降臨祭
――九六九年 変遷節
「随分器用になったね、『ヤドリギ』」
「そうだろうか」
『獣のはらわた』の上層は、未だ雪季の寒さが残る日でありながら、いつになく明るく、そして温かい。普段は日々のために節約している油をたっぷりと使って火を灯し、あちこちから料理のよい香りが漂っている。
本来ならばここまで目立つ真似をすれば警察に嗅ぎつけられてもおかしくないが、今日というこの日だけは特別であることを『ヤドリギ』は知っている。だから、普段にない高揚した空気を味わいながら、左手にナイフを持ち、右の蔦で芋を支えながら、皮を剥く。
「ここに来た頃は、芋を剥くのだって、残る実の方が少ないくらいだったじゃないか」
つい唇を尖らせる『ヤドリギ』に対して、けらけらと陽気に笑ってみせるのは、『ヤドリギ』より以前から『獣のはらわた』に住まう女性だ。周囲からマギー、と呼ばれていること以外、『ヤドリギ』は彼女について知っていることはない。
『ヤドリギ』と『はらわた』の住人の関係というものは、そういうものだった。お互いに深くは踏み入らない。ただ、必要な時には助けを求めるし、助けになれるようなら応じる。そうして共に暮らしながら、地上に出られる者が現れたら、背中を押して笑顔で送り出す。
もちろん、それはあくまできれいごとで、実際にはもっと人の心理というのは複雑であるし、時には刃傷沙汰に及ぶことだってある――『ヤドリギ』がかつて経験したように。ただ、『ヤドリギ』の知る限り、近頃はそういう血腥い出来事は随分減ってきたと思っている。
だから『ヤドリギ』は感謝をしている。今年も無事にこの日を迎えられたことに。
この日まで、息をしていられることに。
しゃり、と音を立ててじゃがいもの皮が落ちる。やはり『ヤドリギ』の左手は少々不器用で、皮にはかなり身がくっついてしまっている。それでも、以前よりはよっぽど力の加減がわかるようになってきたのは間違いない。少しずつ、ほんの少しずつの歩みではあるけれど『ヤドリギ』も変わりたいと願って、そして実際に変わっているのだと実感する。
「でも……、本当に。あたしからあんたに教えることも随分少なくなったね。最初は芋の剥き方も知らなきゃ、なんにも知らなかったんだから」
「恥ずかしながら、生活に必要なことをまるで知らずに育ってきたからな」
本当に、それは『ヤドリギ』にとっては恥じるべきことであった。
そう、自分にとってそれらは「必要のないこと」だと勝手に割り切っていた。勝手に、というよりも、気付いてすらいなかったと言った方が正しいか。自分がやらない、ということは他の誰かがやっていることなのだ、ということを、全く意識せずに生きてきたのだ。この『はらわた』で拾われるまでは。
老マギーは『ヤドリギ』よりもずっと器用に芋を剥きながら、何かを懐かしむように皺に縁取られた目を細めた。
「そうだね。そういう『立ち位置』の子なんだな、ってのはひと目でわかったよ」
立ち位置。――この女王国には、厳然とした「立ち位置」がある。その者が生まれついた血と場所によって定められてしまう、役割、職分、そして肩書き。
今まで『はらわた』の人々は誰も、それこそ老マギーも『ヤドリギ』の立ち位置について言及はしてこなかった。『はらわた』に住まう者たちの不文律というやつだ。ただ、皆、最初から気付いてはいたのだろう。『ヤドリギ』の不釣合いさを。
「でも、あんたは今まで流れてきたその手の連中と違って、何だってやろうとした。ごく自然に、そのぶきっちょな手で何ができるのかを考える子だったから、今、あたしと一緒に芋を剥いてる」
「それは当然のことだろう」
「いーや、難しいことだよ。とっても難しいこと。あんたが思っているよりも、ずっとずっと、ね。それができない子は、みんな『はらわた』からいなくなったから、実感はないかもしれないけれど」
いなくなった、という言葉について『ヤドリギ』は思いを馳せる。要するに、この狭い共同体に迎え入れられなかったということ。追い立てられるようにして、結局はどこにも居場所などない地上に戻っていったか――もしくは、『はらわた』の奥へと向かっていって帰ってこなかったか。どちらにしろ、ろくなことにはならなかった、ということだろう。
