第6話 赤いマグカップが話しかけてきたんですけど
甲高い声で怒っていた女性のお客様。
あのお客様に折り返しの電話をしなければならないのに、電話番号のメモはどこへ行ったんだろう。
あおいはなんとか思い出そうと、神様に祈った。ご先祖様に祈った。仏様に祈った。
そして、ふと目についた長年愛用の赤いマグカップにも祈ろうと思った。
ずいぶん年季の入ったマグカップの、リンゴのイラストをじっと見つめる。
あおいはマグカップを両手で握りしめ、体中のエネルギーを集中させて祈った。
――マグカップ! リンゴちゃん! 教えてくれ! メモはどこへいったんだ!
しーん。
誰もいない事務所に沈黙だけがあった。数秒間の静かな時間が過ぎた。
ふと、我に返った。何やってんだ……、ついに頭がおかしくなったか……。
そのときだった。
あおいの両手の中の赤いマグカップが、激しく震え始めた。
「ぶるるるる、ぶるるるる……」
まるでバイブレーションモードにしているスマホが着信したときのように、手の中のマグカップがぶるぶると震える。
「えっ」
「ぶるるるる、ぶるるるる……」
「へっ?」
「ぶるるるる、ぶるるるる、メ、メ……」
「え……、なに?」
「ぶるるるる、ぶるるるる、メ、モは、わりばしの袋」
ダン!
あおいは椅子がひっくり返るほどの勢いで立ち上がった。
そうだ、そうだ、わりばしの袋!!!!!
あおいは黒沢課長の椅子にぶつかり、コピー機の電源コードにつまづきそうになりながら、オフィスの奥にあるゴミ箱のところまで猛ダッシュで走った。
そして、ゴミ箱の中の弁当の空き箱が入った袋を引きちぎるようにして開き、その中から出て来たわりばしの袋をひっくり返した。
そこには自分が書いた、電話番号のメモがあった。
ミツハシ様 〇〇〇―〇〇〇〇 サウス店 チキントマト2
――あった!!!!!
震える手でなんとかごみ箱にごみを戻し、ふらふらと立ち上がって自席へ戻り、その電話番号に電話をかけた。
「ミツハシ様、お待たせいたしました。みどり食品の時田と申します。大変失礼いたしました。明日、サウス店にてチキンのトマト煮弁当二名様分、ご用意しております。ごっ、ごっ、ご来店お待ちしております。ご予約、ありがとうございますっ」
あおいにしてはめずらしくすらすらと、そして、やけに大きい声が出た。
電話の向こうのミツハシさんは、嬉しそうだった。
「あなた、時田さんっていうのね。どうもありがとう。よかったわ……。これで明日は楽しめそうよ。さっきはごめんなさいね。いつも応援してますよ、みどり食品さん。古い友人が働いているから……、いえ、それはいいんですけれどね……、言っても仕方ないことですし……」
あおいはミツハシさんの言っている内容にはもはや耳を傾けられず、ただ無事に伝達する責務を果たしたという安堵のままに通話を終了した。
受話器を置いて、ふう……、と大きなため息をつく。
――ああ、これで、週末が迎えられそうだ……。さあ、帰ろう……。
パソコンの電源を落とし、机の上の書類を片付ける。そして赤いマグカップを洗おうと手にした。
――あれ?
さっきテンパっていろいろ祈りまくっていたときのことが脳裏によみがえる。
――さっき、この、赤いマグカップ、話しかけてきた?
さっき、確かに振動していた。そう、たしか……。
ぶるるるる、ぶるるるる……、メモは、わりばしの袋……。
――え……。
赤いマグカップを両手で持ってじっと見つめる。
――おまえが、話しかけてきたの?
