第7話 衰山(前編)

 僕は驚愕した。

 新歓を兼ねた剣道部初日。

 更衣室で着替えていると、遅れてあの男が入ってきた。

 安居院だ。

 剣道部に入部してきたという事は、やはりあの全中で『組手甲冑術』というものを使い、大暴れした男、安居院貴久に間違いないと思った。

 それは僕だけじゃなかった様だ。

 小声で皆、ささやいていた。

「おい、安居院ってまさか……」

「何でウチの高校に?」

「絶対人違いだろう」

 僕の隣で着替えていた、中山武良なかやまたけよしが耳打ちした。

「もしかして全中で大暴れした奴かな? 俺、見たんだよな」

 僕は思わず頷いてしまった。

 中山武良。

 彼もまた、全中の事件の目撃者の様だ。

 どういう経緯で目撃したのか、詳しく聞きたかったが、安居院が着替え始めた時だった。

 僕もそうだが、そこにいた全員が息を呑んだに違いない。

 安居院の身体中には、数えきれないほどの無数の傷跡があった。

 一体どうしたらそんな傷跡が出来るのか。

 僕の脳裏に、全中の映像が蘇る。

 あの鬼気迫ききせまる大暴れ。

 面金で見えなかった表情。

 彼はどんな表情で暴れ倒したのか。

 幾ら想像してもキリがない。

 ただハッキリとしているのは、身体中の傷跡から、安居院という男の強さが、この更衣室で少しだけ分かった様な気がした、という事だった。

 安居院はさっさと着替えて、防具も付けて面を抱えて、更衣室を出ていった。

 何も話さず、誰とも目を合わさず、ただ着替えて出ていっただけだ。

 それなのにここにいる僕を含めた全員は、彼に釘付けになり、彼に驚愕し、彼に息を呑んだ。

 しん、と静まり返る更衣室。

 まるで嵐が過ぎ去ったかの様。

 とにかく、僕は圧倒された自分自身に、しゃくに障った。

 そんな自分が悔しかった。

 僕は慌てて着替えて、安居院を追うように更衣室を出ていった。


 先輩たちとの打ち込み練習が終わり、僕ら新入部員は、それぞれ横並びになり、面を外した。

 先輩たちの中心に出ているのが、部長の佐々木誠ささきまこと先輩だ。

 そして道場の脇に、正座して見守っているのが、剣道部顧問の山本先生だ。

 この河口高校の剣道部を、強豪校へと導いた功労者である。

 先生、といっても教員ではない。

 元警察官で、県警の剣道部に所属していた経歴を持っている。

 所謂いわゆる、外部顧問というやつだ。

 だけど話によれば、もうこの高校には剣道経験者、もしくは経験がなくても顧問になる教師がおらず、元警察官という肩書きで、剣道部の顧問を任されているという話だ。

 元警察官の県警クラスだから、その強さは尋常じゃないだろう。

 河口高校の剣道部を、より強くする事が出来る訳だ。

「新入生諸君。まずは剣道部入部を嬉しく思う。自分から向かって、右側の新入生から、自己紹介をお願いしたい。名前、出身校、入部の動機を聞かせてもらえたら嬉しい」

 佐々木部長が挨拶する。

 向かって右側から、次々と自己紹介が始まる。

「ここで切磋琢磨して、インターハイを目指したいです!」

「自分はベスト8止まりでしたが、ここでその壁を破りたいと思っています!」

「ベスト8にも入れなかった自分が悔しかったので、ここの剣道部で叩き上げていきたいと思っています!」

 それぞれ新入部員が理由を述べていく。

 その中にはさっき、僕に話しかけてきた中山もいた。

 しかし。

 このままいくと、安居院貴久に当たる。

 僕は部長から向かって左側から二番目、安居院は丁度、佐々木部長の対面の位置に正座している。

 僕はまるで自分の事の様に、狼狽している事に気が付く。

 この男が一体何を言うのか。

 何をしでかすのか。

 それは何とも言えない、複雑な感情だった。

 期待と不安が、入り混じっているようにも思えた。

 待てよ?

 期待と不安だって?

 僕が安居院に、何を期待しているというのだ?

 あいつは全中で大暴れをし、審判たちにまで手を出した奴だぞ?