『はらわた』の上層で生きる者たちの共同体は決して甘いものではない。氏素性は問わないが、そもそも生きていくだけでも精一杯の場所なのだ。役に立たない、その姿勢すら見せない者を食わせていられるほどの余裕はない。
「だからね、あたしゃ時々考えるのさ。『ヤドリギ』は、どうしてここにい続けるんだろう、ってね」
「どういうことだろうか?」
「きっとあんたは地上でも上手くやっていけるよ。その体でも、ね。あたしたちと上手くやれるんだ、外でもそれができない道理はない。だから、『何故』をずっと聞いてみたかったんだ」
老マギーの言葉を、『ヤドリギ』は否定しなかった。できなかった。
そう、色々と言い訳はしてきたし、自らここから出ることを禁じてはいるけれど、何も『獣のはらわた』にい続けなければならない決まりなど何一つないのだ。この体は確かに人のそれとはかけ離れてしまったけれど、だからといって地上に「出てはならない」理由にはならない。事実『ヤドリギ』は何度か自らその禁を犯している。
答えなくても構わないのだろう、と『ヤドリギ』は思う。老マギーも、別に答えを求めているわけではなさそうだった。それでも『ヤドリギ』はぽつぽつと、胸の中に浮かんだ答えを声にしていた。
「俺には、『はらわた』の住人に助けられた恩がある。その恩に報いるには、まだ足りていない」
「そうかい? あんたはぶきっちょだけど、代わりにあたしたちが必要としていた水や食糧を探してきてくれる。時には医者の真似事だってしてくれる。あんたのおかげで助かった命を考えれば、十分すぎるほどだよ。仮に、あんたが『外に出る』と言っても、惜しむ奴はいても誰も止めないだろうさ」
ここの住人にとって地上に出る、地上に居場所を得るというのは何よりも尊いものであるから。地上に居場所を与えられたとすれば、確かに誰も『ヤドリギ』を止めることはないだろう。
――だから、理由としては足りないことを『ヤドリギ』も実のところ既に理解している。
恩を返したいと望んでいるのは嘘ではない。まだ足りないと思っているのも、嘘ではない。ただ、もうひとつ。『ヤドリギ』にはどうしても「ここ」にいなければならない理由があった。
「もうひとつ理由があるとすれば、俺には、『これから』すべきことがある。そして、それにはこの場所が他のどこよりも都合がいい、そう考えてここにいる……、と、言うべきだろうか」
日がな『獣のはらわた』の深部を探索しているのも、『はらわた』の正確な地図を作っているのも、植物の採取をしたり、来訪者の案内人をしていることだって。全ては、『ヤドリギ』のごく個人的なたった一つの目的に集約されていると言っていい。
本当に。……本当に、ごく個人的な。けれど今の『ヤドリギ』を突き動かす、ある意味では「唯一」の目的でもある。これがなければ、それこそ『はらわた』の奥で今ももの言わぬ何かになっていたであろう、という確信がある。
しゅ、しゅ、という皮を剥く音だけが響いていた空間に、「はは」と小さく老マギーの笑い声が響いた。
「都合がいい、か。はは、あんたからそんな言葉が聞けるとはねえ」
「……その、随分利己的で、打算に満ちた理由だとは思っている。あまり、よいことではないとも」
「いいんだよ『ヤドリギ』。それを疚しく思う理由はない。人は綺麗事だけじゃ生きていけないし、あたしはむしろほっとしてるよ。あんたにもそういう精神があるってことにね。そのくらいでちょうどいい。『自分のため』。それが一番人間らしい感情さ」
人間らしい。……その言葉に、『ヤドリギ』は何ともいえない気持ちになる。ざわりと、右肩から生える蔦が蠢くのがわかる。どう言葉を咀嚼すべきかわからずに呆然としていると、不意に、子供の泣き声が聞こえてきた。それと一緒に、別の子供が怒鳴るような声も。
篭の中の芋がほとんどなくなっていることを確認して、『ヤドリギ』は席を立つ。
「申し訳ない、残りを頼んでよいだろうか。少し向こうを見てこようと思う」
「あいよ。……本当に忙しい子だねえ、あんたは」
くつくつという笑いを含んだ老マギーの声を背中で聞きながら、『ヤドリギ』は声が聞こえてきた方向に迷わず足を進める。どうせ、声の主はわかりきっているのだ。
