【完結】クレーム対応で残業してたら赤いマグカップが話しかけてきたんですけど
吉田麻子
第1話 あるマグカップの願い
札幌の初夏は、淡いブルー。
今日みたいに涼しい朝は、ミントグリーンの風が吹く。
そよそよそよ。
ほんの少しの冷たい粒子と、やさしい陽ざし。
ぐんぐん伸びる草の匂いが混ざった風。
まだ朝は始まったばかり。
朝には、予感と可能性だけがある。
涼しさと暑さが気まぐれに共存する一日が、今日も始まる。
この物語は、人に心を閉ざしている26歳男子、時田あおいと、彼の赤いマグカップによる破壊と再生のストーリーだ。あるいは、倒壊と統合、浄化と発芽、と言い換えてもいい。
古代から繰り返されてきた原型パターンは今もなお永遠のコピーアンドペーストを続けており、神話を語らせてきた人類の生命の
あおいの職場は、札幌市の中心部にある。
ここ札幌市中心部のバス通りには、街路樹のハルニレがうっそうと茂り、アスファルトに影を落としている。
バス停からハルニレの並木道をしばらく歩くと、大きな駐車場があり、その奥に乳白色の二階建ての社屋が見える。
社屋の手前の駐車場には、「みどり食品」と書かれた社用車や配達バイクが並んでいる。
ここ、みどり食品は三代続く仕出し屋だ。札幌に住んでいる人ならだれでも、冠婚葬祭や会議などでみどり食品の弁当を食べたことがあるだろう。
少ない個数から請け負うバイク便が有名で、オフィス街でも人気の存在だ。
まだ朝早く、社員たちの賑わいはない。
大きな豆腐をどんと置いたような、乳白色の四角い二階建ての社屋。
一階中央に透明な引き戸の入り口があり、上部には緑色の看板が掲げられ、「みどり食品中央センター」と書かれている。
戸を引いて中に入ると簡易な吹き抜けの玄関ホールがあり、右手の壁には風景画と手製ポスターのようなものが飾られている。
数行の文章をデザイン化したようなポスターだ。
<"You are wrong," Phidias retorted. "The gods can see them."
フェイディアスは言い返した。“そんなことはない、神々が見ている”>
という文字がレタリング調で書かれている。
「神々が見ている」という文字だけが大きく強調されている。
年季の入った手製ポスターだ。
右下には「みどり食品 代表取締役社長 天野
玄関ホールを抜けた一階フロアが製造課と配送課、入り口から入ってすぐ左の階段から上がった二階には総務課と営業販売課がある。
二階の廊下のつきあたりには、給湯室がある。ちょうど、バス通りに面した駐車場とは反対側の面になり、給湯室の窓からは裏にある公園を見おろすことができる。さびれた遊具がひっそりと置かれた、忘れられたような小さな公園だ。
給湯室には食器棚が置かれていて、社員たちが使う食器が並んでいる。
その中に、使い古された赤いマグカップがあった。
全体が濃い赤で、内側は白い。大きな持ち手がついていて、つややかな釉薬が塗られた陶器のマグカップだ。リンゴのイラストが白い塗料で描かれているが、長年の使用でところどころ薄れている。
その赤いマグカップは、よく近づいてみなければわからないほど微細だが、先ほどからぶるぶると振動している。
ただ震えているだけではない。これもまたよく注意して耳を傾けなければわからないほどささいなものだが、その振動は、独特のリズムとパターンをもっていた。
どうやら、何かを発しているようだ。
人間世界でいうと、言葉のようなものを……。
赤いマグカップは、いっそう振動を大きくして、宣言するように言った。
「さあ! ボクは今日こそ、時田あおいくんに話しかけるぞ」
そう意気込む赤いマグカップの振動を聞いて、隣の茶色の湯呑みがぶるっと大きく震えた。
こちらの茶色の湯呑みは土の風合いがある、ずんどう型でどっしり重い焼き物。震えかたも大きい。人間だったら大きな声という感じだ。
「オマエさ、そんなの無理に決まってるだろ。もうそろそろあきらめろよ、どうして人間に話しかけようなんて思うんだ?」
赤いマグカップは茶色の湯呑みに意識を集中してぶるりと震えてみせた。人間でいうとじろりとにらんだような態度をしたことになる。
「どうしても、話しかけたいんだよ!」
「無理無理! いいか、この世は振動数がすべてなんだ。近い振動数を出せる者同士じゃないと、こうやって会話できない。ワシらは、カップどうし。しかもこうやって同じ棚の上に並んでいるから振動を伝えあって話ができる。そんなん常識だろ」
「わかってるよ! この同じ食器棚の中のメンバーだって、同じ棚じゃないと会話できない」
「だろ。それなのに人間と会話なんてできるわけない」
「でもさ、湯呑みさん。人間が飲み物を飲んでるとき、つまりあなたに触れているときはその人の想念が流れ込んでくるでしょ」
