ヤドリギの足跡

 ――九六九年 熱季一節



「『ヤドリギ』、随分いい顔をするようになったじゃないか」

 言われて、『ヤドリギ』はフード越しの視線をそちらに向けつつ、首を傾げる。

「そうだろうか」

 相手は、履き古してすっかり靴底が磨り減っていた『ヤドリギ』のブーツを修理している靴職人だ。元々家を追われて『獣のはらわた』で細々と仕事をしていたのが、その丁寧な仕事の腕を生かして地上でも働けるようになったらしい、と聞いたのが確か……、何年前だっただろうか。『ヤドリギ』の時間の感覚はいつだって頼りない。

 靴職人の男は、黒く汚れた頬をかきながら、にっと歯を見せて笑ってみせる。

「昔のお前、何があっても眉一つ動かさなかったろ。何考えてるかわからないって、不気味がるやつも多かったんだぞ」

 そう、だっただろうか。『ヤドリギ』は自分の顔を自分で見られるわけではないから、かつての自分がどうだったのかも、今の自分がどう変わったのかもわからない。

「だから、久しぶりに顔を見て安心したよ。『はらわた』でも、上手くやってるみたいじゃないか」

「勝手に案内人を気取っているだけだが」

「一人きりで『はらわた』の奥底に篭っているよりはずっといいさ」

 そう、かつての『ヤドリギ』にはそういう時期があった。人目を避けるように『はらわた』の奥へと潜って、ほとんど「人らしさ」というものを手放していた時期が。

「あの時は大騒ぎだったもんな、ほとんど干からびてんのに息はしてんだから」

「当時については面目ないとしか言いようがない」

 ほとんど無意識に、フードを下げて視線を隠す。よくない、とはわかっていても、流石に気恥ずかしくて目を合わせる気になれなかった。

『ヤドリギ』は、水と霧さえあれば生きていられる。ただ、それは生きていられるだけ、、としか言いようがないのだ。飢えは感じるし、人としての機能はまともに働かない。ただただ、右腕と体の内側に宿ったものに生かされるだけの「もの」と成り果てる。それがどれだけの苦しみを伴うのかは当時の『ヤドリギ』自身が嫌というほど理解する羽目になった。

 隠してしまった視界の中で、靴職人の男は一体どのような顔をしているのだろうか。存外、穏やかな声が聞こえてきた。

「仕方ないさ。……当時はわかんなかったが、今のお前さんを見てればわかるよ。悲しかったんだよな。寂しかったんだよな。本当は、お前が一番辛かったんだよな。ただ、それを、その頃のお前は誰にも伝えられなかっただけなんだって」

 その言葉に『ヤドリギ』は何という言葉で返せばよいかわからなかった。けれど、男の言葉は何も間違っていない、とぼんやりと思う。当時の記憶は遠いものになってしまったけれど、そう、悲しかったのだ。寂しかったのだ。魂魄が絶えず痛みを訴えるほどに、辛かったのだ。

 なのに、泣くことすらできなかった。

 どういう顔をしていいのか。どう振舞えばよかったのか。

 何一つわからないまま、粛々と「その時自分がすべきこと」を済ませて、そして人であることを手放してしまおうとした。結局はそうならなかったわけだし、今ではそうならなくてよかった、とはっきり言い切ることができる。

 どうかしていたのだ。当時の自分にはどうかしてしまうだけの理由があった。とはいえ、理由があったからといって許されることではないとも思っている。他の誰が許そうとも、自分自身で許せない出来事であったから、当時のことに触れると『ヤドリギ』は唇を引き結ぶしかなくなる。

「そんな怖い顔するなよ、『ヤドリギ』」

 そんな思考を遮るように、男は言う。『ヤドリギ』は思わず「しかし」と声をあげてしまうが、少し目を上げてみれば、男は朗らかに笑っていた。

「折角いい顔で笑えるようになったんだ、もっと色んな顔を見せてやれよ。そうすりゃ、きっと、おやっさんも喜ぶよ」

 あたたかな手を思い出す。少しだけ陰影のある、けれど優しげな微笑みを思い出す。どれもこれも、もうどこにもないもので、だから「喜ぶ」はずもない。

 けれど、たとえ、そうであったとしても。

「そうであれば、いいな」

 今は、心から、そう思う。

 

 

『ヤドリギ』の『ヤドリギ』としての記憶の始まりは、苦痛以外の何でもなかった。あまりの苦痛に意識を手放し、意識を取り戻したかと思うと再び激痛にのた打ち回る日々。

 どのくらいそうしていたのか、『ヤドリギ』ははっきり記憶はしていない。やっと痛みが和らいできても、『ヤドリギ』の意識は酷く朦朧としたものだった。何もかもが現実に感じられなくて、ただ、ただ、息だけをしていた。

