第8話 直球の質問が来た
――うう、具合悪い……。
昨日の青空からは打って変わって曇天の土曜日。
あおいがようやく起きたのはもうすぐ正午になろうとする時間だった。
地下鉄駅からほど近い賃貸マンション7階の1ルーム。東向きの窓から朝日が入ってくるので、あおいはカーテンをいつも半分ほど開けて寝る習慣がある。厚い雲が低く垂れこめているのが窓から見える。
ベッドサイドの木製テーブルの上で、さっきからスマホが鳴っている。
――きっと、ひじきだな。
重い頭を上げてスマホの画面を覗くと、やはり着信の相手は高校時代からの友人である土方輝一だ。ひじかたきいち。略してひじきと呼んでいる。土曜のこの時間に電話をかけてくる友人は彼ぐらいしかいない。
「はい……」
朝いちばんに出した声。低い。
「うわ、寝起きっぽい声。おはよー」
ひじきの声が、二日酔いの頭にやさしく響く。
「あー、具合悪くて」
「え、どしたの。だいじょうぶ?」
「ビール三缶も飲んじゃって」
「あおいがそんなに飲むなんて珍しいね……。なにかイヤなことでもあったの」
「実は昨日……」
「なあに」
実は赤いマグカップが、と言おうとしてやめた。あれは思い過ごしだ。気のせいだ。
「いや、ようやく平日が終わって嬉しくてさ、つい冷蔵庫のビールを全部飲んじゃった」
「えー! なにそれー」
ひじきは女の子のようにきゃぴきゃぴとした笑い方をする。
笑い方だけではない。
高校の入学式でひじきを始めて見たとき、その外見の美しさにびっくりした。
まるでビートルズのような耳まで隠れる長めのマッシュルームカット。なで肩の細い体。あおいも身長は高くない方だが、ひじきは背の順で並ぶときはほぼ一番前だ。あおいより7センチ低い。
そしてひじきはとても個性的な声をしている。
「ひじき、って呼んでください♪」とその声で発した瞬間、周りは電流が走ったようにその魅力に取りつかれた。まるで声変りをしなかったような高く愛らしい声。まるで天使のようだとすぐに周りの女子からちやほやされるようになった。
同じクラスになり、どの科目の試験でも満点かそれに近い点数を取るひじきは、頭の良さでもみんなから憧れられた。女子がファンクラブを作り、ひじきの靴箱にはしょっちゅうラブレターまがいのものが放り込まれるようになった。
どの部活にも所属しようとしないひじきに、いろんな部活から声がかかったが、ひじきはさらさらしたマッシュルームカットの頭をただ横に数回振るだけだった。そしてどこからも声がかからなくなった頃、同じくどの部活にも属さないで教室でいつも本を読んでいるあおいに、ひじきの方から近づいていったのだ。
ひじきは、缶ビールで二日酔いになっているあおいのことを、女子のようにきゃぴきゃぴと笑い飛ばしてから言った。
「で? 今日は何してるの? またお絵かき?」
高校時代からの唯一の友人と言えるひじきは、あおいの週末の過ごし方をよく知っている。
「どうせ、あれでしょ。今からサンドイッチでも食べて、たまったもの洗濯して、ちらかった部屋を掃除して、夕方くらいからお絵かきって感じ? 夜は空いてるの?」
ひじきは週末になるとしょっちゅうこうやって電話をかけてきては、夕食の材料をぶらさげてあおいの家にやってくる。そして遅くまでぐだぐだとしゃべって終電で帰っていく。そういえばここ数週間かはそれをやっていなかった、と気づいた。
「今日は、絵は描かないから、夕方からおいでよ」
電話を切り、ひじきが予言した通りの行動をする。
昨夜買ったサンドイッチを食べて、洗濯機を回して……。
それから部屋を片付ける。ひじきに見つかったらまずいものはないか見回す。
あおいは、ひじきに会う前にいつも少し緊張する自分に気づく。
高校一年のクラスで出会ってからもう十年以上の仲だが、なぜひじきが自分と一緒にいるのかよくわからないままだ。
高校時代の土方輝一といえば、その美しい外見と成績優秀な頭脳を兼ね備えたスーパーアイドルだった。たしか近所の女子高生からもアプローチを受けていたし、クラスでも人気の存在で、いつも明るく冗談をいっては周囲を盛り上げていた。
あおいは、といえば部活には入っておらず、いつも学校帰りにドーナツショップで本を読んでいるような地味な高校生だった。
たしかきっかけは読んでいた本だった。なんの本だったっけ……と、掃除の手をとめて本棚を探してみる。読み込んだ文庫本が並ぶ中に、思い当たる本はなかった。たしか、村上春樹だったか、トルーマン・カポーティだったか。村上春樹の訳本の何かかもしれない。とにかく読んでいた本がきっかけである日ひじきが話しかけてくるようになり、辞書を貸したり、宿題を見せたり、映画の話をしたりするようになって、卒業してもときどき週末にあおいの部屋の本棚を見つくろいに来るようになったのだ。
同じ大学に進んだが、学部は違った。木々が豊かに広がる広大なキャンパスだったので、学部が違うとまったく会うことはなかったが、ときおり構内ですれ違う時には長い立ち話をした。
