第5話 メモはどこへ行った
鳴り続ける電話に誰も出ないのが分かると、時田あおいはしぶしぶ受話器を取った。
「お、お待たせいたしました。みどり食品総務課でございます」
電話の向こうの女性の怒りに満ちた声があおいの耳に響いた。
「もう、いつまで待たせるのよ!」
退社時刻間際のやばそうな電話に出てしまった。
とにかくこともなくこの通話を行うことに注意を集中しよう、とあおいは姿勢を正して受話器を強く握った。
「はい、大変お待たせいたしました」
「だから! いつまで待たせるのって言ってんのよ。ねえ、その声、さっきの人なんでしょう?」
そういえば、ヒステリックなその女性のかすれた声には聞き覚えがあった。
「あっ!」
あおいは完全にど忘れしていたことを、いま明らかに思い出した。
「さっきの電話の人の声よね。お昼過ぎに私が電話かけたら『調べて折り返します』って言ったの。私あれからずーっと待ってるのよ。どうなったのよ! 」
そうだった……。
昼休憩中で他の皆が席を離れていたときに、スマホでマンガを読みながら弁当を食べていたらこの女性からの電話がかかってきたのだった。
あのお昼の電話でもこの女性は耳に響く高い声で、立て板に水のごとく一気に話したのだった。
「ねえ、そちら、電話帳で調べたんだけど、『よりどりぐりーん』さんの本社総務課でしょ? 市内で四店舗やってるわよね。私ね、東区のイースト店にいつも行ってるんですよ。みどり食品さんには古い友人もいましてね、お宅で買うことにしているんです……。本当は連絡したいんだけれど、私すっかり太ってしまったし、おばさんになったから今更恥ずかしいのよね……。その古い友人は……、そちらの総務課にいるんじゃないかと思いましてね……、まあ機会があれば、と思ってるんですけど」
せっかくの昼休みに変な電話に出てしまった。何を言っているかよくわからず、あおいは「はあ」とだけ言った。
「まあいいわ、それで私ね、おたくのあのチキンのトマト煮弁当が大好きなの。女子高時代の学食の味によく似てて懐かしくって。それで、明日、その女子高時代のお友達のところに行くんだけどね、澄川だからおたくのサウス店の近くなのよ。それでそのお友達の家に行くのにサウス店でチキンのトマト煮弁当を買っていきたいのよ。彼女も当時学食派だったから、きっと懐かしがると思うのよね。ああ、眼に浮かぶわ。きっと喜ぶわ! でね、明日、サウス店にチキンのトマト煮弁当があるかどうか、確認してくださらない? 二名分の確保をお願いしたいの。私の電話番号、今から言うわね」
その後、あおいはすぐにサウス店に電話をしたが、何十回鳴らしても出なかった。お昼時だから混んでいるのだろう、また後で掛けよう。そう思って残り少ない弁当を食べながらマンガの続きを読んだ。そのマンガの中でヒロインが交通事故に遇ってしまい、意識不明になっていく展開に驚いて、その女性の電話のことをまるごとすっかり今の今まで忘れてしまっていたのだ。
自分のあまりの失態に、声を失った。
「いくらなんでも確認に半日もかかるわけないでしょ。どうなってんのよ!」
怒りまくっている女性に、思わず受話器を持ったまま立ち上がって頭を下げながら言った。
「も、も、申し訳ございません。もう少しだけ、お待ちください」
「早くしてよね。明日の予定立てられなくて困るのよ!」
電話は唐突にぷつっと切れた。
あおいは慌ててサウス店に電話を掛けた。今度はすぐにつながり、電話に出た若い男性アルバイトに、明日のお昼にチキンのトマト煮弁当二名分を確保しておくことを伝えられた。
さあ、あとはさっきのお客様に連絡して、と。
そう思った瞬間、全身から血の気が引いた。
あれ、えっと、昼間書いた電話番号のメモ、どこやったっけ。
あのとき、怒りまくっているあの女性がキンキンの高い声で叫ぶように言った携帯番号を確かにメモした。けれどもマンガの内容が気になってぼんやりしていたせいでメモした時のはっきりとした記憶がない。
どこにメモをしただろう。
いつもなら、机の上に置いてある正方形のふせんにメモをしてどこかに貼り付ける。
あおいはそんなに机の上を散らかすタイプではない。
書類は業務ごとにファイリングして引き出しの中に整理している。基本的に机の上には、そのとき進行中のものしか置いていない。
今、机の上にあるのは、制作中の会議データ関連の書類が数枚と、何も書かれていない正方形のふせんブロック。
あとは、ボールペンや定規を差している透明アクリルでできた筆立てと、コーヒーを飲みほしたまままだ洗っていない、愛用の赤いマグカップがあるだけだ。
あのときはお昼時。机の上にはこれらしかなかったはずだ。
そしてたぶん十中八九ふせんブロックから一枚はがしてメモをしたと思うが、そのメモをどこにはりつけたのだろう……。
あおいの頭がどんどん混乱していく。
ちょっと待てよ、さっきの昼の弁当の空き容器の裏にくっついているとか?
