劇場へ
――九六九年 雪季三節
大きな窓に映りこんだのは、知らない顔だった。
元より『ヤドリギ』は鏡をほとんど見ない。ただ、そこに映っているのが「自分の顔でない」ということくらいは流石にわかる。
化粧で丁寧に隠された火傷の痕、色の違う髪に、微かな曇りによって視線を判じづらくする眼鏡。顔を変えるのは初めてではないが、やはり違和感がある。それが自分の手によるものではないだけ、尚更。不器用な自分ではここまで巧妙な変装などできるはずもない。
かくして、姿を変えた『ヤドリギ』はいつかの祭りの日と同じように、一人の女に左手を引かれて、徐々に霧が暗さを増してゆく地上を己の足で歩いている。
――目指すは、首都の中心部、
突如として差し出された二枚のチケットに、『ヤドリギ』は一瞬片方の目を丸くして、それから丁重に左手で押し返したのが数刻前のこと。
「『ハー・マジェスティ・シアター』の年末公演の千秋楽チケットなど、高かっただろう。いつもの詫びも篭めて『金づる』氏でも誘ってやったらどうだ?」
「あら、珍しく誘ってあげようと思ったのに、つれないのね」
チケットをひらひらさせる彼女――常連の『怪盗カトレア』は、今日も地下迷宮の探索に適した地味な姿ではあるが、手にした鞄はいつもより大きい。何せチケットの示している日時は『ヤドリギ』の認識が誤っていなければ今日の夜だ。おそらく、ここを出た後に盛装に着替えるつもりなのだろう。
それにしても、本当に、誘う相手を間違っている。微かに覚える胸の痛みを彼女に悟られないよう、あえて口元に苦笑を浮かべて言う。
「以前の灯花祭はともかくとして、今回ばかりはどうしたって俺には似合わない場であるし、俺も乗り気にはなれない。ほかを当たってくれ」
本当に、――何を勘違いしていたのだろうか、自分は。
一瞬だけでも、女優を目指す少女の手を取って。自分もまた舞台上の俳優であるかのような錯覚に囚われて、その結果、少女に疑いの目を集めてしまった挙句、きっといくつもの面倒が降りかかったことだろう。化物である自分が地上に出るというのはそういうことなのだと、否応なく思い知らされた。否、本当はとっくに思い知っていたはずのことを、完全に失念していたと言った方が正しいか。
どうにせよ、灯花祭に連れ出されたことと、かの舞台袖での特訓が例外的だっただけで、元より『ヤドリギ』は地上に出るつもりはない。特に女王国最大の劇場『ハー・マジェスティ・シアター』の年末公演、しかも千秋楽と来ればいくらでも人は集まってくる。そのような場に姿を現すことは出来る限り避けたかった――、が。
「あんたがご執心の王子様は昼の部を楽しんで、もう公務に戻ってるわよ。流石にこのクソ忙しい時期に、
「……っ!」
彼女の言葉に、咄嗟に何かを言い返そうとしたが、あまりにも想定の外側から差し込まれた情報を、魂魄が正しく処理してくれなかったとみえる。詰まった息だけが喉から漏れただけだった。
彼女はにたにた笑いで『ヤドリギ』が深呼吸をする時間くらいは待っていてくれるつもりのようだった。『ヤドリギ』の表情を面白がっているだけ、という方が正しいような気もするが。
一つ、二つ。何とか呼吸を整えて、彼女を睨めつける。と言っても、本気で睨む気力など、今の言葉で完全に削がれてしまった。
「何のことだ……、と今更言っても遅すぎるな」
「そうね。あんたの裏表のなさは美徳だとは思うけど、政治家向きじゃないわ」
「向いてないということは嫌というほどわかっている。放っておいてくれ」
そして、「どこまで知っているのか」という問いも、ここまで来ればもはやナンセンスだと判断する。『ヤドリギ』は大げさに肩を竦めて、冗談めかして言う。
「で、あなたは、俺を突き出そうとはしないのか? いい金になるらしいと聞くが」
「宝石の話でもないし、別に興味ないわね。……ついでにそれはお互い様、でしょ?」
