第2話 できれば誰とも話したくないんだ
「きたきつねラジオ、金曜日の夕方はリスナーの皆さんからのリクエスト曲をご紹介しております」
窓際に置かれたシャーベットグリーンのラジカセから、みどり食品中央センター2階フロアに、地元コミュニティFMの夕方のラジオ番組が聞こえていた。
「本日は東区にお住まいのみつばちまやこさんからのリクエストで、ドビュッシーの『月の光』。時刻はまもなく16時46分です」
ようやく週末を迎える、やや疲れた従業員たちを慰労するかのように美しい旋律のピアノ曲がオフィスに流れた。
時田あおいはパソコンの画面右下の時間表示に眼をやった。そして誰にも気づかれない程度のささやかなため息をつき、机上の赤いマグカップの底に残っているさめたコーヒーを飲み干した。
窓からの陽ざしが、あおいの伸びた前髪を照らす。
小さい頃から「お人形さんみたいね」と言われたほど茶色くてやわらかい髪の毛。色白の肌に、切れ長の伏し目がちな瞳。あまり伸びなかった身長。きゃしゃな身体。
筋骨隆々とした友人をうらやましく思った時期もあったが、今はこの大人しそうな外見のおかげで助かっているとあおいは思う。
大人しくしていてもいいのなら、そんなにありがたいことはない。
目立ちたくない。そしてできれば誰とも話したくない。
職場においてガツガツした出世欲はないのだ。そして承認欲求も、あまりない。
言われたことに対しては、ミスなくきちんと取り組む。
それだけだ。これ以上にもこれ以下にもなりたくない。
職場で濃厚な人間関係もつくりたくない。
自分でも、ずいぶんクールだと思う。あるいは小心者だと思う。
けれどもこれが、紆余曲折を経てきたうえで得た、最適解なのだ。
昔はこんな自分ではなかった。
毎日喜怒哀楽が鮮やかに存在していた。
いつの間にか、あの昔の自分とは変わってしまった。
昔の自分。それはたとえば、小学校の頃の、無邪気なあの日の自分だ……。
「絵画コンクール小学生の部、最優秀賞は時田あおいくんです!」
あのかがやかしい日。
突然降ってわいたような、サプライズプレゼントのような出来事だった。
学校ではどちらかといえば地味な存在だったあおいの絵が、市の主催する絵画コンクールで小学生の部の最優秀賞になったのだ。
突然、身辺が騒がしくなった。
あれよあれよいう間に校長室に呼ばれたり、スーツを買ってもらったり、新聞社が 取材に来ることになったりして華々しく表彰された。
突然のスポットライトを浴びたように、まぶしくて、夢みたいにさまざまなことが次から次へ行われた。
「果物という難しいものを、よくこんなふうにみずみずしく描いたね! ぜひこれからも絵を描いていってください。おめでとう!」
市民会館で行われた授賞式では、あおいはステージに上げられて、司会の人に受賞の感想を聞かれた。
嬉しくて、嬉しくて、有頂天で長々としゃべった。
まるで新人賞を獲った歌手のように、「信じられません」とはにかんだりもした。
カメラを向けてくる家族に何度もピースサインをした。
授賞式が終わり、会場を出て駐車場へ向かうときも、夕方のまぶしい陽射しのなかで晴れがましい気持ちが高まり、父と母と姉にいつまでもしつこく「受賞の感想」を言い続けて、もういいかげんにしなさいと言われたっけ。笑い転げながら、オレンジ色に染まった駐車場でずっとふざけていた……。
そうだ、自分はもともと子供の頃はすごくおしゃべりだったのだ……。
心の中から話したいことが次から次へとあふれて、周りの人はそれを聞いてくれていた。だからあおいは、いつだって安心しておしゃべりしていた。
家族と。クラスメイトと。
その頃の時田あおいにとっておしゃべりは人生そのものだった。
中学に進んで多少大人しくはなったけれど、高校ではふざけ合える友人ができて、放課後ドーナツショップで他愛もないことをおしゃべりする時間は永遠のように感じていた。
目に映ったものを口にし、そのとき思ったことを話し、感じたことを言葉にして、毎日を生きていた。そうしている限り、おしゃべりは涸れることのない泉のように心の中からどこまでもあふれ出てきていた。
あのことがあるまでは。
まさか、自分にあんなことが降りかかるとは思っていなかった。
突然、言葉が出なくなるなんて。
忘れもしない、あれはこの会社に入ってすぐのことだった。
タクシーを呼ぶように言われ、予約の電話を掛けた。
「みどり食品さま、タクシーのご予約かしこまりました。ご担当者さまのお名前を頂戴できますか?」
あのとき、「時田です」と言おうとして、驚いた。
「と」が出てこない。
口の中の筋肉がこわばって、のどから棒をのんだようになって、時田の最初の「と」が発声できない。どう口の中を震わせ、どう動かせば「と」という音が出るのかがわからなくなってしまった。微弱な震えが腹から口へぞくぞくと上下するだけで声が出てこない。
「と」以外なら発声できるので、「あ、えと、あの……」と意味のない言葉を繰り返し、「あの、お名前は?」ともう一度聞かれてようやく「ときたです」とぎりぎり発声できた。しかしその声はうまく聞こえなかったようで「えっ?」と聞き返され、何度目かでようやく「ときたさまですね」と伝わった。
冷や汗をかいた。
あれ以来、あおいは緊張すると自分の苗字を発声するのがむずかしい癖がついてしまった。そんなことが続く中で、「えっ? 聞こえない」、「もっとはっきり話せよ」と言われることが増えていき、どんどん口が重くなっていったのだった。
「ドビュッシーの『月の光』をお送りしました。時刻は16時51分になりました」
……いけない、仕事中だ。目の前のことに集中しなければ。あおいはそう思いつつ、はるかな過去の、あの無邪気な授賞式の日の陽射しを思い出させる窓外の光に眼をやった。
もうすぐ夏至をむかえるこの季節は、夕方になっても外はまだ昼のように明るい。
たっぷりの夕陽が入る窓から、裏の公園が見下ろせる。誰もいない。強い夕陽が遊具を照らし、刈ったばかりの芝生にその影が濃く長く伸びている。砂場に忘れられた青い帽子。水飲み場の銀色に光る蛇口の横に、誰かが置いたペットボトル。
夕方の公園には特別な切なさがあるな、とあおいは思った。明日は土曜日だからひさしぶりにのんびり絵を描こうか。陽射しを反射する遊具と、芝生に伸びる黒い影のコントラストを、何色の絵の具で表現しようか。
あおいは自分の席がこの大きな窓のすぐそばということだけは、この職場でよかったと思っている。というか、この職場でよかったと思っていることはこのことだけだ。それ以外はいろいろと悩ましいことだらけだ。
正直言って毎日のように辞めたい気持ちがこみ上げてくる。
それでもこの春で入社四年目になる。この三年間なんとか退職を思いとどまってきたことに積極的な理由はない。しいて言うなら、辞めたところで次どうするんだという問題がある。今後の人生でどうしてもなりたい職業は別にない。転職が成功する保証もない。
なんだか覗き込むのが恐ろしいような空虚な穴を、自分の内側に感じるけれど、とりあえず今のところはその穴にふたをして生きているのだ。
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