 もう、その時には『ヤドリギ』は既に化物であって、打ち捨てられても当然であったと今では冷静に分析できる。とはいえ、あくまで客観的な分析としてであり、「自分のこと」として思い出そうとすると、自然とその輪郭はぼやけてしまう。多分、思い出すことを拒否しているのだろう。それは……、本当に、記憶しておくには壮絶としか言いようのない日々であったから。

 それでも現実に『ヤドリギ』は打ち捨てられはしなかった。どのように『獣のはらわた』に辿りついたのかも覚えていない、言葉もろくに通じない化物を世話した人物の名前を『ヤドリギ』は最後まで知ることはなかった。

『ヤドリギ』が彼について知りえたことといえば、彼は「おやっさん」「親父さん」と呼ばれていたこと。『はらわた』に住み着く家なしたちの中では古株で一目置かれる存在であったらしいこと。おそらく傷痍軍人であり片脚が不自由であったこと。そして命が助かるかどうかも定かではなかった『ヤドリギ』を見捨てられない程度には優しい人であったということ。それだけ。

 彼はとにかく辛抱強かった。『ヤドリギ』の世話は決して楽ではなかったはずだ。それでも、彼は『ヤドリギ』がまともに意識を取り戻すのを待ってくれた。故に、『ヤドリギ』がはっきりと意識を取り戻して初めて把握したのは彼だった。

 彼は『ヤドリギ』の状態と、今いる場所について丁寧に説明してくれた。もちろんそれを飲み込むまでにも時間が必要だった。自分が今確かに生きていて、その上化物になっているなどと言われて、そう簡単に納得できるはずもない。

 けれど事実として『ヤドリギ』は化物であり、右腕からは無数の蔦が生えて『ヤドリギ』の意志とは無関係に蠢いていた。その現実を理解するのにどれだけの時間をかけたか『ヤドリギ』はよく覚えていない。このあたりの記憶はどうしたって曖昧なのだ。ただ、彼の前で相当の醜態を演じたであろうことは想像に難くない。

 その上で。

 名前も知らない彼は、『ヤドリギ』にこう言ったのだった。

「もう少しすれば動けるようになると思うが、……その身体じゃ、人並みの生活を送れやしない。怪我もそうだし、その化物じみた腕もそうだ。生きていくだけでも、相当の苦しみを伴うだろう」

 そして、こう、問いかけてきたのだ。

「それでも生きていくか? それとも、死んだ方がマシだと思うか? もし死にたいなら、私が一思いに殺してやろう。これ以上、苦しまなくて済む」

 ああ、優しい人だな、と『ヤドリギ』は思った。優しくて、誠実な人だと。

 だから、と言うべきなのだろうか。『ヤドリギ』も限りなく率直な思いを言葉にしたのだった。

「俺は、生きなければならない」

 生きたい、ではなかった。その時は。今ならもう少し違う答えになったと思うが、その時の自分にはその言葉が精一杯だった。

 どれだけの苦痛が予測できたとしても、『ヤドリギ』には生きる理由があった。生き延びた以上は、生きなければならなかったのだ。

 果たしてその言葉を彼がどう捉えたのか『ヤドリギ』は最後まで知ることはなかった。わかったことといえば、深々とした溜息の音と、

「随分と難儀な奴を拾ってしまったな」

 という、呆れたような声だったということだけは覚えている。

 

 

「親父さんには本当によくしてもらった。親父さんがいなければ、今の俺もいない。生きることも、諦めていたかもしれない」

 靴職人の手の中で、かつての形を取り戻そうとしている靴を眺めながら、『ヤドリギ』はぽつりぽつりと言葉を落とす。

「だからこそ、今もまだ、思い出すのは、辛いな」

「辛いって言えるようになっただけ上出来だ」

 くしゃり、と。フードの上から頭を撫でられるような気配があった。実際、男は『ヤドリギ』の親くらいの世代と思われたから、きっと、相手から見たらこちらは子供のように見えているのかもしれない。数年を経た今も、なお。

「それに、お前が口を噤んじまったのは、俺たちの責任でもあるしな」

「そんなことはない。あれは……」

「おやっさんが殺されたと聞かされたとき、俺だって少なからずお前さんを疑っちまった。俺だけじゃない、おやっさんに世話になってた連中は、大体お前に疑いをかけちまった。……だから、お前は口を噤んで、『はらわた』の奥に潜っちまった。そうだろう?」