それもそうか、と長い息をつく。『ヤドリギ』も別に『怪盗カトレア』の犯罪を大っぴらにする気はさらさらない。本当にどこまでも彼女曰くの「お互い様」というやつであるし、その「お互い様」が守られている限りは、彼女は『ヤドリギ』をおちょくることはあっても、決定的に害することはないことを信じている。故に、彼女が与えてきた情報は真実であるということだろう。
「とはいえ、彼と鉢合わせをしなくて済む、というのは確かにいい報せではあるが、それは俺が劇場に行く理由にはならんぞ」
「あら、舞台は嫌いだったかしら?」
「嫌い、というわけではないが。人のいる場所に行きたい気分でない、ただそれだけだ」
これで話は終わりだ、と『ヤドリギ』は彼女を追い払おうとするが、彼女は全く動じる様子もなく、口を開く。
「嫌じゃないなら行ってあげなさいよ。彼女、気に病んでたみたいよ、『ヤドリギ』さんに悪いことをした、って」
結局のところ、動じるのはどこまでも『ヤドリギ』の方だった。何故だか鈍く痛みすら感じてきた頭を押さえて、苦々しい感情を噛み締めながらも問わざるを得ない。
「……どこから、何を、聞いた?」
何とか搾り出した問いかけに、彼女はにんまりと笑って言う。
「『はらわた』の入り口を探して『ヤドリギ』の名前を出しては、上層の連中に追い返されてる女の子がいる、って噂になってたわよ。綺麗な金髪の、この辺りじゃなかなか見ない別嬪さんだったわね。ほんと、あんたってそんなナリで意外とモテるわよね」
「彼女に会ったのか?」
「あら、このチケット、その子から貰ったんだもの。『ヤドリギ』さんにどうしても観てもらいたいから、って。だから、優しい優しいアタシが配達屋さんを引き受けてあげた、ってわけ。で、観に行くの、行かないの?」
差し出されたチケットの一枚を引き抜いて、『ヤドリギ』は溜息をつく。
「降参だ。……あなたには一生勝てそうにないな」
「もう少し素直になった方が楽じゃない? さっきから言ってるじゃない、あんたに腹芸は向いてないわよ。あんたのことを知らない相手には相当有効でしょうけど」
彼女の評価に「どうだか」と返して、左目の前にチケットをかざす。刻まれた文様に、いつの間にやら見慣れてしまった劇の題名。
あれから少女――アイリーンはどうしていたのだろう。きっとあの三文芝居の後始末は上手くやってくれたと信じているし、アイリーンならば今日までの舞台を成功させるために全力を尽くしただろう。それこそ『ヤドリギ』のことなど忘れるくらいに。
……実際に忘れていたら、この手の中にチケットがあるはずもないのだが。
胸の中にわだかまる感情を上手く処理できずに、左手で、それから右手の蔦の先端で意味もなくチケットの紋様をなぞっていると、彼女がこつんと『ヤドリギ』の頭を叩いた。
「さあさあ、ぼーっとしてる暇はないわよ。行く場所が場所だし、それなりの格好に仕立てないといけないんだから。この前の祭みたいに適当ってわけにはいかないしね」
「……なあ、一つ聞いていいか」
「この荷物、半分以上はあんたのために用意したものよ。どうせ、行かないって選択肢はないと思って」
彼女の言葉は『ヤドリギ』が言おうとしていた質問に対する完璧に過ぎる答えだった。
そんな具合で、もはやこれ以上『ヤドリギ』に言えることはなかったから、床屋兼服飾屋となった彼女に全てを任せるしかなくなったのであった。
流行の服や古典ともいえる服。様々に着飾った人々が、『ハー・マジェスティ・シアター』に吸い込まれていくのを『ヤドリギ』はまるで別の世界に来たような感覚で見つめる。自分も今日だけはその中の一人になるのはわかっているのだが、どうにも落ち着かない気分になる。
「あんただって、元々は『向こう側』でしょうが。もうちょっと堂々としなさいよ」
