感情を理解しない僕が、小説を書く

 餅井アンナさんの『へんしん不要』をぱらぱらめくりながら、体調の波に揺られていた。遭難寸前の僕の体調は、ただ生きるだけで精一杯というありさまだったけれど、週末を何とか生き抜いて、月曜日を迎えている。

 週末、やりたかったことに少しずつ手をつけるのに成功した。創作の交流(いわゆる、うちよそ)の設定を練ってみたり、FFXIVのメインクエストを進めてみたりした。

 依頼されていた文章も書き上げたし、読みたいと思っていたものにも、目を通せた。

 横になっている時間も相当あったのだけど、少しずつ復調の兆しが見られて、僕は多少なりともほっとしている。


 他人の小説を読んでいると、自分の実力不足をまざまざと見せつけられることがある。今回が、そうだった。

 僕は本当に何かに見切りをつけるのが早い。よく言えば迅速果断だけど、その分可能性を潰してしまっていることもきっとあっただろう。でも、切り捨ててきた可能性に未練はない。

 それでも、小説に関しては、どうやら僕は見切りをつける気がないようなのだ。諦めがいいことを長所として挙げていたくせに、ここだけは譲れないのだ。

 ”自分の読みたいものを書きたいように書く”ためには、続けるしかないからだ。やめてしまったら、自分の読みたいものは一生手に入らない。

 純粋に自分のためであるなら頑張れるらしい。そういうところも、僕らしくていい。

 だから、小説を諦めるつもりは全然ないのだが、読んだ小説のあまりの出来の良さに、自分との実力差を感じて絶望したのもまた事実である。

 その小説は感情の描き方が上手で、僕はこれほど鮮明に感情を描き出せる自信がなかった。

 感情。現実でもフィクションでも、僕の苦手とする分野だ。


 僕の目には自分の感情も、他人の感情も、不鮮明に映る。自分の感情は時間をかければ言葉になるものもあるが、そんなにぽこぽこと現実に対しての感情が発生しない。

 記憶力が人よりいいから覚えているだけで、そこに感情は付随しない。そんなことはざらにある。

 他人の感情は、さらによくわからない。同じことをしても、違う反応が返ってくることがある。再現性がなくて、混乱して、僕はそれをさっさとごみ箱に放り投げる。

 そんな風だから、感情豊かに伝えることは、僕の最大の苦手分野である。仲のいい友人にしか表情を動かさないので、久しぶりに仲のいい友人達と通話したら、表情筋が疲れることもあるくらいだ。

 以前、ある人が「感情を理解できない自分には小説が書けないのではないか」と書いていた。僕は、そんなことはないと思う。

 人間の心だって、心理学や精神医学によって解き明かしうるものなのだから、ある程度の汎用性のある理論を確立することはできるはずだ。それなら、僕自身が他者の感情について、実感のある理解をできなくても、何ら問題はない。

 サンプルを集めたり、心理学や精神医学を学んだりすることで、僕自身の欠落が小説の出来に与える影響を小さくできるだろう。

 現実の生活に与える影響は、生存に関わらない限り、ゼロとする。(物理や数学の問題にありそうな表現だな。)

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