冒険の旅に出立しなければなりません。あなたは、よりどりぐりーんが、いいえ、みどり食品がこれからしなければならない冒険の、中心的英雄役として、いま召命されたの」


「はっ?」


「いや、こんな場面でそんな言い方ちょっと魔女っこが過ぎませんか」、黒沢課長が碧社長にささやいたが、それは完全に無視された。


「冒険。それは前例を覆していく恐ろしいものかもしれない。勇気も必要だし、反乱の恐れもあるわね。大切な冒険に挑む英雄には守護が必要ですが、守護役は私です。何かあれば私があなたを守護します。よりどりぐりーんは、新しい考え方のお弁当屋さんになっていかなければならない。そのために、これまで内部の人間には当たり前だとしか思えないものを打ち砕き、本質に沿ったものに変容させていく冒険が必要なの」


「ど、ど、どうして僕が」


 かろうじて一番の疑問を口にできた。


 碧社長は心得たように頷いて言った。


「あなたの絵を見ました。あなたのその眼が、冒険に必要なたった一つのことだからよ」



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