第4話 電話の向こうで叫ぶ声

 終業のベルと同時にとっとと帰りたい時田あおいに、ぎりぎりの仕事を押し付けてきたのは黒沢課長だけではなかった。


 隣の席のあざと系女子、清野せいのマリアもうるんだ瞳で話しかけてきた。


 清野マリアはあおいより一つ年下だがアルバイト時代からこの会社で働いているので、社歴で言うともう5年目で、4年目のあおいよりも先輩である。


 嫌な予感にあおいの体は固まった。


 マリアは気にせずあおいのほうに体を向けた。まるでピンクの花束がふわりとこちらを向いたようだ。


 マリアはいつもにこにこしていて愛想がよい。


 一日中社内のあちらこちらでいろいろな人たちと立ち話をしている。


 あおいにはそれがいわゆるあざとい態度に見えて仕方がないのだ。

 

 黒沢課長のゴルフの話に楽しそうに乗っているなんて絶対嘘に決まっている。よりどりぐりーん店長たちとの電話もいちいち長い。何のために彼らの機嫌を取っているのか、あおいにはまったく理解できない。


 服装もなんだか微妙だ。ピンク色を偏愛したファッション傾向を持っており、今日も桜色のボウタイブラウスに、サーモンピンクのカーディガンをかけている。桜色とサーモンピンクを配色するファッションはなかなか個性的だが、マリアはしょっちゅうピンクとピンクを組み合わせているので、この程度では誰も驚く人はいないのだ。


「あおいくーん。ちょっと、助けてほしいんだけど」


 あおいは警戒心を最大限にして、マリアのほうへ数センチだけ視線を動かす。決して顔を見てはいけない。


 固まっているあおいに、マリアはよれよれの紙を渡してくる。


「これ、さっき各店舗に電話して聞いた先月の水道料金メモなの。あおいくん、これエクセルで表にしてくれる? 得意でしょ、そういうの」


「それは、せ、清野さんの業務では……」


「私じゃ間に合わないもん。私パソコン遅いの知ってるくせにい」


「いや、けど、遅くたって自分でやってくださいよ」


「間に合わないもん」


「いつまで、すか」


「月曜朝イチ」


 あおいはマリアからそのよれよれの紙を奪うように受け取ると、無言でエクセルを立ち上げた。先月も同じようにこの業務を依頼されたからデータのフォーマットが残っている。


 シートごとコピーして、タイトルを今月分に変え、そしてこのみみずのはったような読みづらい手書きメモを解読しながら入力していく。四店舗だから四行。水道料金、4,147円、4,026円、16,134円、3,542円、と。作業としてはあっという間だ。しかし、こういう業務を振られるたびにあおいの心はモヤモヤする。


 こういうの、各店舗にデータ入力してもらうようにしませんか? 毎月総務課の人間が電話でヒアリングってすごい効率悪くないですか? しかもそれをこんな手書きのメモで管理ってどうなんですか? もっとうまいやりかたあるでしょ!


 あおいが言いたいことは山のようにあるが、どれも口にするつもりはない。おそろしくアナログな人たちによる、おそろしく非効率な業務の数々によって、みどり食品は動いている。どこかひとつに改善を求めようものなら、それはすべてを変えなければならないことになる。言いだしたせいで自分がその業務改善プロジェクトリーダーにでもなったら大変だ。


 こうして今日も、微妙な業務の仕方に気づいても気づかないふりをすることとなる。今はとにかくこれをやってしまおう。あおいはものすごい速さで表を作った。


「え! うそ!」


 隣の席ではマリアがスマホに向かって大きな声を出している。いい気なもんだ、とあおいは思う。


 三分後。マリア依頼のデータ作成終了。マリアに「各店舗五月度水道料金データです」というタイトルで、「先ほどの件、添付します」という本文をつけ、出来上がったエクセルファイルを添付して送信する。


 隣の席のマリアのパソコンからメール着信の音がする。


「お? 早っ! あおいくんもう作ったの? すごーい」


 マリアからの返信はない。肩をドンドンと叩かれて直接反応が来る。


「天才だね! あとさあ……」


 さらに仕事が来てはまずいので、聞こえなかったふりをしてパソコンに向かう。


 マリアが「感じわるう」と言っているが、それも完全に無視をする。


――さあ、あと終業まで25分。これ以上もう本当に誰も話しかけてきませんように。


 あおいは画面をじっと見て考える。


 さっき黒沢課長に頼まれた会議資料を完成させれば今日の業務は終了だ。あの資料も基本的には前々月のフォーマットをコピーして数字の入力をするだけだから、十五分もあれば楽勝で終わるはずだ。ミスがないか最終チェックして送信したら、送信先の課長がメールを開封する前に退社したい。


 そうだ、机の片付けや着替えなど、それ以外のことを全部済ませて、終業時間の17時45分ぎりぎりに送信ボタンを押して、すぐにパソコンの電源を落として、誰とも目を合わせずに退社しよう……と、あおいは頭の中で算段をする。


 細かい手順をシュミレーションし、よし行けると確信し、あとはとにかく手元の処理に集中する。表はすぐにできた。ときどき会議で出る質問を想定してあらかじめその数字も参考値として盛り込んでおこう。こうして少し想像力を使ってあらかじめ資料に参考値を入れておくと、あとで自分が楽なのだ。


「きたきつねラジオ、金曜日の夕方はリスナーの皆さんからのリクエスト曲をご紹介しました。時刻はまもなく17時35分です。このあとは交通情報です」


 ここ、みどり食品中央センターの二階は、総務課と営業販売課になっているが、今日は営業販売課の研修があってフロアには営業販売課の人たちは誰もいない。総務課の黒沢課長と、氷川主任と、清野マリアと、時田あおいだけだ。


 いつになく静かなので、自分がいつもよりやや早めのペースでパソコンのキーボードをカタカタと鳴らしている音がフロアに響いているように感じる。あおいは目立たないよう慎重に指の力を抜いて音を弱める。


 そこへ外線電話の着信音が鳴り響いた。


 誰も出ない。


 いつもなら清野マリアがすぐに出てくれる。マリアは電話応対を好んでいるのだ。パソコンは苦手だが電話ではよくしゃべる。各店舗の店長さんとも、業者さんたちとも、用件以外の雑談も含め、長々と親しくしゃべる。


 ところがそのマリアはいま、外線電話が鳴っているのに自分のパールピンクのスマホに両手の指を器用に使って長文的なものを爆速入力している。


 きっとこの後のデートか何かの用件だろう、とあおいは思う。パソコンはてんでだめなくせに、スマホは爆速入力できるのだから不思議だ。


 氷川主任は黒沢課長の席へ行って何やら心配そうな表情で話し込んでいる。


 まったくあの人は毎日何かを心配している。


 電話は鳴り続けている。


 あおいはあきらめて、パソコンで入力中の文書の保存ボタンを押し、しぶしぶ電話に出た。


「いつまで待たせるのよっ」


 電話の向こうで叫ぶ声。


 恐ろしく大きな声を出して怒っている女性の声がした。

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