「だから、というわけではない」

 つい、語調が強くなる。唇から出た声の強さに自分で驚いて、『ヤドリギ』は意識して声を控える。それでも、きちんと、相手には届くように願いながら。

「本当に、あの時は、何を言っていいのかわからなかった。違うと言っても、きっと信じては貰えないと思ってしまったし、……親父さんが死んでしまったのは俺の責任でもあった。俺がそばにいれば、少なくともあのような出来事までは発展しなかったはずだと、思ってしまった」

 それすらも自惚れであったのだろう、と今ならばわかる。わかるが、当時の自分はあまりにも混乱していたし、周囲の冷え込んだ視線に耐え切れなかった。故に、魂魄に蓋をして、何も感じないようにして、その場を去ることしかできなかったのだ。

 考えてみれば、『ヤドリギ』を責める者と同じくらい心配してくれていた人はいて、せめて彼らにはきちんと話をすればよかったのだ。弱音を吐いてよかったのだ。誰かの胸を借りて泣いたってよかったのだ。

 だが、当時の『ヤドリギ』はどうしようもなく心を閉ざしていて、閉ざしているということに、自分自身で気付いていなかった。

 後悔というもののは常に先に立たないからこそ、後悔というのだ。

 全ては避けられなかった出来事だとわかっていても、『ヤドリギ』は今もなお、後悔をしている。

 

 

 ――気付いた時には、手遅れだった。

 その頃の『ヤドリギ』は、まだ多少不自由ではあるが『はらわた』の上層を歩き回れる程度には回復していて、足が悪い「親父さん」の代わりにできることをしていた。無理はするなと言われても、彼のために何かをしていなければ落ち着かなかった。

 その日は水を汲みに行っていたのだった。この頃には右腕の蔦が「水場を探す」という性質を持っていることもわかっていたから、どうしても地下の『はらわた』では不足しがちな清浄な水を探して汲んでくるのが『ヤドリギ』の役目となりつつあった。

 そして、預かった器いっぱいの水を汲んで彼のところに帰ろうとした時に、何か言い争う声が聞こえたのだった。片耳しか利かないせいもあり、あちこちに反響する音を正確に聞き取ることは難しかったが、聞きなれた彼の声と――もう一人、おそらくは少年と思われる高い声とが聞こえてきて。

 それが。

 不意に、呻き声とも取れる音色と共に、途絶えたのだった。

 背筋に走る冷たい予感のままに、『ヤドリギ』は水の入った容器を放り出して駆け出していた。駆ける、といってもほとんど足を引きずるような有様ではあったが。

 現場にたどり着いた時には、もう、全ては終わっていた。

 足元には『ヤドリギ』が「親父さん」と呼んでいた彼が倒れていて、その下には赤黒い液体がとめどなく溢れていた。既に命の灯火が失われていることは一目でわかった。わかってしまった。

 彼の横には見慣れない少年が立っていた。みすぼらしい格好をした、おそらくは地上にいるべき場所がなく流れ着いてきたのだろう、家なしの少年。少年は、酷く澱んだ目をこちらに向けて――『ヤドリギ』の異形に恐怖したのだろう、刹那、ひるむような顔を見せたが、すぐにナイフをこちらに向けてきた。

 おそらく、何も知らない来訪者の少年は、まず目に入った足の悪い「親父さん」から何かを盗もうとしたのだと思う。金だろうか、食糧だろうか。けれど彼は酷く鋭い人であったから、すぐに少年の首根っこを捕まえて説教を始めたに違いない。彼は、いつだってそういう人だった。

 ナイフを握る少年の手はかわいそうなくらいに震えていた。言い争いの声からしても、衝動的にナイフを突き出してしまったのだろうし、偶然、それが急所に突き刺さってしまったのだろう、と、『ヤドリギ』は妙に冷え切った思考で判断する。

 人の命は酷くあっけなく失われる。『ヤドリギ』は嫌というほど見知っていたはずだが、いざ、改めて身近な誰かの死を目にすると、やはりその儚さを思わずにはいられない。

「お、お前、お前も、殺せばっ、殺してやる、殺して」

 上ずった少年の声を無視して『ヤドリギ』は血だまりの中に倒れたままの彼の横に跪き、その顔を見る。目こそ見開いてはいたが、妙に穏やかな顔に見えた。

 いつか『ヤドリギ』は彼から聞いたことがある。「私は死ぬべきときに死ねなかったのだ。故に、一人取り残されてしまった」と。そして、笑い話のような調子で言ったものだった。

