第7話 楽園の夢
ビールを三缶飲んで泥のようにぐっすりと眠りこんだ時田あおいは、不思議な夢を見た。それはこれから起こる何かを象徴しているような、奇妙な舞台設定の夢だった。
***
僕は楽園にいる。
美しい花畑を、裸で歩いている。
恥ずかしい気持ちなどない。
誇りだけがあった。
光は完全なる味方だった。
全身をいつくしむように穏やかな陽射しが降り注いでいる。
甘い匂いのする風はほんのり暖かく、色彩豊かな花々が咲き誇る。
そこにはただ幸福感だけがあった。
心から満ち足りている。
こんな気持ちになれる自分がいるなんて知らなかった。
はじめての気持ちかもしれない。
いや、どこかなつかしい感じがする。
そうだ、昔この楽園に住んでいたのかもしれない。
かすかな記憶がよみがえる。
あの頃は、こうしてみんな裸だった。
いつも甘い匂いの風が吹いていて、なにもかもが愛しかった。
心の奥にある誇りからすべてが生み出された。
愛が生み出され、文明が生み出された。
風が生み出され、言葉が生み出された。
そうだ、ずっとここにいた。
ここはあまりにも幸せで、そして退屈だった。
ほんの退屈しのぎのつもりで、
すべてを忘れるゲームをしたんだった。
すっかり忘れていた。
ゲームだったのだ。
ああ、とても眠い。
いま夢の中にいるのに眠い。
どうしたことだろう。
この美しい花畑で、少し眠ろう。
「あーなたさまー、あーなーたーさーまー」
ふと誰かの声が聞こえて夢の中で目を覚ました。
きらめく鋭い光が足元を横切った。
それは銀色に光るヘビだった。
銀色のヘビはうやうやしくおじぎをして、「おお、ついにおでましなされたーあーなーたーさーまー」と言った。
「君は……」
銀色のヘビはこちらの問いに答えるのを辞退するようにおじぎだけを返した。
そして「おお、神の恩寵よー、おはこびくだされー」と楽園の奥へ先導していく。
するするするする。
銀色のヘビはキラキラと光りながらどんどん先へ進んでいく。
「待てよ、どこへ行くんだ」
「玉座におはこびくだされー」
「ぎょくざ?」
「はあ、この国の、王様がお座りになられたてまつるところにて」
「この国の王……」
「ようやくようやくこの国のはーじーまーりー」
なんかわかんないけど、僕が王様ってこと? とあおいは心がときめいた。
銀色のヘビについていく一歩ごとに、胸が高鳴っていく。
「もうすぐにてござりまするー。この森を抜けますると、お城がござりまする。ああ、神の恩寵、奇跡の瞬間。みなでお待ちしておりました。さあ、まずはここで黄金の林檎のしずくをお飲みなされませ」
「黄金の林檎のしずく?」
「ほら、あのように赤いカップに入ってあの立派な木に鈴なりになっているではありませんか。ここではみんなあれを飲んでゆたかに暮らしておりまする」
銀色のヘビはそう言ってあおいを大きな大きな木の下に連れて行った。
その木にはいくつもの鮮やかな赤いマグカップがたわわに実るように枝をたわませて鈴なりになっていた。
その一つ一つに見慣れたリンゴの絵があった。ずっと愛用しているあの赤いマグカップと同じマグカップが、枝という枝にずらりと何百もなっていた。
ここが、あの子の里なのか、とあおいは思った。
そうか、あの子はここの出身なのか。ここで仲間のみんなとこうして暮らしていたのか。あおいはなんとなく合点がいった。
それなら納得だ。生き物だったのだ。ほら、みんなあんなにつややかに赤い色をして気持ちよさそうに風を受けている。
その大きな木の太い幹の下の方には四方八方に根が伸びていて、地上にうねうねと出ている。あおいはその地上に伸びた根が出っ張ったところに腰掛け、なんとなく根を撫でた。
すると、頭上のあらゆる枝から何十何百というマグカップがいっせいに話しかけてきた。
「ぶるるるる……」
