ほのおの病

 ――九六九年 雪季一節



 冷たいものが額に触れた気配に、不意に我に返る。

 左の瞼を持ち上げてみれば、不安げな表情をした青い目の少女が視界に飛び込んできた。アイリーン・サイムズ。……そうだ、今日は彼女の稽古に付き合う日だったのに、眠りすぎてしまったようだ。上体を起こそうとするが、体が思ったように動かない。何よりも、右の半身が酷い熱と激しい痛みを帯びていて、反射的に唇から呻きがもれる。

 アイリーンも慌てて『ヤドリギ』の肩を押さえる。

「起き上がらないで。……すごい、熱だから」

 確かにこの状態で動くのは差支えがあると『ヤドリギ』もぼんやりとした頭で判断し、素直にアイリーンの言葉に従った。

 アイリーンは濡れた布で『ヤドリギ』の額を冷やしながら、言う。

「お医者様を呼んだ方がいいかしら」

「医者を呼んだところで、悲鳴を上げて逃げ帰られるのがオチだろう」

 そんな冗談を言える程度の余裕はあったが、それもほとんど反射的な軽口で、頭はほとんど働いていないのを痛感する。目の前の彼女を安心させられる言葉はないかと思いながら、結局口から出たのはそっけない言葉でしかなかった。

「いつものことだ。すぐ、収まる」

「本当に?」

「嘘をついても仕方ない」

 どのくらい待てばよいのかは日によるが、この熱の波のようなものが過ぎ去ればすぐに楽になるのはわかっている。『ヤドリギ』にできることは、せめて早く収まってほしい、と願うことだけだ。

 アイリーンは少しでも楽になるように、という思いなのだろう、特に激しい熱を帯びている右の頬や首の辺りにひんやりとした布を当ててくる。そういえば、誰かにこうして手当てをしてもらうことも、ここしばらくなかったのだなと思いながら、瞼を閉じる。心身が不安定な状態で何かを「見る」のはあまりよいことではないと、『ヤドリギ』はこの数年で思い知っている。

 ――『ヤドリギ』の目は、時に、この熱のイメージを現実にしてしまうものであったからから。

「でも、こんな熱……、いつもって、苦しくないの?」

「苦しくない……、と言ったら嘘になる。が、発作のようなものだから仕方ない」

「発作?」

 熱に浮かされたまま、『ヤドリギ』はほとんど無意識のままに言葉を紡ぐ。

「時折、夢を見る。視界が真っ赤に染まる夢。体を焼かれる夢。助けを求めて手を伸ばそうとしても、伸ばす手もない。そんな夢を見た日は、いつもこうだ」

 それは夢などではなく「記憶」なのだと『ヤドリギ』も理解はしている。己のものであると受け入れるにはあまりにも苦痛に満ちた凄惨な記憶。けれど、魂魄は時折、どうしようもなく焼きついてしまっている記憶を夢という形で蘇らせてくる。そして、蘇った記憶に共鳴するように、肉体も当時の熱を思い出してしまうのだ。

 しかし、『ヤドリギ』が今こうしているということは、そんな記憶を抱えながらも、かろうじて生きているということに他ならない。かつて伸ばせなかった手の代わりに、右の肩から生えた蔦が地面に力なく伸び、時折思い出したように先端だけぱたん、ぱたんと動いているのを感じる。おそらく『ヤドリギ』の熱に蔦もやられているのだろう。この蔦は、寒さに弱いが熱にも強くはない。

 その時、ふと、アイリーンの手が止まっていたことに気付いた。少しだけ瞼を開いてみると、青い瞳と目が合った。何かを堪えるような色を称えながら、けれど決して目を逸らそうとはしない、真っ直ぐな瞳と。

「……そんなことが、あったの?」

 アイリーンの声は微かに震えていた。『ヤドリギ』の姿を見ればそれが「事実」であることくらいはわかるだろう。右半身のほとんどと、左側のところどころを覆うそれが熱傷の痕跡であるのは十分見て取れるはずだ。

「ああ、あったんだ。もう、随分昔の話だけれど」

「戦争とか?」

「いや、俺は軍人であったことはない」

 それに『ヤドリギ』がこの傷を負う頃には、終戦はほとんど確実なものとなっていた。その後、もう少しだけいざこざがあったと聞いたのは、『ヤドリギ』がまともに意識を取り戻してからであったが、それでも終戦に向けた動きが進んでいたのは間違いなかったのだ。

「これはただの、俺の過失だ。自業自得と言い換えてもいい」

「自業自得……?」

「かつての俺は自惚れていた。自分ならば何でもできると信じていた。この手で守れるものがあると信じていた。けれど、実際には、大切な人一人守ることすらできなかったし、俺は不要な存在として焼き払われ、ただの化物としてかろうじて息をしている」

 話しすぎたな、と思って口を噤む。それがいくら抽象的に過ぎて、現実の外縁でしかなかったとしても、「自分のこと」はあまり喋るべき事柄ではない。

 具体的なことは何一つ言えないし、言うつもりもない。それは『ヤドリギ』が『ヤドリギ』と呼ばれるようになってから己に課していることである。言ったところで誰かが救われるわけでもなく、むしろ傷つける可能性の方が高かったから。

 だから、アイリーンがどれだけ「納得いかない」という顔をしていたとしても。

「熱に浮かされた化物の戯言だと思ってくれ」

 その一言をもって、『ヤドリギ』は口と瞼を閉ざす。視界は闇に閉ざされたはずだというのに、赤い、赤いイメージが離れてくれない。何度焼かれれば気が済むのか、と思いながら何とか魂魄と肉体の痛みをやり過ごすことだけを意識する。意識しようとすればするほど、痛みと苦しみと、「もっと上手くやれなかったのか」という後悔に苛まれるとわかっていながら。