「私が耄碌したら殺してくれよ、『ヤドリギ』」

 あれは案外冗談ではなかったのかもしれない。彼は常に頭の片隅では死を意識していた。最初に『ヤドリギ』に投げかけた問いかけもそう。時折呟かれた「殺してくれ」という言葉もそう。

 決して、彼が望んだ形の死ではなかっただろう。けれど、彼の魂魄が、かつて共にいたであろう者のもとに還れていることを祈りながら、死者の瞼をそっと閉ざした。

 そして。

「手伝ってくれないか」

 ほとんど無意識に『ヤドリギ』は口走っていた。「ひっ」と息を呑む少年に構わず、言葉を紡ぐ。

「きっと、親父さんも注意や警告こそすれ、君を本当に警察に突き出す気はなかっただろう。『はらわた』の住人というのは、そういうものだ」

 そもそも『はらわた』の住人は違法に『獣のはらわた』に住まう者たちだ。警察沙汰になるようなことは、できる限り避けたいと望むはずなのだ。きっと、新たにやってきたのだろう少年には理解できていなかったのだろうけれど。

 少年は、自分の手に握られたナイフと、地面に転がる彼の死体とを交互に見つめて「あ、ぁ」と言葉にならない声を漏らす。

『ヤドリギ』は淡々と、ごく淡々と言葉を連ねていく。

「だから、俺にも君をどうこうする気はない。後は好きにすればいい。……ただ、彼を弔うには、俺の手だけでは足りない。どうか、手を貸してくれないか」

 果たして、少年は『ヤドリギ』の言葉に従った。単純に異形の『ヤドリギ』に怯えていたのだろうし、同時に自分のしたことを理解できないほど愚かでもなかった、ということだろうと判断した。

『ヤドリギ』と少年は、「親父さん」の荷物のうち大きな袋を選んで彼の亡骸を収めた。そして二人がかりで亡骸を運び、最も近い出口を探して外に出た。『ヤドリギ』にとってはいつぶりかもわからない地上であったが、それについて思いを馳せるような気にはなれなかった。

 時刻が夜であったのは幸いであった。夜霧は『ヤドリギ』の異形を隠してくれる。そして、それ以上に幸いであったのは、目に入った景色に覚えがあったことだ。首都は広く、元々地上にいた『ヤドリギ』でも知らない場所の方が多い。

 だが、知ってさえいればどうということはない。『ヤドリギ』は少年を連れ、亡骸の入った袋を担いで迷いのない足取りで歩き出す。少年は俯いて口一つ利かなかったが、ところどころに灯る霧払いの灯に照らされる彼の顔色は酷く悪かった。

 長い、長い道を歩いたようにも思えたし、実際にはほんの数十歩程度だったのかもしれない。もはや『ヤドリギ』もとっくに正しい感覚を失っていた。ただ、足だけは正しく『ヤドリギ』を目指した場所に導いてくれた。

 ――ミスティア教会。

 決して大きいとはいえない教会だ。窓を見る限り、既に明かりは落とされていた。それでも『ヤドリギ』は扉の前で亡骸の入った袋を下ろし、だらりと垂れ下がった右腕の蔦を外套の下に隠し、それから左手で扉を叩いた。

 二回、三回。間を置いて、もう一度。

 そうしているうちに、窓越しに明かりが灯ったのが見えて、ぱたぱたという足音と共に一人の修道士が慌てた様子で扉を開いた。

「遅くなりましてすみません。当教会に何の御用でしょう」

「こちらこそ、夜分遅くに申し訳ない。……一人、命を終えた者を連れてきた。彼の弔いをお願いしたく参った次第だ」

 言いながら『ヤドリギ』は袋を開いて亡骸を示す。「親父さん」の死に顔はいつ見ても『ヤドリギ』からすれば随分と安らかなものに感じられた。だからこそ、あんな場所に置き去りにしておくのは忍びなかった。

「ご家族の方、ですか?」

「いや、俺は彼の名前も知らない。おそらく身よりもない。ただ、世話になった。立派な人であった。女神ミスティアは、あまねく全ての者を還るべき場所へと導くと聞いている。どうか、彼も無事に『還れる』よう、弔っていただけないだろうか」

 弔いを怠った場合、それは亡霊や悪霊として、女神ミスティアの導きを拒む存在として物質界に留まってしまうことがあるという。『ヤドリギ』は、「親父さん」にだけはそのようなものになってもらいたくなかったし、そのような御託は抜きにして、霧明かりの届く、あたたかな寝床を与えてやりたかった。

 突然の来訪者に面食らっていた様子であった修道士も、『ヤドリギ』の訥々とした言葉に落ち着きを取り戻したのだろう。おそらくは誰にでも同じように繰り返しているのだろう言葉をすらすらと語る。