「ぶるるるる……」
「飲んでください」
「僕たちのしずくを」
「飲んだら王様のしるし」
「飲んだらお国のはじまりだ」
「さあ、王様。お飲みください。黄金の林檎のしずくを!」
僕は激しい恐怖を感じた。
なんか違う気がする。
理由のない強い拒絶が沸き起こる。
「しずくをひとすすり」
「それがあかし」
「それがはじまり」
何百という赤いマグカップが、次から次へと輪唱のように話しかけてくる。
その数が多すぎて、熱意の圧迫が強すぎて、あおいはとにかく逃れたかった。
拒絶しかしたくない。
「……これは、飲んじゃいけないやつだ」
いつの間にか近くに来ていたヘビが、うやうやしくおじぎをすると、首を高くもたげて大きな口を開け、真っ赤な長い舌を空中に伸ばして叫んだ。
「神の恩寵よ!」
銀色のヘビはその長い体であおいの周りをすすすと一周したかと思うと、そのままぐるぐる巻きにあおいの体をしめるのだった。
「奇跡の瞬間よ! さあいま、王となりしお方が、黄金のりんごのしずくを、お飲みになーらーれーたーてーまーつーる――――」
そう言いながら銀色のヘビはぎゅうぎゅうとあおいの体をしめる。
「痛い! やめて! やめて!」
満身の力を込めて、銀色のヘビを体から引き離す。
「やめてよ、そんなの飲みたくないよ。普通に暮らしたい!」
「こここそあなたさまの居場所にてござりまする……、あなたさまが主役の世界をはじめるときが来たのでござりまする……、なのになぜゆえ」、不思議そうに銀色のヘビが言った。
言いながらしゅるしゅるとあおいの体から離れていく。
あおいは大きくせき込んでから、ようやく深呼吸した。
「ああ、もう、やめて。主役なんていらない。脇役でいい。目立たないで、最小限だけのことをさせてくれ。誰にも心を開きたくないし、この世界に居場所なんていらないんだ。もう帰してよ、元の世界に」
「居場所がいらない? ではすてきな仲間も、ゆたかな会話も、誰かと生きる喜びも欲しくないのでございまするか? まさかそんな……」
「そうだよ! 失って傷つくくらいなら最初からいらないよっ! 」
「おお、神の恩寵が心の傷を恐れるなど……」
「もちろんだ。もう嫌だ」
「神の恩寵よ、心の傷は神のくださりしものにてござりまする。傷ついて、そして喜びを得て。上昇と下降。罪と罰。生と死。これらのコントラストがあるからこそ、人生において自然の全体性を感じられるのではありませぬか。そのためにお生まれになられあそばしておられまするゆえ……」
「なんだか難しくてわかんないけど、人に心を開くのは嫌なんだよ。嫌な思いしたことあるから、もうあんまり信じてないんだ」
「誰一人、信じておられないと……?」
「いや、友達が何人かいるし、家族もいるけど。でもそれ以外は必要ない。特に会社でなんて、無防備に心を開けないよ。とてもじゃないけど。悪いけど、じゃあね!」
僕はそこから逃げることにした。
楽園から帰るドアはどっちだろう。
とにかく、銀色のヘビに先導されて歩いてきた道を逆向きに一目散に走って戻った。
――戻らなきゃ、戻らなきゃ、あの普段の日々に、戻らなきゃ。
後ろから銀色のヘビが何かを叫んでいたような気がしたがとにかく走った。
大きな木からマグカップたちの大合唱が聞こえていたような気がしたがそれも振りきってただただ走った。
ぬかるんだ草地はぶよぶよして走りづらい。
どんなに走っても景色が変わらない。
それでも走るしかないと思った。
少しずつ、光が変わり始めた。
ふんだんに降り注いでいた穏やかな陽射しが徐々に曇り、楽園は薄暗くなっていった。
気がつけば、いつもの自室のベッドで、あおいは二日酔いの土曜の朝を迎えていた。
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