 それに不安って…。

 あの映像を観て、驚愕し、圧巻し、そして恐怖した。

 ここへ来てあれがフラッシュバックしてくる。


「この小僧に当たらなくて良かったな」


 細川先生の言葉まで入り混じってくる。

 僕の思考は、もう破裂寸前だった。

 無情にもそれは来てしまった。

「次」

 佐々木部長が声を掛けた。

 呼ばれた安居院は、不敵な笑みを浮かべ、視線を上げて高らかに言い放った。

「三保ヶ原中学出身、安居院貴久」

 出身中学と名前のみ、それ以上何も言わない安居院。

 三保ヶ原中学。

 剣道中等部の間では、聞いたことがない学校だ。

 全中の冊子には、確かに出身校が印字されていたが、やはり知らない。

 しかしそんな事はどうでも良かった。

 他の新入部員は、目標等を答えているというのに、何も言わない。

 ただ薄っすらと笑っている。

「お前、それだけか? 噂では聞いているぞ? 全中で大層な事をしでかしたって。それ以上何も出てこないのか?」

 佐々木部長は全中での事件を織り交ぜ、挑発的に、しかし静かに言う。

 だが安居院は、微動だにしない。

「何もないのか! 貴様ぁ!」

 佐々木部長の後ろに並ぶ、先輩たちが安居院に対して声を荒げる。

 それもそのはず、安居院の笑みが消えず、まるでその姿が人を小馬鹿にしているように見えるからだ。

 安居院の身体が小刻みに震える。

 不敵な笑みを浮かべながら。

「くっくっくっ……」

 遂に声が漏れる。

 僕は思う。

 安居院は完全に、佐々木部長たちを馬鹿にしている。

 安居院の視線が、先輩たちを一瞥いちべつする。

「こんなところで、それぞれが自分の目標だのなんだの語って、一喜一憂して、何が楽しいんだか。小さな世界でしか物事をはかれない奴らとは、一緒にしないでいただきたい。ここにいる新入部員、先輩方共々にね」

「何?」

 佐々木部長が睨みつける。

 僕は顧問の山本先生を見る。

 先生はこのやり取りを静かに見守っているが、その目つきは鋭かった。

 それが呆れているのか、それとも怒りからきているものなのか、僕には計り知れない。

「敢えて言いますよ、ここにいる新入部員たちも、あなた方も、俺には勝てない。そんな俺がここで何かを言いますか? ここにいる皆と慣れ合いますか? 試合に負けたら傷でも舐め合いますか? ちゃんちゃらおかしい」

「安居院、口を慎め」

 佐々木部長が動く前に山本先生が、割って入り一喝する。

「お前はここへ何しに来たのか? それを聞くというのがあってもいいのではないか?」

 山本先生は声を荒げる事もなく、静かに安居院に問いかける。

 が。

「山本先生でしたっけ? 県警崩れの元警察官。元公僕もとこうぼくの犬。河口高校剣道部を強化するために、外部顧問として就任した。聞こえはいいが、正直どうなんです? 何だかんだ言いながら、所詮は金で動いただけなんじゃないですか? 剣道やっている者は、プライドだけは高いですからねぇ。特に元警察官であれば、尚更では?」