「ええ、身寄りのないまま亡くなった者にも等しくミスティアの加護は与えられます。確かに我が教会で弔わせていただきます」

「感謝する」

『ヤドリギ』は胸元で女神ミスティアへの祈りを意味する印を結ぶ。宗派は違うかもしれないし、左手のみなので正しい印でないことはわかっていたが、それでも、彼の魂魄が安らかな場所に導かれることを祈って。

 それから、手を少年の背にやり、軽く叩いてみせる。びくりと、背が跳ねた後に、がくがくとした恐怖から来る震えた手のひら越しに伝わってくる。それにも構わず『ヤドリギ』は言葉を紡ぐ。

「それと、この少年に温かな食べ物と、一夜の宿りを与えてはいただけないだろうか。酷く飢えて、今にも倒れてしまいそうなところを見つけた」

 少年は、弾かれるように『ヤドリギ』を見た。信じられない、という顔をしていた。少年は『ヤドリギ』から告発されるとでも思っていたのかもしれないが、『ヤドリギ』はこの少年が哀れだとしか思わなかった。ただそれだけの話。

 あなたは、と『ヤドリギ』を見て修道士は問いかけてきた。当然であろう。右腕を隠しているとはいえ『ヤドリギ』の顔は焼け爛れて見られたものではないし、きっと、そうでなくとも相当酷い顔をしていただろうから。けれど『ヤドリギ』は首を横に振って、ぽつりと言葉を落とす。

「俺は問題ない。どうか、寄る辺のない者たちに女神ミスティアの慈悲を分けてほしい」

「……わ、わかりました」

 修道士は面食らうような顔をしながらも『ヤドリギ』の言葉に頷いてみせた。そして、修道士が「親父さん」の亡骸を確かに預かったのを確認して外套の裾を翻し、足を引きずって元いた場所へと戻っていく。

 背中に少年から声をかけられたような気がしたけれど、振り向かなかった。

 とにかく、重たく言葉にできない感情だけが腹の底に溜まっていて。早くいつもの場所に帰りたかった。

 ――帰っても、その人は待っていないとわかっていながら。

 

 

 その後、「親父さん」の死を知らされた『はらわた』の住人達はもちろんその場にいたはずの『ヤドリギ』を疑い、『ヤドリギ』は何も語らないまま『はらわた』の奥に去った。

 

 

 ――『はらわた』に災厄を呼び込んだ化物は消えて、それで話は終わった。

 

 

 

 

 

 

 

「『親父さんを殺した化物は消えて、めでたしめでたし』で本当に話が終わってたら、お前はここにいないわけだけどな」

 靴職人は丁寧に靴底を張替えながら言う。『ヤドリギ』は軽く肩を竦めて冗談交じりの言葉を吐き出す。

「それで終わっていたら、皆に余計な混乱をさせることはなかったのだろう。何というか、逆に悪いことをしたような気分だ」

「……そう、俺たちは何もわからないままってこともありえたんだよな」

 職人の目が、一時『ヤドリギ』の方に向けられる。彼が『ヤドリギ』に罪悪感を覚えているのは『ヤドリギ』も知っている。だから、彼のそんな思いを少しでも和らげようと笑ってみせる。

 しかし、その程度で彼の憂いが晴れるわけはないのだろう。じっと、おどけた笑いを浮かべる『ヤドリギ』を見据えて――いっそ、睨むようにして言う。

「もし。何もわからないままだったら、お前はどうしたんだ?」

 ああ、そんな目で見られてしまったら、流石に誤魔化す気にもなれない。軽く溜息をついて、肩の力を抜く。

「どうもしない。自殺にすらならなかったあの状態を、続けていただけだ」

『はらわた』の奥、誰も足を踏み入れたことのないであろう場所で、腕と足を投げ出して。唯一、右腕を成している蔦だけが、『ヤドリギ』の意思に反して生命を維持しようとあちこちを這い回り、結果として本当の意味で「呼吸をしているだけ」となった「緩慢な自殺」とすら言えなかった、何か。

 けれど、ほとんど働かない意識の片隅で『ヤドリギ』が考えていたことは、一つ。

「親父さんを失って。お前が悪いと糾弾されて。確かに俺はこう思った」

 自分を支えていた何かが崩れ落ちた実感と共に、与えられていたはずの使命も、自ら手放して。

「俺が、生きている意味なんて、どこにもない」

 ――そう思ってしまったのは、事実だとしか言いようがない。

 

 

