★兎ルート第4話 愛されるということへの優越感


「い、良いんですか……!?」


 稲葉さんは嬉しそうな反応を返して来てくれた。

 正直、こういう反応ってめっちゃ嬉しい気がする。


「うん。おいで」


 俺はシーツを払い除け、ソファーの上に座った。

 稲葉さんの座る場所を開けると、彼女はおずおずそこへ座り込んでくる。


「じゃあ、行くよ」


「はいぃっ……! 宜しくお願いしますっ!」


 稲葉さん、めっちゃ緊張しているよ。

まぁ、俺もかなり緊張しているんだけど……ここは年上として、ちゃんとリードをしてあげないと。


 俺は稲葉さんの肩へ触れた。

彼女はビクンと反応を返してくる。


 これから俺は稲葉さんへキスをしようとしてる。

この子は本当に可愛いし、キスをすること自体はめっちゃ嬉しい。

でも、その前に……


「あのさ、稲葉さん。キスする前に一応けじめはつけておかないかな?」


「けじめ、ですか?」


「そっ。なんかこのままキスをしちゃうとさ、勢いでしたみたいで良くないと思うんだよ」


「べ、別に私は構いませんけど……てか、いきなりしようとしたの私の方ですし……」


「でも今はお互い同意の元でしようとしているでしょ?」


「ま、まぁ、それはそうですけど……」


 俺は少し強めに稲葉さんの肩を掴んだ。

そしてしっかり彼女を見据える。


「付き合おう、俺たち」


「付き合……ええええええーっ!?」


 深夜にも関わらず、稲葉さんは大絶叫をあげた。

耳をつんざくほどの声量に、思わず顔を顰めてしまう。


「す、すみません!」


「いや、大丈夫」


「あ、あの、本当に、本当に付き合ってくれるんですか!? 彼氏になってくれるんですかっ!?」


「お、おう、勿論」


「いやったぁぁぁぁぁーー!!」


 再び発せられた稲葉さんの大音声。

明日、同じマンションの住人からクレーム出されなきゃ良いけど……


「じゃあ、そろそろしようか……兎?」

 

「はいぃっ……お手柔らかにお願いしますっ……!」


 お手柔らかって言われても、俺も実は初めてだったりする。

だって黒井姫子にずっと虐げられていた訳だから。


 俺と兎はじっと見つめ合う。

お互いの唇が距離を縮めてゆく。


「んっ……!」


 初めて感じた唇の感触は、暖かくて、柔らかくて、心地が良くて。

 しかも相手がかなりビジュアルの良い兎だから、否応無しに興奮が高まってゆく。


 もっと先へ行きたい気持ちが湧いているのは確か。

だけど今はまだその時じゃない。

俺の中にある冷静さが、そう告げてくる。


 俺は欲望をグッと堪えて、兎の唇から離れたのだった。


「ぷはぁ……! 苦しかったぁ……!」


「もしかして、ずっと息止めてた?」


「うう……頭がクラクラするぅ……」


「おいおい、大丈夫……」


 本当に息苦しいからなのか。

それと、それ自体が口実なのだろうか。


 兎は俺の胸の中へもたれかかってきたのだった。


「ふふ……んふふ……」


「なんだよ、妙な声出して?」


「だって私、染谷さんの彼女にしてもらえたんですよ? ずっと声だけの、姿も見ているだけだった、あなたの……だから、感じたいんです。染谷さんの匂いとか、暖かさを……」


 兎は平然とそう恥ずかしい台詞をを惜しげもなく放つ。

初めてそんなことを言われたものだから、心臓が高鳴って仕方がない俺なのだった。


……

……

……


「んぁ……」


 ジュワジュワと油の弾ける音と、良い香りで目が覚めた。


「あっ! おっはよーございますぅ! すぐに朝ごはんできますから待っていてくださいね! 染谷さんはお茶とコーヒーどっちがいいですか?」


 オープンキッチンから、兎が元気よく、そう声をかけてくる。


 深夜にあんなことをしたのに、元気だなぁと思った。

一瞬、この光景が夢なんじゃないかと思う俺だった。


 しかし出来上がった兎特製の朝食を目の前にすれば、これは夢ではなく、紛れもない現実なんだと納得する。


「いただきまーす!」


「頂きます」


 一人暮らしを始めてから、朝は食べたり食べなかったりしている。

だからこうして誰かが作った朝食を食べるのは久々だった。


「ど、どうですか!?」


 兎は箸を全く動かさず、食い入るように俺の行動を見つめている。


「あの……」


「何か!?」


「そんなに見つめられてると、食べづらい……」


「す、すみませんでしたぁ!!