彼女に耳打ちされて、思わず苦笑してしまう。「向こう側」というのは目の前を行過ぎていく、明らかに今の『ヤドリギ』と住んでいる世界の違う人々のことだ。女王国における民の格差は大きい。それこそたった一夜の娯楽のために高価なチケットをぽんと購入できる層と、住む家すらなく『獣のはらわた』に身を寄せ合い、日々の糧にも困る人々の間には、まさしく霧の天蓋と地の底くらいの差が横たわっている、と思っていい。
だから口元に苦笑を浮かべたまま、『ヤドリギ』は軽く肩を竦めてみせる。
「流石に八年近いブランクは大きいな」
「そうやって時間で言われるとなかなかよね。その間地下でじっとしてられるあんたの根気強さと執念深さだけは評価してやってもいいわ」
「どうも?」
もちろん、『ヤドリギ』はこの八年近くの間、言葉通り「じっとしていた」わけではない。その間には色々なことがあったし、時には折れ掛けたことだってあった。とはいえ、それすらも織り込んだ上で彼女はそういう言葉を選んでいるのだろう。八年。長かっただろうか、と思い返そうとするが、よくわからなかった。ただ、諦めずにここまで生きていられただけ上等だろうし、その「上等さ」を彼女は評価してくれているのだろうと思う。
「ほら、背筋伸ばして。そんなしょぼくれ方じゃ逆に目立つわよ」
「はいはい」
彼女に背中を叩かれて、普段から丸まりがちの背筋を意識して伸ばす。『獣のはらわた』で暮らしていると、どうしても足元に注目したり、天井がやけに低かったりと背筋を真っ直ぐに伸ばしている機会の方が少ないのだ。
劇場つき劇団による舞台の千秋楽というだけあって、夜でも人の波は途切れることを知らない。その中にすっと紛れ込むようにして、彼女の手を頼りに『ヤドリギ』は進んでいく。どこかであの少女の姿が見えることはあるだろうか、と思ったが、そんなことはなかった。流れるようにチケットを確認され、そして劇場へと通される。
客の側として劇場を訪れるのは、本当に、八年以上は前の話になる。アイリーンの稽古に付き合う最中、舞台の上から見た客席の広さには驚いたものだが、改めてその広い客席を人が埋め尽くしているさまは、どこか恐ろしくすらあった。これが全て人間なのだ。
――人間。
自分とは違う「ただの人間」。
そう思った途端、変装のために切り詰めた右肩の蔦が、抗議をするように微かに蠢いた。そろそろ『ヤドリギ』にも、蔦が別に「勝手に」動くわけではないということくらいはわかってきていた。どちらかといえば、蔦の方がよっぽど『ヤドリギ』の本音を語っているのだと。
そういう自分だって人間であろう、と。
姿こそ異形と化してしまったけれど、普段から人には「化物」と嘯いてみせるけれど。お前は「人間でありたい」と願って生きているのだろう、と。
「本当に。これだけは、誤魔化せないな」
唇だけで呟く。彼女が「何か言った?」と聞き返してきたが、それに対しては「いいや」と首を横に振る。これはあくまで『ヤドリギ』自身の問題だ。きっと、これからも、ずっと向き合っていくべき、『ヤドリギ』という人と化物の狭間にある何者かの物語。
『化物は乙女の幸せな口付けによって元の姿に戻りました。めでたしめでたし』
そんな都合のよい魔法が存在しない以上、『ヤドリギ』はこれからも自分自身と対話を重ねながら生きていく。せめてこの心だけでも人のものであり続けたいと願いながら。
……ただ、今は。
ふっと照明が落ちる。重たげに舞台の幕が開き「ここではないどこか」の物語が始まろうとしていた。
さあ、夢を見せてもらおうじゃないか。夢を目掛けて駆けていった少女の現在と、これからを。
現在を見据え、未来を夢見ることができるのは、今を生きている者の特権だ。こんなところで立ち止まるとは思えない、輝かしい未来を目掛けて駆け続けるアイリーンがそうであるように。
――そして、息を殺しながらも生きているだけの理由がある『ヤドリギ』がそうであるように。
今は遠き舞台の上で、いつしか見慣れたものとなっていた金髪が、跳ねる。
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