第3話 とっとと帰ろうと思っていたのに
「ええっ、明日ですか?」
みどり食品総務課課長、黒沢健二が電話で話す大きな声がオフィスに響いた。
「いやあ、土曜日はスポーツジムに通い始めてましてね。ちょっと身体のこと考えて痩せようかなあなんて、ハハハ。はあ、午前中ですか。空港往復ぐらいでしたら、車出しますよ。社長、そのあとはその東京からのゲストと観光ですか? 車で午後もお連れしますか? はあ、午前中だけですね。かしこまりました。それで飛行機のお時間は? えっ……、けっこう早いですねえ……」
きっと天野
みどり食品三代目社長の天野碧は夫がやっていた東京の経営コンサルタント会社で子育ての傍らでキャリアを積んだ後、離婚をし、当時小学生だった双子の娘を連れて札幌に帰ってきて、みどり食品総務課にパートで入社した。女手ひとつで子育てをし、娘たちが高校を卒業したと同時に三代目社長に就任した。タイトスカートのスーツ姿で社内を闊歩する碧社長は40代半ばとは思えない若々しく愛くるしい外見で、やる気に燃える大きな瞳が印象的な美人だが、その中身は冷たく大胆な敏腕経営者であり、みんな緊張して接している。
黒沢課長は、その碧社長がパートで働いている時代から総務課でずっと一緒だったこともあり、しょっちゅうこうして何かの頼まれごとをしている。
部下には厳しい黒沢課長が、どうも碧社長には優しいようだ。
ここ、みどり食品は札幌市内に弁当などを配達する仕出し屋だが、碧社長になってからここ数年で札幌市内に四店舗の弁当屋『よりどりぐりーん』も始めていた。
中央センター総務課の下っ端のあおいは、主にその『よりどりぐりーん』四店舗の数字管理をはじめ、その他ここ総務課で日々起こるパソコン業務のさまざまな雑用をしている。
もうすぐ今週の業務が終わる。
あおいは業務を細かいTODOに分けて、手帳で管理している。今週のやるべき作業はほぼ終了しており、あとは来週のタスクのチェック程度の仕事しか残っていない。
定時になったらとっとと帰ろう、とあおいは思った。
金曜日のこの時間帯の、もうすぐ一週間の業務が終わる喜びといったらたまらない。みどり食品の就業時間は8時45分から17時45分まで。あと数十分でスムーズに業務を終わらせ、とっとと帰りたい。
どうか誰も話しかけてきませんように。
「おい、時田、さっき送ったメール見たか」
願いは一瞬で破壊された。
黒沢課長が資料の束をがしっとつかんでのしのしと歩いてきた。百八十センチ百八キロの巨漢だ。何かというと「百八十センチ百八キロの俺でも風邪をひいたぞ」などと言うので、周りの誰もがこの数字を覚えてしまっている。今日もいつも通り濃いグレーなのか黒なのかわからないような色の、ズボンの折り目が消えたスーツに、薄いベージュのワイシャツだ。6月からクールビズになったのでネクタイはしていない。
「はい」
あおいはパソコンの画面から眼をそらさずに返事をする。
いますごく忙しくて集中しているところなんです、というアピールのつもりだ。
「ったく。読んだら反応しろよ。それでよ、よりどりぐりーんの5月月間の売り上げ数字なんだけどよ。ここ、計算間違いなんじゃねえかと思うんだよ。ほら、これ、イースト店はこの二行目がトンカツ弁当になってるけど、こっちのノース店では四行目がトンカツ弁当だろ。だから足し算するときに違うやつ足しちゃってると思うんだよな。元データはこれだけど、こっちはほら、この数字だしさ」
「元データ」って、そのにぎりしめてる手書きメモのことですよね。その、商品ごとに正の字を書いたやつ。そもそもその段階からしてすごい信憑性低いデータなんですけど。
そう思っても今は数字の集計法について意見を言っている時間はない。スムーズに退社するためには会話をとにかくシンプルにしなくては。