 まぁ、恋人ができた途端って、割とこんな感じになるよな。

妙にハイテンションっていうか。世界が全部お花畑に見えるような。

黒井姫子と付き合えると分かった時の俺も、なんかこんな感じだったと思い出す。


「兎は毎日、こうやって朝食作ってるの?」


「いえ、いつもは適当に。だけど今朝は……か、彼氏が、いるんですから……」


 そんな他愛もない話をしつつ、朝食を進めてゆく。


 そして朝食を終えて、今日はどう過ごそうかという話になった。


「デ、デート……しませんか?」


「うん、いいよ」


「いやったぁぁぁぁー!」


 俺は無茶苦茶喜んでいる兎を外へと連れ出す。

特に何があるわけでも無しに、ぶらぶらと街を練り歩く。


「ふふーん、ふふーん」


 ただウィンドウショッピングをしているだけでも、どこにでもあるありふれたファストフード店であっても。

兎は終始、楽しそうに、嬉しそうにしてくれている。

気持ちは良く分かった。


そして、こうして誰かに"愛されている"ことって、凄く気持ちが良いものだと感じた。

いや、気持ちが良いとか、言葉が綺麗すぎる。

俺は確かに愛情を表現してくれている兎へ"優越感"を抱いている。


●●●



「わわ! そ、染谷さん!? なんでこんなところに?」


「そろそろバイトが終わる頃かなって思ってね。お疲れさん」


「わぁ、嬉しい……ありがとうござます!」


 まぁ、たまたまた気が向いたから、こうして迎えに来ただけなんだけどね。

だけど兎はすごく喜んでくれて、いつものように強い愛情表現をしてくれて。


「うう……」


「どしたの?」


「あ、いやぁ……」


 並んで夜道を歩いていると、兎の指先が仕切りに震えていて、何かを求めているのだと感じた。


「わぁ!?」


「これで良いかな?」


 手を繋ぐと、兎は驚きつつも、嬉しそうな声を上げてくれた。


 こんな些細なことでも、兎は喜んでくれていた。


 兎と交際を始めてから、俺は常に強い満足感の中にあった。

兎は俺と会うたびに全身で喜びを表現してくれた。

"愛されている"という実感を常に抱いていた。


 そしてそういう兎の態度を常に感じていると、なんとなくだけど"黒井姫子"の気持ちが分かったような気がした。


 きっと、今の兎ならば、俺が何をしても許してくれるに違いない。

むしろ喜んで、様々なことをしてくれるだろう……かつて、黒井姫子にベタ惚れで、半ば奴隷のようになっていた俺のように……


 黒井姫子と一緒にいられることが嬉しくして、だから奴を喜ばせるために全身で愛情表現をして。

でも、アイツはそんな俺を体よく扱って。

俺の高校3年間は無駄に終わって。 


ーーだからこそ、こうして一方的に受け取ってばかりいるのは良くないことだ思った。

このままだと、俺はまるで自分が兎の"ご主人様"と思い込み、いつの日か、この愛情をたっぷり表現してくれる彼女に酷いことをしてしまうんじゃないかと思った。


 黒井姫子と別れて、思ったこと……それは交際ってのは、当たり前だけど、愛し愛される関係じゃなきゃフェアじゃない。


 恥ずかしいとか、照れ臭いとか言って、受け取ってばかりいるのはダメだと思う。


 だから……


「兎」


「なんですか?」


 はたりと2人で立ち止まった。

周りにはたくさんの人がいて、正直恥ずかしい。

でも、やると決めたからには、まずは行動を起こすしかない。


「どうしたんですか?」


「えっと……す……」


「す?」


「好きだよ。俺、兎のこと……」


 言った瞬間、耳が熱くなった。

そして兎の顔も真っ赤に染まってゆく。


「きゅ、急にどうしたんですか……?」


「いや、なんとなく言いたくなっ……ッ!?」


 兎は周りの目など気にせず、俺の胸へ思い切り飛び込んできたのだった。


「ううー! ガチ嬉しいぃ! ううー! ううーん!! 私も染谷さんのこと……大好きですっ! 染谷さんは最高の彼氏ですっ!」


「俺も兎のこと、最高に可愛くて素敵な彼女って思ってるよ。……で、なんだけど……そろそろ"染谷さん"は止めにしない?」


「ええ!? い、良いんですか……?」


「大体、俺と兎ってそんなに歳違わないじゃん? 武雄でも、たけぴでも、なんでも兎の呼びやすいやつでいいからさ」


「じゃ、じゃあ……たけぴ?」


 兎は俺の胸の中で、少し恥ずかしそうに、俺の新しい呼び名を口にした。


 瞬間、胸の内へ喜びが満ち溢れてくる。


 俺は兎に愛されている自覚がある。

 俺も、同じぐらい兎をこれからもちゃんと愛情表現をしつつ、愛して行きたいと思う。


……だからこそ、俺はもっと、兎との距離を縮めるために、彼女のことをより良く知ろうと思うのだった。


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