人間の王子様が強くなる事を決めた日

 昔の話をしよう。

 ソフィアへの想いを自覚した日の事だ。


 その日はとてもよく晴れ、母上にソフィアちゃんとお茶するのに最適な日ね、と微笑まれた事を覚えている。対し、そうですねと適当な発言しか出て来なかったのは、婚約者と会う為に騎士団の訓練に参加出来ず不満だったからだ。

 参加と言っても当時は騎士の家系の子供に混じって稽古や大人達の模擬戦を見学するしかなかったが、俺は頭の出来のいい兄上がいるので国の守護を担えればと考えて剣を学んでいたのでそれ以上の有意義さを(お祖父様からの言葉はさておき)感じていなかった。それに女に会いに行ったのか、と次の日に揶揄われるのも目に見えていたから、嫌だった。

 早く茶を飲んでさっさと帰ればいいのに、これなら座学の方がマシだと思っていた。


「──ソフィア様!」


 悲鳴に近い声を上げる侍女、くらりと揺れる、先程まで笑顔だった少女。

 思わず腕を引いて抱き止めたが、赤い顔で少し唸っている姿に俺はパニックに陥る。悲鳴に近い声を上げていたのと別の侍女に声をかけられてやっと、彼女を近くの木陰まで抱えてやれた。

 侍女のエプロンを枕にソフィアを寝かせると、そのまま侍女は医者を呼ぶと立ち去り俺とソフィアと遠巻きに庭園を警護する近衛騎士達だけになった。今思えば、この混乱に乗じて幼い王子とその婚約者が狙われる可能性があったから仕方ないが、当時は彼女が目を覚ますにはどうしたらいいか彼らに聞きたくて仕方がなかった。

 しかし、誰も大人が近くにいなかったからこそ、気を失った彼女の頭にふわふわの獣の耳が現れたのを見たのは俺だけだった。

 一本一本が氷のように溶けてしまいそうな透明感のある白銀の髪は美しいのに、新雪のような真っ白な毛色の耳はふわりとしており愛らしい。そんな彼女が唯一その瞳に宿した淡い青緑色も、積もる雪の中に穴を開けた時のような優しく綺麗な色だ。


「お、い」


 もうその淡い青緑色が見られなくなって数時間経ったように思えた。白かった頬も真っ赤に染まって、呼吸もまだ安定していない。

 いつ目を覚ますのだろう。もし、一生このままだったら。


「嫌だ、それは嫌だ」


 胸がざわつく。本物の雪のように儚く溶けてしまいそうなソフィアの手を握る。小さくて柔らかな手を繋いでいれば彼女がどこへも行かないと思わなければ、落ち着かなかった。

 しばらくそうしていると、やっとソフィアの事情を知る医者が来て、しばらく涼しいところで休ませれば大丈夫と聞かされて、俺は安心した。

 けれど心はまだ彼女が心配で落ち着かず、まだ手を繋ぐ事にした。

 するとやっと息が落ち着きおぼろげに意識を取り戻した彼女が、うわ言のように言葉を紡いだ。


「で、んか、へいき、ですか」


 俺の心配だった。


「ああ、俺は問題ない。お前こそ、具合が悪いのに会いに来るやつがあるか」


 ソフィアはとろけそうな笑みを見せる。


「だって、でんかに、あいたくて」

「……俺に?」

「さいきん、きしさまのおべんきょ、してるって、きいて、しんぱいで」


 騎士様のお勉強、つまり騎士団での訓練の事だろう。確かにそういった話を誰かから聞いたのかもしれないが、それを何故彼女が心配するのか。

 疑問に思う俺に、ソフィアは少し苦しそうにしながらも答えてくれた。


「けが、してたら、どうしようって。いたいとか、つらいとか……でんか、が、くるしんでいたら、やだなって」

「それは、お前に関係ないだろ」

「でんかのこと、すきだから、しんぱいなんです。かんけい、ないなんて、かなしい、わ」


 くたりと笑うソフィアの姿に、胸が痛んだ。何故俺はこんなに一途で優しい少女をロクに知ろうとせず、有意義ではないからと距離を置いていたのかと自分を責めるほどに。

 腹をぐるぐるとかき混ぜられているような不快感と焦燥感に苛まれていると、ソフィアは言葉を続けた。


「でも、つかれちゃった。ねても、いい?」


 喋るだけでも辛いのだろう、今にも眠りそうな彼女に俺は手を繋ぎ直してから、いいぞ、と応えた。

 たったそれだけでもソフィアは顔を綻ばせて、ゆっくりと目を閉じた。眠ってしまえば年下の小さな女の子だ、お祖父様が言うような恐ろしいものでもなんでもない、頭では分かっていてもその時やっと心から理解したと思う。

 そして、今思えば淡くともこの頃の俺には大きな、ソフィアへの恋慕にも気付いてしまった。


「俺が、この子を守らなければ」


 俺の感情抜きで考えるなら年下でありながら礼儀正しく、素気ない年上の俺を慕う、いい子だ。しかしいずれ彼女は美しくも素晴らしい淑女になるだろう。

 そんな彼女が安心して笑顔で暮らせるように。優しい彼女が俺を心配する事もないように。


「俺が、強くならなければ」


 子供だからこそ、自分が研鑽を積めば必然的に彼女を守れると思っていた。

 王族だからこそ、お祖父様亡き後は俺から彼女を解放してやる事で守れると思っていた。


 現実は、そう甘くない。



「──ウィリアム殿下。クエール伯爵家に何用でございましょうか」

「前伯爵夫人にお目通り願いたい」

「大奥様はもうすぐおやすみになられます、殿下とはいえ急過ぎるご訪問は困ります」


 騎士団内で足の速い馬に跨り、クエール伯爵領に到着した。砂埃も何も払う頭もなく訪問したのは、もう夕食も過ぎた頃合いだった。初老の執事が毅然とした態度で断るのも無理はない。

 しかし、俺は負けじと言葉を続ける。


「遅い時間である事は重々承知の上……だが俺にとっては急がねばならない事なんだ。俺が、俺が償わなければ、ソフィアに顔向けが、」

「──ケン、もういい。王子様を湯浴みさせておやり。自分で分かってはいないようだけれど、焦燥しきって話も満足に入りゃしないよ」


 そう言って執事の背後にやってきた前伯爵夫人は、異国の王族のようなたおやかさと威厳を持って現れた。

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