卒業すると、ひじきは銀行に、あおいはみどり食品に就職した。疎遠になるかと思ったが、ひじきは数週間に一度はこうして電話をかけてきて、土曜の夜を一緒に過ごした。
――こういうの、くされ縁っていうのかね。
ひじきに対して、スクールカースト上位の同級生と一緒にいる緊張感を、いまだにぬぐうことができずにいたが、こうして自分を訪ねてくれる友人がいることには、穏やかな喜びを感じていた。
――とにかく片付けよう。ひじきが来てしまう。
少し手をつけ始めるとどんどん加速がついてさくさくと掃除がはかどった。
掃除は単純作業だ。あおいの脳裏にさまざまな思考が次々と浮かぶ。
黒沢課長は無事に東京からの社長のお客さんを空港に迎えに行ったのかな……。
氷川主任はファーストフラッシュを今週末飲むのかな……。
清野マリアさんはデート上手くいったんだろうか。
そして……。
赤いマグカップが話しかけてきたこと、楽園で王国をはじめよという夢を見たこと、に思考が及ぶと、あおいの脳は警告を出してきた。
――あまり考えないようにしよう。あのことは忘れよう……。
そのあとは普段やらないようなところまで拭き掃除をしたりして、作業に集中した。
「わーひさしぶりー。うわ、あおい、痩せた?」
夕方になり、ひじきが両手に食べ物飲み物を持って玄関に現われた。ぶかぶかの白いシャツにジーンズ。着ている白が顔に映っているからか、ますます色白に見える。まるで天使のようだ。これで背中に羽根があっても何の違和感もないビジュアルだ。
しかしその天使はなぜかねぎが飛び出した買い物袋と、水滴のついたワインとビールが入ったエコバックを両手に提げている。
「えー、痩せたかな。わかんない」と、スリッパを出す。
「スリッパ、やだ」と、ひじきは靴下のままぺたぺたと上がり、ソファにどかっと座り込んだ。
「ねー、あおいー。あおいっぴー」
「いろいろ買ってきてくれてありがとう。え、なに?」
「仕事、どう? 最近」
「いきなりだね。まあ、なんか飲もうよ。コーヒーでも淹れるよ」
「ありがと。ねー、仕事どうなのさ」
「うーん。あんましよくない」
あおいはキッチンに立ち、コーヒーの粉を缶からスプーンですくってコーヒーメーカーにセットする。あおいの家の家電はぜんぶ白いもので揃えていて、このコーヒーメーカーも白だ。
藍色のソファに沈み込んでくつろいでいるひじきは少し驚いたような表情になる。
「よくない? なんで? みどり食品って雰囲気よさそうでいい感じがするけど」
「雰囲気はいいかもしれないけど……」
「じゃあいいじゃん。仕事大変なの?」
「仕事はまあまあ楽かもしれないけど……」
「じゃあいいじゃん。じゃあ、給料的なことか?」
「給料もまあまあありがたい額だけど……」
「じゃあなんで全然楽しくないんだよ!」
あおいは言葉に詰まった。
「うーんとね、楽しいとかそういうんじゃない。仕事はけっして楽しくはないよ。ひじきもそうじゃないの? 仕事なんてさ、とにかく、平日五日間そつなく働いて、最低限やってダッシュで帰る。その繰り返し」
「げ。なんか、かえってしんどくない? そういうの」
「ちょっ、なんだよひじき。来たそうそう」
ひじきは「だね。ちょっと前のめりちゃんでした。わは」と笑って、ソファにどっかりと寝ころんだ。ソファのあらいぐまのぬいぐるみを抱っこして「あらいぐまちゃんもそう思う? ひさしぶりでちゅねえ」と話しかけている。
あおいはコーヒーメーカーがポコポコと音を立てている横で、白いマグカップを二つ出してトレイに置いた。
コーヒーをたっぷり注いで、焼き菓子をつけてひじきに出す。
「はい、モカだよ」
「あっ、モカいいね。俺一番モカが好き。やっぱりさあ、一周回って結局モカだよね。結局酸味よね。これ円山公園のチョコレート屋さんの焼き菓子でしょ。好き好き」
こういうところがひじきの人たらしのところなんだろうなあとは思う。会社でもきっとこうやって円滑な人間関係を築きながら仕事をしているんだろう。
「ひじきは? 仕事どう?」
その質問にひじきはコーヒーを飲んでいた手をとめ、あらたまって座りなおすと真顔になって言った。
「聞いてくれる? あのね、あー早くこの話がしたかったの!あのね、俺、銀行辞めることにしたの」
「えっ」
「あのね、あおい。俺、演劇をやってみたいんだ。そのことに気づいたの! だから銀行を辞めることにしたよ」
驚きのあまりあおいは口をぱくぱくさせることしかできなかった。
「そんなに驚く? すごいシンプルなことでしょ? 変かな? じゃあさ、あおいはどうして絵が好きなのに仕事辞めて画家を目指さないの?」
ひじきはあおいの眼をまっすぐ見て、直球の質問をした。
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