「安居院! 面を付けろぉ!」

 声を上げたのは山本先生ではなく、佐々木部長だった。

「山本先生への侮辱は許さん! そこまで言うのなら、貴様の実力を見せてみろ!」

「実力? 先輩だけ暴走しているみたいですけど、山本先生、いいんですか?」

 山本先生は何も言わない。

 その沈黙は、佐々木部長へ『やれ』と促しているようにも見える。

 佐々木部長が面を着け始める。

 これを止めようとしない限り、山本先生の返事は『やれ』という、暗黙の了解である事を意味していた。

 安居院が立ち上がる。

 すると、急に防具を外し始めた。小手、胴、大垂が次々と外されていく。

 そして道着と袴姿の状態で、安居院は竹刀を持つ。

「貴様、ふざけているのか?」

 佐々木部長は防具を着け終わり、安居院のその舐めた構えに、さらに声を荒げる。

「ふざけている? いや、ふざけてませんよ。これで十分だって事です。部長は防具を着けていた方がいいですよ。念のため」

「どういう意味だ?」

「どういう意味も何も。そういう意味ですよ」

 嘲笑う安居院。

 僕や他の新入部員たちは、面と竹刀を持って、皆慌てて後ずさり始める。

 安居院は足元に並んだ防具一式を、横足に蹴った。

 道場の隅に転がっていく小手や銅。

 この男に防具や竹刀は、さほど大事なものではないという概念が、僕に焼き付けられた瞬間でもあった。

 佐々木部長が中段構えになる。

 気合いを入れる部長。

 対する安居院はただ黙って、構えも取らずに帯刀したまま、佐々木部長を見据える。

 そして再び挑発する様に、安居院は笑みを浮かべる。

 初手は部長が動いた。右足の踏み込みから、安居院を試す様に面を狙う。

 竹刀の動きは小さい弧を描く。

 決して大振りではない。

 かつ素早い。

 だが瞬きをする間がないほどの素早さで、竹刀で受けずに、安居院の半分の肩幅ほどの距離で、佐々木部長に近づく様に避ける。

 構えず避け、その度に挑発的な態度をとる安居院の姿に、

「貴様ぁ!」

 佐々木部長の怒号が、道場に響き渡る。

 幾度となく攻めに入る部長を、まるで赤子を安康あやすかのように、安居院は避けてみせる。

 この動体視力、どのように身に付けたというのか。

 足捌きといい、相手の攻撃を完全に読んでいる。

 僕は映像で観た安居院の動き、目の前で部長と立ち合っている安居院の動きは、防具を着けていようがいまいが、寸分たがわぬ速さ。

 いや、違う。

 これでも手を抜いているのかもしれない。

 細川先生の言葉が脳裏に浮かぶ。

 僕が知っている限り、安居院の実力は、未だに計り知れていない。

 全中で大暴れしたあの男と、目の前で佐々木部長と立ち合っている安居院は、同一人物である事は確かな事実である。

 しかし肝心の剣捌けんさばきを、この目でしっかりと見た訳ではない。

 佐々木部長の竹刀が、安居院に届かない。

 部長だって、インターハイ個人戦で三位に入った実力者だ。

 なのに、いよいよ肩で息をし始めている。

 未だに安居院は帯刀したまま。

 抜刀する動きを見せない。

 完全にこの場の空気は、安居院に向いていっている。

 その証拠として、息切れの一つも見せていない。

 防具を着けていないから、と言ってしまえば片付いてしまうのだが、避ける《、、、》という動きは、攻めるより難しい。

 どの分野でもそうだと思う。

 最大な防御、といっても過言ではない。

 その一つである『避ける』は、余程の動体視力、身体能力がない限り、不可能に近い。

 しかも一度も竹刀が、身体を掠める事もなく、当たらないのだ。

 化け物か、この男は。

 周りがざわつき始める。

 当たり前だ、佐々木部長の疲れが、あらわになっているのだから。

「これでお終いですか? 佐々木部長、、、、、?」

 ようやく抜刀し、中段構えになる安居院。

「結構、息が上がっていますね? 一分間、ブレイクタイム入れても構いませんが?」

 不謹慎にも、僕は「上手い」と思ってしまった。

 どの格闘技でも、武道でも、功を焦る事は禁物だ。

 まさに安居院はきょを付いて、佐々木部長のプライドを折りにいっている。

 このあおりに躍らせてはならない。

 佐々木部長だって、それは心得ているはずだ。

 しかし、それはあくまで冷静な判断が出来る時に限る。

 肩で息をしている部長の判断は、完全に鈍ってしまった。

 気合いと共に、大振りの弧を描いた面打ちに入ってしまった。

 安居院はギリギリのところで避け、中段に構えた竹刀が、小さく弧を描いて面打ちを取る。

 が、そのまま身体を引くと同時に、竹刀が小手に吸い込まれるように打ち込まれた。

 いや、打ち込まれるというより、触れた様にも見える。

 その直後だった。

 佐々木部長は、竹刀を落としてしまった。何の前触れもなく、ストーンとごく自然に。

 試合ではあまり見ない光景が、今まさに目の前で起きている。

 一体何が起きた?

 周りの皆は、おそらく面打ちで竹刀を落としたと思っている。

 しかし僕は確かに見た。

 面打ちはさほどの威力もない。

 もっと言えば、吸い込まれるように、竹刀の剣先が小手に触れたのだって、何も威力を発揮しているように見えない。

 佐々木部長はそのまま、床に膝をついてしまう。

 先輩たちが部長の元に駆け寄る。

 安居院は中段構えからの蹲踞そんきょ、帯刀して身を引いた。

 試合後の作法。

 だがその表情は、とてつもなく悪意に満ちていた。

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