 すると、不意にアイリーンの声が降ってきた。

「あなたが落としたハンカチーフも、その日に持ってたもの?」

 赤く染まった記憶の中に、不意に、白いイメージが差し込まれる。同時に、遠い日にハンカチーフを預けてくれたその人の姿も。柔らかな記憶。あたたかくて優しい記憶。そして、胸にぽっかりと開いた喪失の記憶でもある。

 アイリーンがそう問うたのも当然だろう。あのハンカチーフは、端がところどころ焼け焦げている。焼かれた時に『ヤドリギ』が手にしていたものと考えるのが妥当だろうし、『ヤドリギ』が知る限りの事実でもある。

「……あれは、唯一、俺の手に残されたものだった」

 何もかもが焼け落ちたと思っていた。けれど、あのハンカチーフだけは、残っていた左手に握られていた。握った記憶はなかったが、……もしかすると、それだけは「守らなければいけない」と思ったのかもしれない。

 今も外套の内ポケットに入っているそれを意識する。『ヤドリギ』がまだ『ヤドリギ』でなかったころ、彼が「化物」を自称するようになるよりも前に手にしていた、唯一のもの。

「人から見たら大したものではないと思う。ただの布切れ一枚だ。ただ、俺にとってはどうしても手放せないものだ。今は遠い、かつての自分を思い出させてくれるもの。だから、見つけてくれた君には感謝している」

 そうだったの、と言うアイリーンの声は少しばかり申し訳なさそうな響きを帯びていた。そういえば、彼女の練習に付き合うようになったのは、ハンカチーフを返してもらう「交換条件」であったと今更ながらに思い出す。つまり、今の今までその事実をすっかり忘れていたということだ。全く間抜けな話だ、と思いながらつい口元に苦笑を浮かべる。

「君が気に病むことはない。……今は、俺自身の意志で君の練習に付き合っている。舞台の上に立っている君の姿を見ているのは、俺にとって快いものだから」

 本当ならば、夜の静まり返った舞台ではなく、観客として彼女が立っている舞台を見たいと思うけれど、その願いが叶うことはきっとないだろう。だからこそ、今こうしてひたむきに己のできることをしようとしている彼女と在れる、ほとんど「奇跡」と呼ぶべき巡り合わせに感謝すべきなのだろう、と思う。

「この熱が引いたら、また付き合おう。……だから、今日はそろそろ、帰った方がいい」

 夜の劇場に幽霊が出るという噂は今もなお消えていない。夜に密かに練習をしているアイリーンが「いなくなった」となれば、そこに更にいらない尾ひれがついた挙句、それこそ楽屋の抜け道を見つけられて、このねぐらまで他の誰かが踏み込んでこないとも限らないのだ。

 そうなれば『ヤドリギ』もしかるべき対策を取らねばならない。……本当はとっくにそうすべきであるとわかっていながら、ここにいる彼女のためにできずにいる、対策を。

「でも」

「俺は大丈夫だ。言っただろう、いつものことだと」

 本当に、いつものことだ。長くても一日堪えればいいだけの話。死にいたる病ではないのだ、心配には及ばない、と熱傷の痕跡が残る唇で笑ってみせる。この苦痛の中で、どれだけ上手く笑えたかどうかは定かではなかったけれど。

 うっすらと目を開けてみれば、アイリーンはすぐに立ち上がる様子はなかった。濡れた布でもう一度『ヤドリギ』の額を拭って、それからどうすべきか迷っているように見えた。

 当然といえば当然だと『ヤドリギ』も理性的には思う。どう見ても苦しんでいるのがわかりきっている相手を置いていくなど、本人に望まれたところでなかなかできるものではない。

 アイリーンは、と濡れた布を握り締めて、じっと『ヤドリギ』を見下ろしている。彼女の躊躇いを払ってやるにはどうすればよいのだろう。熱と痛みに浮かされた頭では、どうにもろくな言葉は浮かんでこなくて、結局は同じ言葉ばかりを繰り返すことしかできない。

「大丈夫だ」

 大丈夫。いつだって、そう繰り返してきた。そう言っておけば自分自身も大丈夫であるかのように思えたから。真実かどうかはともかくとして。

 アイリーンは、『ヤドリギ』の態度をどう捉えたのだろう。納得してくれたのか、それともその頑なさに諦めたのか――十中八九後者だろうなと『ヤドリギ』もわかってはいる――立ちあがろうとした、その時だった。

 音もなく。

 今まで地面に伸びていたはずの蔦の一本が、アイリーンの腕に絡み付いていた。力なく、けれど、確かに。ここを去ろうとする彼女を、引き止めるかのように。

 もちろん『ヤドリギ』が意識したものではない。『ヤドリギ』の方が驚いて目を見開いてしまったくらいには、無意識の出来事だった。

 ただ、アイリーンは腕に絡まった蔦を見て、それから『ヤドリギ』に向かって唇を尖らせてみせる。

「嘘つき」

「そうだな、嘘はよくないな」

 ああ、本当に。

 自分の体の一部だというのに、この右腕はいつだって勝手なことをしてくれる。

 けれど、今ばかりはこの異形の右腕の方が本音を語っていると認めざるを得なかったから、『ヤドリギ』は苦笑を浮かべて、こう言うしかなかった。

「心細いから、もう少しだけこうしていてくれないか」

 蔦の先端を、まるで手を握るように握り返したアイリーンは、『ヤドリギ』の視界の中でにっと歯を見せて笑ってみせた。

「素直でよろしい」

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