 しかし、事実としては、突如として『ヤドリギ』の疑いは晴らされることになった。

 それこそ、今目の前にいる靴職人のように、職人としての腕を見込まれて『はらわた』の外で働けるようになった、一人の男の報せによって。

 ――鈍鱗通りグレイスケイル・ストリートの共同墓地に、親父さんの亡骸が埋まっているらしいこと。

 ――墓守見習いとなった少年が、あの日の全てを告白したこと。

 故に『ヤドリギ』は『はらわた』の奥から探し出されることになった。半死半生の『ヤドリギ』は何故自分が助けられたのかわからないまま、しばらくはぼんやりと虚空を見つめるだけだった。体はともかく、心が壊れてしまったのだ、と噂する者もいた。実際その時の『ヤドリギ』はそうだったのだと思う。

 その時の『ヤドリギ』には、もう、わからなくなってしまっていたのだ。

 生きていなければならない、と「親父さん」に言った理由も。何もかも。

 けれど、生きている理由が見出せなくなっても、そうなった時に殺してくれる「親父さん」はもういないから、死ぬこともできなかった。

 中にはどうして何も言わなかったんだ、と『ヤドリギ』に問いかける者もいたが、ほとんどの『はらわた』の住人たちは『ヤドリギ』が口を噤んだ理由を理解してしまっていたから、もはや『ヤドリギ』は言葉一つ放つことなく、『はらわた』の住人達が望むだけの水を汲み、火をおこし、簡単な力仕事をする、自分にできることだけを機械的にこなすだけの「何か」になっていた。

 そんな螺子の抜け落ちた「何か」と化した『ヤドリギ』に対する引け目もあったのだろう、住人たちは『ヤドリギ』を追い出そうとはせず、けれど日々の作業以外で積極的に関わろうともせず、そうして時間だけが過ぎていった。

 その間にも、『はらわた』の住人は移り変わっていく。誰かが死に、もしくは『はらわた』の外に行き、逆に地上に居場所を失った者が『はらわた』にやってくる。それを『ヤドリギ』はただ見ているだけだった。『ヤドリギ』の居場所は『はらわた』以外にはなかったから、その変化を眺めていることしかできないし、何かをする気もなかった。

 ただ、住人たちの間でもいくつかの集団と呼べるものがあって、『ヤドリギ』はそのどこにも属さず、逆にどこにいても何も言われない唯一の存在だった。『ヤドリギ』はただ言われたとおりに働くだけのものでしかなかったから、人間同士のいざこざとは無関係でいられたのだ。

 ……そんなある日のことだった。ある、ちいさな集団の酒盛りに誘われたのは。

 ただ、酒を注ぐだけの仕事を与えられるのだと思っていた。何せその時の『ヤドリギ』には語る言葉がなくて――その頃には声の出し方も忘れてしまっていた――、そのような場に呼ばれたところで、それ以外の何ができるわけでもなかったのだから。

 だが、彼らは酒を注ごうとする『ヤドリギ』を制してその場に座らせ、『ヤドリギ』のために杯を用意して酒を注いですらみせたのだ。『ヤドリギ』は酒の味こそわかるが、酔うことはできない。昔から酔いづらい体質ではあったが、それよりも『ヤドリギ』の体内の植物が酔うことを許してくれないのだ。

 とはいえ与えられたものを断ることもできなくて、戸惑いのままに周りを見渡せば、赤ら顔の男達は笑っていた。笑顔で、言葉も持たない異形の化物である『ヤドリギ』を歓待していた。

「お前くらいだよ、俺たちが呼んでも嫌な顔一つしないのはさ」

 確かに、彼らの集団は『はらわた』に集う家なしたちの中でもどこか孤立していた。何も場を荒らすようなことはしていないはずだが、古参からも新参からも遠巻きにされているようだった。

「それに。……お前さんも同郷だろう? そんなナリしてるけどよ」

 同郷。その言葉に『ヤドリギ』ははっとする。

 ――そう、彼らが西方の言葉で喋っていることに、今になってやっと気付いたのだ。

 首都において、西方訛りはほとんど外国語のように聞こえて、まともに意図が通じないことが多いのだ。かつて西方諸島は長らく女王国には属していない国であったから、その名残が今も色濃く染み付いている土地であるともいえた。

 その西方訛りの言葉をごく当たり前に解していたということに『ヤドリギ』は一拍遅れて気付いた。それが、首都においては稀有といえる特徴であることも。他の集団からあぶれるのも当然だ、彼らの言葉は普通には「通じるはずがない」のだ。

 何も言えない。言葉が出てこない。実際男たちも『ヤドリギ』の返答は期待していなかったのだと思う。『ヤドリギ』は声を持たないものだと、彼らは思っているに違いない。再びめいめいの話に戻っていった。

