第9話 絵が大好きになったあの日
「俺、演劇をやってみたいんだ。だから銀行を辞めることにしたんだ」
ひじきの言葉はまったくの予想外だった。
そして、続いて発せらせた質問も、完全に予想外だった。
「あおいはどうしてそんなに絵が好きなのに仕事辞めて画家を目指さないの?」
直球だった。
まさかそんな質問が飛んでくると思わなかった。
あおいは熱いモカを飲んで心を落ち着けようとした。
ひじきは澄んだ栗色の瞳でこちらをじっと見つめている。
焼き菓子を食べて心を落ち着けようと手に取る。思い直して焼き菓子を置く。
何か言わなきゃ。
「え、ええと、銀行を辞めるって?」
「やだもう!」、ひじきはあらいぐまのぬいぐるみを抱っこしながらソファの上でひっくり返った。
「あおいっぴーてばまったく、こんなにわくわくする話題なのに、まず一番保守的なところから行くんだもん。あおいが一番興味があるのは、どうして俺がいきなり演劇やりたくなったかじゃなくて、銀行を辞めることなんだね」
ひじきも「ちょっと酸味補給」とモカを飲んでしばらく無言となった。
沈黙をやぶったのはあおいだった。
「だって……、せっかく大学出て、あんないい銀行に入って、今年で四年目で、成績もすごくいいって言ったでしょ、ひじき。これからどうするの? 収入がなくなったら、どうするの? 一人暮らしだし。実家は帯広でしょ。帰るの?」
「札幌にいるよー。札幌で演劇やるんだ、俺。あおい、演劇って見たことある? 俺、ストレートプレイって最近初めて知ったんだ。劇場で俳優たちが劇をやる。ただそれだけなんだけどさ。間近で見て、すっごい興奮したの。俺もやりたいって思った! 人生に光がさしたよ! もうぜったい志してみたい。自分の人生の時間をこれに費やしてみたい。そう思ったんだよー! あー、話してるだけでときめいちゃう」
「生活費は、どうするんだよ」
「バイト探すー」
「銀行に勤めながらじゃ、だめなのか?」
「土日にい? 違う違う。そんなんじゃない。趣味じゃないの。毎日、朝から晩まで、演劇のことをどっぷりやってみたいの。とことんとことん」
「怖く、ないのか?」
「めっちゃ、怖いよ。そりゃ。でも怖いってあたりまえでしょ。怖いってやらない理由になる? 俺ならないと思うんだけどなー。昨日さ、母親に電話してこれ言ったらさ、今のあおいとまったく同じ反応だった。大反対だった! 超うける!」
「怖いのに、お母さんに反対されてんのに、なんで?」
「そりゃあ、アンタ」、ひじきはソファから立ち上がってワンルームの部屋のど真ん中で仁王立ちになり、こぶしを天井に向かってつきあげて言った。
「夢が見つかったってやつ!」
あおいは、その大げさなポーズを取る友人を、感動して見つめていた。こんなに破天荒で、自分と正反対の発想をする人物が、なぜ我が家でこぶしをつきあげているのか理解できないが、なんだかとてもいいものを見せられているような気がした。
「はい、そしてあおいっぴー。さっきの質問の答えをまだ聞いてないよ」
勇者のようにつきあげたこぶしをおろし、優雅にソファに座りなおしたひじきは、じっとあおいを見つめてそう言った。
――どうしてそんなに絵が好きなのに仕事辞めて画家を目指さないの?