きっと、手伝いはもういらないから、と周りから言われたのだろう、少しばかり広くなっている空間で、まだ十にも満たないくらいの少年二人が、布を巻いた棒を手にしていた。おそらくは、『ヤドリギ』が手遊びに教えた剣術を試していたに違いない。うち一人は蹲って泣いていて、もう一人がその棒で蹲った少年を――その手つきから、本気ではないのはひと目でわかったが――打ち据えているのであった。
が、棒を振り上げた少年が『ヤドリギ』の姿を認めた途端、「げ」と青い顔をしてその手を止めた。一応、自分が何をしているのかは理解しているらしい。『ヤドリギ』は苦笑を浮かべながらも、あえて低い声を出す。
「何をしている?」
「あ、えーと、その」
一人の少年が言いあぐねている間に、蹲って泣いていた少年がぱっと立ちあがって『ヤドリギ』の外套の裾を掴んでもう一人の少年の盾にする。
「試合は終わったのに、ビルが続けて叩いてくるんだ」
「違えよ! レンがルール違反をしたんだ。突きは反則だろ、めちゃくちゃ痛かったぞ!」
ふむ、と『ヤドリギ』は双方の主張を汲んだ上で、まずは「裁定」を行う。
「確かに、俺が教えた範囲では、意図したものであれ、そうでないものであれ、斬り以外の方法で相手に剣を当てるのは禁じ手だな。反則、というビルの言葉は正しい」
「ほら、だから……」
「だが、その時点でレンの反則負けで試合は終わっている。試合が終わった相手に剣を振るうのは、もはやただの暴力でしかない。俺は暴力を教えたつもりはないぞ」
う、とビルが気まずそうな顔をして黙り込む。レンは外套を掴んだままじっと『ヤドリギ』の言葉を聞いている。この二人は一旦頭を冷やせばこちらの話を聞いてくれるのだから楽でいい、と『ヤドリギ』は思う。自分が同じくらいの年頃であった頃は、相当厄介な子供であった自覚があるから。
『ヤドリギ』は左手でぐしゃぐしゃとレンの頭を撫でてやりながら言う。
「レン、どうあれ反則は反則だ。きちんとビルに謝ること」
「う、うん」
「ビルになかなか勝てなくて焦るのはわかる。悔しいのもわかる。が、ルールを逸脱しては意味がない。勝ちたいなら真正面から勝負を挑むこと。突けたということは、隙は見えていたのだろう? なら、どう踏み込んで剣を振るうか、考えればいいだけの話だ」
レンはこくりと頷く。そして『ヤドリギ』は改めてビルの方に向きのある。
「ビル、レンの謝罪を受けてくれるか?」
『ヤドリギ』の問いに、ビルはふんと鼻を鳴らして言う。
「おう。そりゃレンが悪ぃんだからな!」
「ありがとう。その上で、試合の外で剣を振るったことは、改めてレンに謝ること。いいな、君のしたことは試合の外側。暴力を振るった方が悪いのは当然だ。試合の中で納得のいかないことがあったなら、正々堂々としていればいいだけの話だろう」
「う……、お、おう……」
『ヤドリギ』がレンの背中を押してやると、おずおず、とレンが『ヤドリギ』の後から顔を出して、ビルに「ごめんなさい」を頭を下げる。ビルも「俺も、ごめん」と短くもきちんとレンの目を見ながら謝罪の言葉を述べる。この二人にとっては、ある意味ではいつものやり取りだ。『ヤドリギ』がこうして間に入るようになったからだろうか、以前よりは随分諍いも減ってきたと思う。
『はらわた』に、この二人と同年代の少年はいないから、ついぶつかってしまいがちだけれども。ここにいる間は、共に遊び、時には手を取り合える関係であってほしいと『ヤドリギ』は願っている。……自分がそうであったように。
「では、俺は手伝いに戻ろう。今日は鐘の時間までは起きているのだろう? 遊びすぎて眠り込まないようにな」
と、その場を離れようとした『ヤドリギ』の外套が、くいと引かれる。見れば、少年二人が期待を篭めた目で『ヤドリギ』を見上げていた。
「『ヤドリギ』の剣も見せてよ。最近、なかなかこっちにいなかったし」
「そうそう、どうせ手伝いって大したことできねーだろ、ぶきっちょなんだから」
「胸に痛いことを言うものではない。俺だって一応気にしているんだ」
自分が不器用なのはわかりきっているのだ。少年たちの声が聞こえていたらしい一団からも笑い声が聞こえてきて、つい『ヤドリギ』は子供のように唇を尖らせてしまうのである。昔からの癖はどうにも治りそうにない。