 自分のために注いでもらった酒をちびちびと味わいながら、『ヤドリギ』はぼんやりと目の前で交わされる言葉を聞くともなしに聞いていた。西方出身者への根強い偏見、言語の壁、労働者の扱いの悪さに、軍人くずれたちの横暴ぶり……。地上の話は『ヤドリギ』にとってはもはや遠い話のように思われた。事実、ここではないどこかの話なのだ。化物である『ヤドリギ』の居場所は『はらわた』にしかない、と。『ヤドリギ』自身が思い極めていたから。

 そうやって観察しているうちに、酔いが回ってきたのか、男たちは一人ずつ順番に歌を歌い始めた。その歌は、ほとんどが『ヤドリギ』にとって馴染み深いものだった。独特の旋律を持つ、西方に伝わる民謡だ。船漕ぎの歌、霧の海の歌、激しい戦の歌だってある。

 やがて、男の一人が歌いだしたのは海鳥の歌だった。遥かな霧の海を渡って長い旅をして、けれど必ず同じ場所へと帰ってくる、大鳥の歌。雄大な海を思わせるゆったりとした、けれどどこか物悲しい旋律の歌が響く。

 しかし、ふと、男の歌う声が途絶えた。歌詞を忘れたのだろうか、と考えるのとほとんど同時に。

「――『それでも、鳥は飛び続けるのだ。そこが、己の帰る場所である限り』」

 一節。自然と、唇がそれに続くはずの言葉を紡いでいた。

 途端、驚きの視線がこちらに向けられるのがわかる。否、唇を開いた『ヤドリギ』自身が一番驚いていた。自分が何をしたのか、わからなかったのだ。ただ、彼らの視線に応えなければならないと無意識に思ったのか、勝手に喉が震える。

「……故郷の、歌、だから」

 覚えていた。声は酷く掠れていたけれど、それでも。

 歌を歌っていた頃を思い出す。霧の明るさと、その中に咲く草花の色を、飛び立つ鳥の影を思い出す。自分に向けて手を差し伸べていた、家族のことを思い出す。そこから、いくつもの記憶が魂魄に色鮮やかに描かれていく。全て、全て、過ぎ去った、今の自分には伸ばす手すらない、そんな光景ばかりが広がって。

「帰りたい」

 言葉が唇からこぼれ落ちると同時に、涙が一粒、杯に落ちた。

 今まで声と一緒に封じ込めていたものに、やっと気付いた。そうだ、封じていたのは「自分」そのものだ。そうすればもう、痛みも苦しみも感じなくて済むのだと思い込んで、息だけをしていた。

 けれど、『ヤドリギ』にそんなことができるはずもなかったのだ。封じていたということは、実際には全て感じて、思って、考えていたのに飲み込んでしまったもの。到底、飲み込みきれるはずもないというのに。

「戻りたい、あの頃に、戻って、」

 戻ってどうするというのか。そんな不可能な仮定を並べ立てたところでどうしようもない。そう、思いながらも、もはや言葉にならない声で喚き散らしながら、聞き分けのない子供のように泣いた。『ヤドリギ』を呆然と見ていた彼らは何も言わずに、ただ『ヤドリギ』の分の杯に酒を注いで、うちの一人がそっと肩を抱いてくれた。その手が温かかったことと。

「――そっか。お前さん、寂しかったんだな、ずっと」

 その、懐かしい西方訛りの優しい響きに、ただ、ただ、嗚咽を堪えることもできないまま、左手で目元を覆うことしかできなかったことだけを、覚えている。

 

 

 その日から、少しだけ『ヤドリギ』は変わった。

 自分の声を思い出した。言葉を思い出した。遠い日の歌を、思い出した。

 そして――、己に与えられた使命を果たすために、もう一度、一歩を踏み出そうと決意した。

 自分は確かに「寂しかった」のだ。そしてこれからもずっと「寂しい」と感じ続けることになるのだろう。自分が『ヤドリギ』という、人とは異なる化物であり続ける限り、本当の意味で人の中に戻ることはできやしないだろうから。

 それでも。結果としてどれだけの「寂しさ」を積み重ねることになろうとも、人と関わることを諦めてはならないと思った。故郷の歌と、温かな手で人並みの心を取り戻せたように。自分が自分という「人」であることを確かめるためにも、人と関わり続けることを止めてはならない。何より、そんなつまらない日々を送るよりは、傷つくことも悲しいこともあるかもしれないが、「充実する可能性のある」日々の方がよほど張り合いがある。

