人間の王子様は証明する

 ぽろり、と。ソフィアが泣いたのが見えた。


 深雪のような白銀の髪も、白い肌の細い手足と豊かな体のラインを覆う薄いドレス姿も、綿雪のようにふんわりとした耳と尾も、あの日と変わらず美しいのに。

 まるで雪解け水のような涙が、きらめく青緑色の瞳からこぼれていた。

 けれどどこか安堵した表情で、


「──ソフィア、!」


 俺は思わず駆け出した。

 考えるのを放棄するのではなく、ただ、彼女が好きだから体が動いた。傍に行って彼女の涙を拭いたかった。

 ──瞬間、殺気を感じて腰に下げていた剣で受け止める。衝撃と共に剣が弾いたものを見ると、黒い石のようだった。


「いけない王子様だ。やはり、あの男の血を継いでいるから愚かさも継いだのかもしれないけれど……それとも、愛する女というだけで走り出してしまうような、本能でも備わっているのかな」


 玉座から立ち、精霊長はこちらへゆっくりと歩み寄る。その周囲にはあの黒い石が幾つか浮かんでおり、先程の殺気の主だと分かった。

 飛んできたあの石はふわりと浮かんで、精霊長の周りに紛れる。


「王子様、水入り水晶というのは知っているかい。その名の通り古い水が閉じ込められた水晶で、人間の世界でも大変高価な物だと聞いているけど。この子達もまぁ、それと似たような物でね」


 くるくると指を回す精霊長の動きに合わせて、数多の石が宙を回った。


「これはボクの恩讐おんしゅうが中に込められている。あの男がボクの前に立った時、この怨みで殺すと決めていたから作り上げたもの。けれどあの男は逃げて、逃げて逃げて、ボクらのお姫様ソフィアに詫びる事すらなく、病に死んだ」

「……死の淵でも、あの人は俺とソフィアの仲を気にしていました。それが精霊の力を望んでいたのか、何を考えていたのか俺には分かりかねます。日記を綴るような方でもありませんでしたから」

「だろうね。ただ、詫びの言葉すら精霊も聞いた事が無いと、そう受けているよ。ね」


 強めた言葉の意味を不可解に思うと、背後のアンが説明をした。


「風の精霊様はその名の通り風を吹かせるだけでなく、性質上かと思いますが情報を得やすいのです。風の噂という言葉はと考えてください」

「おや、風に紛れるキミも似たような性質だろう? まぁ索敵と急襲サーチ・アンド・デストロイに関してはそちらに軍配が上がるとは思うけれど」

「……つまりは、お祖父様の心の内は墓まで持って行かれてしまった、という訳ですね」

「そういう事だね。けれど、あの男がアイリーンに詫びるような事は無いだろう。彼女が死んだ時のあの空虚な目は、映してはいなかった」


 パキリと精霊長が指を鳴らすと黒い石が俺の周りを即座に囲み、切っ先とも言える鋭い先端を俺に向ける。つまり、一瞬にして俺は窮地に立たされてしまった。


(──これが、人が及ばぬ力)


 思わず、喉が鳴りそうになる。

 しかしここで心が折れては、ソフィアと会話する事も出来なくなってしまう。俺は息を一つ吐いて、精霊長を見つめた。


「死地を幾度も超えただけあるようだ。普通の人間ならこんな状況、恐怖で悲鳴でもあげるものだよ」

「俺は、この国を……ソフィアを守りたいと。そのために強くならねばとこの身を鍛え、魔物や悪人と何度も対峙し、ほふった。人を斬れるのは異常者だというのなら、俺は普通の人間ではない」


 しかし心と体の痛みを知っている。

 簡単に悪と言っているだけで、生死のかかる相手にとって己も悪である事も知っている。魔物による被害を受けるのは人間だけではない事も知っている。

 救えぬもの、救う事が出来ぬもの、それらがある事を自覚した上で、大切な人達──ソフィアを守る上で、忘れてはならない事も。


「たとえ俺を愛していなくとも。たとえこの世界の全てが敵になったとしても……俺はソフィアを、彼女をひとりにはしない。彼女が望まなくとも俺はその盾となり、彼女の為なら全てを捨てられる」

「それは、何故?」


 精霊長が冷たく言い放つと同時に一層大きな黒い石が俺の前に現れ、喉元を狙うように鋭い先を向けて空中に留まる。答えによってはこれが俺の喉を貫き、助かっても声が出せなくなるか満足に食事は取れなくなるだろう。

 まぁ、それでも良い。

 けれどこの答えは、最初はソフィアにだけ明かしたかった。


「──俺が、ソフィアを愛しているからです」


 息を呑む音がした。

 しかし俺は、その音を見る事なく目を閉じて喉が貫かれるのを待つ。

 許されるものではない。わざとソフィアを傷付けた俺が、知らないとはいえ先代の精霊姫を死に追いやった血の入った俺が、精霊やソフィアに愛されるものか。

 そもそもソフィアと釣り合うだけの価値の証明なんて、最初から出来る訳が無かった。価値なんて相手によって基準も計測器も違うのだから、恨まれているのだとしたらひとかけらの可能性も立証はされない。

 ただ、心残りがあるのなら。


(ソフィアに婚約者らしい事を、見つめあってダンスを踊るくらいは、したかった)


 俺がソフィアとも会う前、体の弱いお祖母ばあ様がベッドの上で語っていたのを思い出す。


『あの方は、ダンスを踊っている間は私を見ていてくださる。その時だけは私だけを愛してくださるから、私はダンスが好きなの。いつかウィリアムも大切な方が出来たら、ダンスが好きになるでしょう』


 ああ、本当に俺は、許されない事をした。



「──ぃや、まって、待ってください!」



 バキンッ! と割れた音が耳を突いて、目を開け、驚く。

 朝日に輝く深雪のように、極光に輝く金剛石ダイヤモンドのように、美しく気高い狐の姫が、涙を流しながら声を上げたのだ──。

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