マグカップは大きくぶるるるるっと震えた。
「うわあっ」
思わずびっくりしてマグカップを放り投げた。さいわいマグカップの中身は飲み干されており、グレーのタイルカーペットの上にコロリと転がった。
そのマグカップをじっと見おろす。
――いや、まさか。ありえないでしょ。マグカップがしゃべるわけない。
脳内での記憶がよみがえるのと、マグカップに触ったのが同時だったからそんな気がしたんだ。ぶるっと震えたような気がしたのは、きっと寒いんだ。体が冷えているんだ。ずっと座りっぱなしだったから。
そういういろいろなことが重なって、まるでマグカップが話しかけてきたように感じるんだ。ということは、ちょっと疲れてるんだ。
あおいは頭をフル回転させて、いちばん常識的な解答を導き出した。
「きっと疲れてるんだ。そうだ、そうだ、すごく疲れてる。帰るぞ、は、早く帰ろう」
わざと大きな声で独り言を言うと、もうその赤いマグカップに意識を向けないようにしてさっと洗って拭き、食器棚にしまうと、逃げるように退社した。
***
その後、みどり食品の社員は全員が退社し、社屋全体の照明が落とされて真っ暗になった。
その社内に、ささやかな音がし始めた。
それは二階奥の給湯室の、食器棚の中。
「ぶるるるるる……」
「そんなに泣くなって、割れちまうぞ」
「ぶるるるるる……」
「よかったですわねえ……」
「ぶるるるるる……、ふえっ……、ぐすん……」
「まあ、あなたそんなに激しく震えたら割れちゃうわよ」
「ぶるるるる……、ふえっ……、ボク……、ボク……」
「信じられねえなあ。おまえ、やったじゃねえか!」
「本当に……、すごいですわ」
「ぶるるるるる……、ふえっ……、ぐすん……、ついに……、あおいくんと……、ぶるるるる……、ぶるるるる……、話した…………、えええええええん……、ええええええん……」
赤いマグカップの震えは止まらなかった。
こみ上げてくる感情を制御できなくて、激しく震えていた。
その夜は遅くまで、みどり食品二階給湯室の食器棚の中から、震えるような音がいつまでも聞こえていた。
***
あおいはあまりのことにショックを受けて、機械のように後片付けをし、会社を出て、地下鉄に乗った。地下鉄の中のいつもの風景が救いだ。
見知らぬ人々と共に、無機質な表情で吊革をつかむと奇妙な安心感があった。
誰もが無言でスマホをのぞきこんでいる。自分に関心を払う人はいない。そのことが今のあおいにとってはほっとできる環境だと感じられた。
自宅最寄り駅で地下鉄を降りた。
いつものコンビニに寄る。
この時間にはおしゃべりなおばさん店員と、男子学生らしき無口な店員が二か所あるレジにそれぞれ立っている。あおいはいつも男子学生の方のレジに並ぶ。疲れているときに話しかけられるのはストレスだから、それを未然に防ぎたいのだ。
案の定、男子学生らしき店員は、こちらの眼も見ずに会計を済ませ、聞こえるか聞こえないかの声で「ありがとうございました」の短縮形のような言葉を発して、あおいの後ろに並んでいる次の客に目線を移した。「おまえのターンは終了。とっとと失せろ」と言われた気がして、商品を手に取ってさっさと店を出る。こういうときに数秒でももたもたしたくないから、すべてスマホで会計するようにしている。レジはサクサク進む。ぞんざいな扱いかもしれないが心地いいリズムだ。しゃべりかけられるよりよっぽどいい。
もうひとつのレジでは一人一人におばさんが明るく話しかけている。それに対して客たちもほがらかに答え、笑い声が起こったりしている。レジの列はいっこうに進まないが、誰もがのんびりした表情だ。客同士も「あら、おひさしぶり」などと話したりしている。
こちらの無口でスピーディな列と比べると非常に対極的だ。
ここに社会の縮図があるみたいだな、とあおいは思った。そしてこちらの無口でスピーディなレジの列のほうが断然好きだなとも思った。
買ったのは、夕食と明日の朝食。
今夜のパスタと、明日の朝のサンドイッチ。
女子かよ、と思うような量だがこれ以上食べる気にならない。
今夜はとにかく何も考えないで眠ってしまおう。
明日は休みだ、心と体を休めなきゃ。
コンビニから歩いて五分のところにあるワンルームマンションに帰宅したあおいはサラダ仕立ての冷製パスタを食べ、冷蔵庫にあった350ml入りの缶ビールを三缶全部飲んで、泥のようにぐっすり眠った。
そしてあおいは、不思議な夢を見た。
それはこれから起こることを象徴しているようにも、あおいの心の奥のもう一人の自分の心を象徴しているようにも思える、奇妙な舞台設定の夢だった。
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