「まあな。黒沢課長は最近いっつもイライラしてるよ。たまには休んだらいいのに……」
「でしょ。そうやって黒沢課長の気持ちが湯呑みさんに流れ込んでくるように、こっちからは流れないのかなあ。ね、あおいくんがボクを持った瞬間に、こっちからも話しかけたらどうかな」
「ワシはそんなことできんと思うぞ。あほらしい」
「ボクはね、最近のあおいくんが心配なんだよ。小学生の頃からずっと一緒にいるけど、あんなに元気でおしゃべりだったのに、この会社に入ってからすごく大人しくなっちゃって……」
「お気の毒さまですこと」
反対側のとなりから水色のティーカップが話しかけてきた。
こちらは高台のついたエレガントなシェイプで、繊細な模様の入った金色の取っ手がついている紅茶用につくられたカップだ。紅茶好きの氷川主任の持ち物である。
「あなた、そんな身分違いのことを思うなんてとてもお気の毒さまだわ。あたくしたちは悲しきカップ。ただご主人さまにお飲み物を飲んでいただくだけでよしとしなければなりませんわ」
「そうかもしれない……、けど……、ボクはあおいくんと話したいんだ! 」
「そうなんですのね……。あたくしは氷川主任に話しかけようだなんて思ったこともございませんわ。氷川主任は、そちらの湯呑みさんのご主人さまの黒沢課長にいじめられて、紅茶を飲みながらときどきこっそりため息をついていらっしゃるわ……。あたくしはせいぜい紅茶に『おいしくなられませ』って念ずるくらいしかできませんのよ……」
「おいおい、黒沢課長は別にいじめてるわけじゃねえよ。黒沢課長は毎日イライラして大変なんだよ」
「でも、あの方は野蛮すぎですわ。氷川主任はとっても傷ついていらっしゃるのよ……」
「なんだと!」
「まあ、こわい!」
茶色い湯呑みと水色のティーカップが言い合いを始めてカチャカチャと振動が強くなってきたので、間に挟まれた赤いマグカップはあわてて制した。
「ちょっと、やめてよ。うるさいなあ。静かにしてよ。どうやってあおいくんに話しかけるかを考えたいのに」
「お、わりい、わりい。でもよー、そんなん無理だぜ。人間がワシらを触っているときに、あっちの想念は伝わってくるけど、その逆なんて聞いたことねえよ」
「……聞いたこと、あるかもしれませんわ。あたくし、たしか、どこかで……」
水色のティーカップはしばらくの間黙り込んだ後、ぶるるっと振動した。
「そうですわ、あのとき……、あたくし、昔、売り場で一緒に並んでいらしたフランス生まれのティーカップさんからうかがったわ……。とっても高貴でエレガントで素敵な、もうずいぶんお年を召したティーカップさんでしたわ……。セーヴル焼きのピンク色がお美しくってね……。あたくしその方からさまざまなお話をうかがうのがとても好きでしたの。その方、世界中の逸話をよくご存じでいらして、いろいろお話しくださったわ。その中のお話でお聞きしましたの。……それでね、中世ヨーロッパではティーカップと話せる女性がいらしたっておっしゃるのよ。その方法っていうのはですね……」
「またそんなウソっぽいデマを言うんじゃねえよ」
「まあ! ひどいわ。湯呑みさんって本当にロマンのかけらもお持ちじゃないのね」
「おう。わりいか。現実主義っていうんだよ」
赤いマグカップはぶるるんと大きく震えた。
「ちょっと静かにして! ねえ、教えて。その中世の話。その女性は、どうやってカップと話していたの?」
水色のティーカップは気を取り直して話し始めた。
「伝え聞いた話ですから、本当かどうかわかりませんわ……。でもね、そのフランス生まれのティーカップさんがおっしゃるにはね、人間のほうから強く意識を集中してカップをしっかり両手でつかんで話しかけて、その瞬間にカップのほうも強く意識を集中して震えることができれば、可能なんですって。その瞬間、振動が疎通するって……」
「振動が疎通する? 」
「そう、あたくしたちの振動が、その人間に言葉として伝わるんですって。会話できるんでございますのよ!」
赤いマグカップは、ぶるぶると大きく震えた。
「本当? 本当なの? やった!!! 可能性あるんだ!!!」
「無理無理無理無理!」、湯呑みが制した。「無理に決まってんだろ。なんで時田あおいがオマエを両手でつかんで話しかけるんだよ。そんなこと、起こるわけねえだろ」
赤いマグカップはしゅんとしょげた。
「そうだよなあ。話しかけてくるわけないよなあ……」
そのとき、朝の清掃をしている掃除機の音が近づいてきた。
「しっ! 静かにしろ。皆さんが出社してくるぞ」
カップたちは振動するのをやめて、無口な物体に戻った。
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