さっきひじきに聞かれた質問があおいの頭の中に響いた。
そして自分が絵を好きになった日のことを思い出した。
あおいは絵を好きになったのは、小学生のときだった。市の小学生を対象とした絵画コンクールで優勝したあのとき。市役所の応接間に招かれ、市長さんから賞状をもらった。
それはリンゴの静物画だった。
実家の台所のテーブルにかけてあるレースのテーブルクロスの上に転がるリンゴを描いたものだった。ひと夏かけてていねいに描いた。レース模様のところは本物をよく観察して細かく描いた。リンゴは赤と黄色と白と黒の絵の具を何度も重ね塗りして本物のリンゴの皮の色のように描いた。画面左の窓から差し込む光と、それがつくる影を、時間をかけて表現した。こんなに凝視されて、リンゴがとまどっているかのように見えたが、「描かせてね」とお願いしながら、時間をかけて丹念に描いたのだ。
「時田くん、優勝した感想を教えてください」
あのとき、市役所の応接間で写真を撮りに来ていた新聞社の人にそう聞かれた。
「また、リンゴを描きたいです」
そう答えた。
「時田くんは、リンゴが好きなんだね!」
新聞社の人はそう言って笑った。
そうじゃないよ、とあおいは思った。そうじゃない、リンゴを今回描いたけれど納得がいっていないから、もっと完全にリンゴを描けるようになるまで描きたいということを伝えたい。けれどもそれをどう言葉にしたらいいかわからなかった。
母親も、「あらあら、この子がこんなにリンゴが好きだなんて知りませんでしたわ」と言って笑った。
帰り道に寄ったショッピングセンターの敷地でフリーマーケットをやっていて、雑貨や服の展示が立ち並ぶなかに、リンゴの絵が描かれた真っ赤なマグカップがあった。
つやつやしていて、そのマグカップ自体が果物のようにみずみずしく美しい赤色だった。
母親は「あら、リンゴのマグカップよ。今日の記念に買ってあげようか」と提案した。
あおいは、それも悪くない、と思った。今日という日はあおいのこれまでの人生の中ではわりに輝かしく、まるで楽園のような日のように感じられた。この日をそのまま冷凍保存しておくことはできないのだから、その代わりになるものが欲しい。この赤いマグカップはちょうどいいかもしれない。
「うん、欲しい、買って」
母親はにっこり笑って、「まあ、こんなにリンゴが好きだなんて、ママ知らなかったわ」と言い、その赤いマグカップは包装されリボンをつけられてあおいのものになった。
以来、現在までの長い付き合いだ。
そしてそれは、絵を描くという喜びを知ってからの年月にもなる。
リンゴの絵で優勝をしてからというもの、あおいはどんなものでも絵に描いてみたいという欲求を持って暮らすようになった。
目の前にあるものの、輪郭をかたどり、色彩を再現する。立体感や、陰影、質感や、そこに漂う雰囲気までをどう表現するか。それは終わりのない楽しいチャレンジであり、ずっと続けていきたい人生の喜びだった。
モノには風合いがあり、表情があり、年季の奥行きがあり、うたがある。
それをまるごと描写することができたら、どんなにいいだろうとあおいは何を見ても思うのだった。
それは長い年月をかけてとても静かに調教されて控え目に均質化された欲望となり、あおいの人生の土台をほの暖かく燃やす喜びのアンダートーンとして定着した。
しかし仕事と家の往復の日々で味わう無味乾燥で散文的な感覚が、そのアンダートーンをすっぽりと覆い、職場では感情をオフにして最低限のことをこなし、心を無にして地下鉄の吊革につかまり、コンビニでスマホ決済することに心地よさを感じて生きている。
――どうしてそんなに絵が好きなのに仕事辞めて画家を目指さないの?
ひじきの質問に答えるため、あおいはあまり思い出したくない過去の事件について、話したほうがいいかと思ったが、その気にはなれなかった。
「なんでだろうね。人間とは不思議な生き物っつーことよ」
そんなふうにはぐらかした。
ひじきは「ふうん」とソファにどかりと沈み込んだ。
そして、「なんかごめんね」と小さい声でつぶやいてから、あらいぐまのぬいぐるみに向かって、「俺ってちょっと繊細さに欠けるわよねー。あらいぐまちゃんもそう思うでしょ。ばかばか」とぬいぐるみのほっぺをふにふにとつまんだ。
あおいはひじきからあらいぐまのぬいぐるみを掴み取って、あらいぐまの顔をひじきに向けた。
「ぼくのほっぺ触らないでよ、ひじきくん。どんぐりがつぶれちゃう」
「ぐあーっ、おまえはリスだったのかあああ」
ひじきはあらいぐまをさらに奪い取って抱きしめた。
あおいは声をあげて笑った。
それから二人はつまみを作り、ひさしぶりに夜遅くまでのんびり語り合った。
このときのあおいは、二日後の月曜日の朝に自分に起こることをまだ何も知らなかった。
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