第72話ぼろぼろな駝鳥・高村光太郎:どうにもできない怒りと悲しみ
高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」を読みました。底本は『近代詩の鑑賞』 さえら書房(一九五八年)です。
青空文庫で読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/card56694.html
高村光太郎は日本の詩人、歌人であり、彫刻家、画家でもあります。
一八八三年(明治十六年)、彫刻家高村光雲の長男として東京に生まれました。
東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科に学び、在学中に与謝野鉄幹主宰の新詩社に参加して詩を発表。詩集『道程』『智恵子抄』などがあります。
一九五六年(昭和三一年)肺結核のため七三歳で亡くなっています。
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ぼろぼろな駝鳥
高村 光太郎
何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみのなかでは、
脚が大股すぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも喰らふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかりみてゐるぢゃないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるじゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、もう止せ、こんな事は。
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アフリカのサバンナに生息していて、古くはいくつかの種類がいたようですが、昔、ヨーロッパ貴族などが、その羽根を珍重したため絶滅して、現在は一種類だけになったとか。
私はダチョウと言うと、オーストラリアのイメージが強かったのですが、オーストラリアにいるのは、ダチョウの仲間ではあるのですが、ヒクイドリ目ヒクイドリ科エミュー属の鳥だそうです。
それはともあれ、この詩の駝鳥は四坪半の、ぬかるみの中で飼われています。
四坪半は、約十五平米、およそ畳九枚の広さしかありません。
サバンナの乾いた大地を、伸び伸びと駆けていた大きな鳥が、狭い、それもジメジメしたぬかるみの中に置かれている違和感。
アフリカの熱い気候に生きていた鳥なのに、今は寒い雪国に、ぼろぼろの羽根をまとって立っている姿が描き出されています。
最近の動物園は、生育環境に配慮して動物を管理していると思いますが、かつては人間のエゴで、行き届かない場所で生かされていた動物も少なくなかったのかもしれません。
「……ぢゃないか」「……ぢゃないか」と何度もたたみかけるような表現は、詩人の心が感じ取ったダチョウの心。反発や怒りや、自分ではどうにもできない悲しみが、むくむくと膨らんで行くように感じられました。
最後には「人間よ、もう止せ、こんな事は。」と、頭を抱えたくなるような感情が吹き出してくるのです。
ここに表現されているのは、目の前にいる哀れなダチョウの姿であると同時に、詩人がおかれている環境、さらには詩人が生きている人間社会という環境への思いでもあるのかもしれません。
(記:2018-03-08)
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