ともあれ、「では、食事の時間までな」と言い置いて外套を脱ぐ。今日の『はらわた』は明るすぎて、視線を隠すフードがないのは心細さを感じるが、別段この場で『ヤドリギ』の素顔を知らない者などいないのだ。何も問題はない、と自分に言い聞かせる。
少年から投げ渡された、布を巻いた棒を左手に握りこむ。
――かつて『ヤドリギ』は右利きだった。
本来の右腕はきっと、剣を握ったまま焼け落ちて、とっくのとうになくなってしまっているのだろう。そう思っている。
だから、剣を握る感覚には違和感がある。全ての構えが逆であること。そもそも左手が何かを握りこむことに未だに馴染んでいないということ。もうすぐ八年になるのだぞ、と自分で思っても、そこはどうしようもないことだ。
そろそろ「どうしようもない」とも言っていられないということはわかっているけれど、今は、まだ。
そんなことも知らない――否、仮に知っていたところで気にすることもないだろう、無邪気な少年たちは、各々自分の剣を構えながら言う。
「『ヤドリギ』、そっちの蔦で剣持てたらすごいよな」
「前に『ヤドリギ』が教えてくれた、二刀流の剣士なんて目じゃないよね」
おだてられてちょっとその気になったのか、楽しげにうねる蔦を抑えこみながら、『ヤドリギ』は笑う。
「それは、左手だけの俺から一本取ってから言いたまえ」
言いながら、構える。左右が逆とはいえ、手本通りの構え。『ヤドリギ』は昔から不器用で物覚えが悪かったから、徹底的に基礎を自分の体に叩き込んできた。基礎さえ磐石であれば、その上に何を載せても揺らぐことはないと信じて。……それは、剣術だけでなく、『ヤドリギ』自身のあり方でもあったのかもしれない。
同じように構えるちいさい剣士たちを見下ろして、『ヤドリギ』は笑う。自分は物を教えられるほど立派な存在ではないけれど、それでも、自分を真似てくれる誰かがいるということの素直な喜びをこめて。
「では、行くぞ」
剣を、振るう。
――童心に返る、というのはこういうことを言うのだろうか。
ぼんやりと『ヤドリギ』は思いながら、結局、普段より豪勢な食事の後に毛布を被って眠ってしまった少年二人を眺める。少年たちを相手に剣を振るっている間は、どこか、遠い日の記憶が重なる。戻ることはできない、ただ、痛みよりも懐かしさの方が勝る少年の日の思い出。
それをまだ「懐かしい」と思える自分でよかったと、心から思う。
そうでなくなってしまった時、自分はきっと、本当に人間でなくなってしまうのだろうと思っているから。
「お疲れ様、『ヤドリギ』」
老マギーが温かな飲み物を手渡してくれたので『ヤドリギ』は「かたじけない」とそれを受け取り、ちまちまと飲む。『はらわた』ではめったに飲めない、少しだけ酒の混ざったホットチョコレート。ただ、今日この日だけのために用意されたそれを、大切に、一口ずつ味わいながら口にする。
すると、老マギーが問いかけてくる。
「ねえ、『ヤドリギ』」
「何だろうか、ミセス」
「それで、あんたは、『これから』どうするつもりなんだい?」
一度、途切れた話の続き。
いつかもわからないと思われていた『これから』、のこと。
『ヤドリギ』は考える間に、ひとつ、甘くて少しだけほろ苦い液体を飲み下して。
結局、上手い言葉なんて思いつくはずがなかったから、ぽつり、こう答えていた。
「……その時にならないと、俺にもわからないな」
その時、遠くから鐘の音が聞こえた。普段の、日の変わりを告げるおごそかな深夜の鐘とは違う、真夜中だというのに晴れやかな音色。
はるか昔、この霧の世に女神ミスティアが降臨なされた聖なる時を告げる、一年に一度の鐘。年の終わりを告げ、新たな年の始まりを告げる鐘の音。
ああ、あれだけ遠いと思っていた『これから』がやってくる。
――九七〇年が、はじまる。
『ヤドリギ』は、目を閉じて、手のひらのマグのぬくもりを感じながら、はるかな地上から響く鐘の音に耳を傾け続けた。
祈るように。
願うように。
かつてから見据えていた『これから』が、よき一年になるように。
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