ゴミ箱を見に行き、自分が食べた弁当の空き容器をくまなく調べるがふせんはくっついていない。少しためらってから、ゴミ箱の中の他の人が食べた弁当箱もひっくり返してみるが、どこにもふせんはない。
席に戻ると、黒沢課長がじろりとこちらを見ている。
「おい、時田、大丈夫か」
全然大丈夫じゃない。けど、いまそれどころじゃない。
「あ、大丈夫です」
机の下に落ちているのかもしれないと思い、机の下に潜って床に這いつくばるようにしてメモを探す。
ない。
「時田くん。何か探し物? 一緒に探そうか」
気がつくと氷川主任が隣に来て心配そうに机の下のあおいを覗き込んでいる。
「……あ、大丈夫です」
氷川主任は、せっかく横まで来てやったのにとでも言いたげにフンと鼻を鳴らして席へ戻っていった。
どうしよう、どうしよう、電話番号のメモ。絶対失くすわけがないんだけどな……。
あおいの胸は早鐘のように鳴った。
もしかしたら誰かがメモを間違って持って行ってしまったのでは。黒沢課長か、氷川主任か、清野マリアの机回りにあるのではないか。
しかし、自分の過失を口にして彼らにメモ捜索を手伝ってもらう気にはどうしてもなれない。
「ねー、あおいくん、なんか探してるの?」
マリアが話しかけてくるが、こちらの反応は同じだ。
「あ、大丈夫です」
三回目の「大丈夫です」でなんとなく場の空気が変わった。
大丈夫を三回繰り返すと、人々はそこに見えない垣根を知覚する。そして引き潮のように居なくなるのだ。
マリアは「あっそ」と言ってしらけたように肩をすくめた。
そこへ業務時間終了を告げるベルが鳴った。
「時田、さっきのデータ頼むな。俺帰るぞ。明日空港出迎えで早いんだよ。お先」
黒沢課長が帰っていった。
「僕も帰ります。時田くん、さっきのお問い合わせに折り返しの電話した? 早めにしたほうがいいと思うよ。じゃ、お先に」
氷川主任が帰っていった。
「ごめーん、私もお先する! いってきまーす! じゃなかった、お先に失礼しまーす!」
清野マリアが帰っていった。
がらん。
この2階フロアにひとりだけになってしまった。
自分も早く帰りたい。
まずは、皆が帰ったのをいいことに、黒沢と氷川とマリアの席に電話番号のメモがまぎれていないか物色する。
それらしきものはどこにもない。
じゃあ、皆の机の下はどうだろうか。
あおいは黒沢課長の椅子を引いて、机の下を覗き込んだ。
そのときだった。
バチンとフロアの照明が落ちた。
「えっ」
窓から一階裏口を見おろすと、守衛さんがもう戸締りをしようとしている。
「えーっ」
窓を開けて下の守衛さんに向かって声を出す。
「あの! まだ僕、います!」
あおいの声は届かない。しかし、裏口から配送部の社員が2人出てきて、守衛を大きな声で呼び止めている。
「銀さーん、俺たちまだ残業してます」
「おっと、ついうっかり、悪い悪い。遅くなるのかい?」
「あと30分くらいです」
「はいよ」
照明がまた点いた。
――あと30分で下のみんなも帰っちゃうんだ! 僕も30分以内に帰らなきゃ!
やばい、どうしよう。焦るあまりに口から喉にかけてカラカラに乾く。冷たく長いものを飲み込んだように寒気と吐き気を同時に感じる。
あのお客様に電話さえすれば帰れるのに。
どうしてメモがないんだろう。
ああ、もう。
誰もいない事務所の中を行ったり来たりうろうろしたあげく、あおいはへなへなと自分の椅子に座り込み、机の上にひじをついて両手を合わせて祈るようなポーズをした。
神様、今すぐメモを見つけさせてください。ご先祖様、お願いします。さっき書いたメモ、どこにやったか思い出させてください。ええと、仏様、なにとぞなにとぞ。
あおいはふと机上にある赤いマグカップに眼をとめた。
小学生のころから使っている愛用の赤いマグカップの、見慣れたリンゴのイラストを見つめた。そして赤いマグカップを両手で持つと、全神経を集中させて祈った。
――ずっと昔から一緒にいるお前……。赤いマグカップのリンゴちゃんよ! お願いだ。僕がメモをどこにやったのか、どうか教えてくれ!!!
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