「はあ、それで」
黒沢課長はいらついた表情になって、「だ、か、ら、よ!」と声を荒げる。「5月の集計表、作り直してくれよ。このメモに基づいてもう一回。営業課が月曜の会議で使うんだって」
月曜の会議で使う資料づくりを、今頼むってぎりぎり過ぎませんか。
しかも、こんな原始的なミス。これまで毎月各店舗が自由に作ってそれをもとに総務でまた表を作るから人為ミスが発生するんですよね。
あおいはそう言いたいが飲み込んで「はあ」とだけ言う。
「そのうちいつか必ず各店舗のレジにPOSシステム導入してあれするから。とりあえず今のところはこれで」
出た、問題の先送り。だからいつまでたっても無駄な業務が多いんですよ。
あおいはたくさん浮かぶ言いたいことをすべてのみ込み、早く帰るための行動を選ぶことにした。つまり、無言でうなずいて書類の束を受け取った。
「じゃあ、頼むぞ」
パソコンに向かい、さっそく書類をもとに作業を始める。
「なんか、時田ってホント、おとなしいっつうか、口数少なすぎっていうか。リアクション薄いよなあ。もうちょっとしゃべれよな」
黒沢課長はそう言い捨てて、のっしのっしとオフィスの奥の給湯室のところへ歩いて行った。本日最後のコーヒー休憩なのだろう。黒沢課長は、朝と、10時と、15時と、17時に、どっしりした大きな茶色い湯呑みにインスタントコーヒーと砂糖をたっぷり入れたものを飲むのだ。
「まずいですよ、時田くん」
今度は向かいの席の氷川主任が話しかけてくる。
「今のは非常にまずいです。黒沢課長に対して、あんまりそっけないのはどうでしょうか。そもそも時田くんは課長に対してだけでなくて、誰にでもそっけないですね。特に上司に対してはもう少し丁寧にあたたかく接した方が、いいんじゃありませんかねえ。そもそも職場というのは仕事場でありながら、コミュニティでもあるわけですから、ひとりひとりが心を開いてコミュニケーションを取ろうとする姿勢、これはやはりとても大事なことであると思いますが、どうですか、時田くん。どう思われますか」
氷川主任のこういうアドバイスはいつものことだ。けれどもあおいはこの会社で楽しく明るい人間関係を作りたい気持ちがどうしても起こらない。とにかく最低限のことだけをやって、とっとと帰りたい。それだけだ。だから氷川主任への返答も最低限となる。
「はあ」
氷川主任は苦虫をかみつぶしたような顔をして、ため息をつくと、愛用の水色のティーカップの紅茶をゆっくり飲んだ。氷川主任が淹れる紅茶はとても香り高く、向かいの席のあおいもときどき香りだけ楽しんでいる。
「いい匂いっすね」
薄いリアクションのフォローの意味でそう言うと、氷川主任は眼を見開いて意外そうに見つめてきた。
「そうですか。どうもありがとう。紅茶は好きですか? 私はダージリンが好きでしてねえ。そうだ! もうすぐファーストフラッシュが入荷するから手に入ったら時田くんにもおすそ分けしましょうか。あ、ファーストフラッシュと言いますのはね」
「いや、いらないっす」
氷川主任はまた苦虫をかみつぶしたような顔に戻った。
気にせずパソコン画面に意識を戻した。とにかく今日の仕事をやってしまおう。さっきの黒沢課長の数字の直しは30分もあったらできるだろう。あとは来週になっても大丈夫な業務ばかりだ。
――あとは誰も話しかけてきませんように。
「ねえ、あおいくん」
願いはまたもや破壊された。
今度は隣の席のあざと系女子、清野マリアだ。
マリアは「お願いがあるんだけどお……」と睫毛をパチパチさせて身を寄せてきた。
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