 だから、今の『ヤドリギ』は誰に強いられたわけでもなく、本人の意思で『獣のはらわた』の案内人という稼業をしている。人よりも多少丈夫な体を生かして『はらわた』の誰も踏み込まなかった領域を探検し、そこで得た知識を売り物に『はらわた』の案内と護衛を兼ねる仕事。仕事というよりも道楽のようなものだが、それでも『はらわた』の中で人と関わりながら地上の情勢を知るための大切な手続きなのだ。

 もういない「親父さん」が今の『ヤドリギ』を見たらどんな顔をするだろうか。

 呆れた顔をするだろうか。それとも、笑ってくれるだろうか。

 ――俺は、あなたに、少しは報いることができているだろうか。

 問いかけに答えは返ってくることはなくて、それでいい。全ては『ヤドリギ』の自己満足に過ぎない。瞼を伏せて、今はただ、喪失による胸の中の空白よりも、かつて確かにあった温もりを一つずつ思い出す。

 そうしているうちに、靴職人から「できたぞ」と声をかけられて、顔を上げる。彼の手の中には、かつて最初に作ってもらった時とほとんど変わらない形をした靴があった。手が不自由な『ヤドリギ』のために、靴紐ではなくベルトの留め金で足首から脛までを固定する形の長靴。

 促されるままに靴を履く。『ヤドリギ』一人のために作られているそれは足をしっかりと包み込み、その上で磨り減っていた靴底がすっかり修復されていたから、これならば濡れて滑りやすい場所も多い『はらわた』の探索でも危険は少ないだろう。

「……ありがとう。何も、礼らしい礼はできないが」

「いいってことよ。俺の作った靴をここまで大事に使ってくれてるってだけで、十分だ」

 男はにっこりと笑う。故に『ヤドリギ』もその笑顔に、笑顔で返す。いつかの『ヤドリギ』にはできなかったことをもって、彼の仕事に応える。

 それから、もう一つだけ。彼に頼みたいことがあったことを思い出して、片づけを始める男に慌てて声をかける。

「あと、一つ、頼みごとをしてもいいだろうか」

 何だ、と振り向く職人の男に、外套の下から二つのごくごく小さな花束を取り出す。華やかさは全くないが、雪の結晶のような、花びらの向こうまでが透けて見える不思議な花。『はらわた』の片隅にひっそりと咲く、今だ『ヤドリギ』も名前を知ることの無い、花。

「これを、親父さんの墓に手向けてもらえないだろうか。それと、墓守の彼にも預けてほしい。……彼は迷惑がるかもしれないが」

 あの日はただただ必死で、花一つ手向けることができなかったから。そして、『ヤドリギ』は『獣のはらわた』の外に出かけることはできないから。夜の闇に紛れるならともかく、人の中に紛れることなど、今の自分にはできそうにない。

 そんな『ヤドリギ』の事情を承知している職人の男は、透き通った花を手に「請け負った」と笑う。

「何か、言伝はあるか?」

 いや、と言いかけて『ヤドリギ』は考え直す。『ヤドリギ』はいつだって言葉が足りなくて、時には口を噤んで全てを飲み込んでしまおうとする。だが、言葉を惜しんではならないのだ。伝わるかは別としても「伝えよう」とする意識だけは忘れてはならないと思う。

 だから『ヤドリギ』は言葉を紡ぐ。不器用な微笑みを添えて。

「親父さんには感謝の言葉を。それから……、彼には『俺は君を恨んではいない。今まで、親父さんの眠りを守ってくれてありがとう』と。伝えておいてくれないか」

「本当に、恨んでないんだな」

 一つ、頷きでその言葉に応える。

 あの少年が「親父さん」を殺してしまったのはどう見ても突発的な行動の結果だった。……恨めるわけがない。憎めるわけがない。『ヤドリギ』とて、同じ状況なら同じことをした。心身の飢えは判断を著しく鈍らせる。孤独から来る飢えで心を閉ざした『ヤドリギ』がそうであったように。

 それに、彼が今墓守見習いとして生きているということは、その過去を悔いた上で、新たな道を選んだということだろう。だから、せめて『ヤドリギ』の率直な気持ちを伝えてほしいと願ったのだ。受け止める側が信じてくれるかどうかは、別として。

「わかった。必ず届けてやるからな」

 こつん、とフードの上から軽く頭を叩かれる。その、親しみから来る触れ合いが『ヤドリギ』にとっては心地よい。……そうやって、人に「触れる」ことすら、普段はほとんど無いものであったから。

 そして、靴職人の男は『はらわた』の外へと「帰って」いき、『ヤドリギ』も『はらわた』の奥へと「帰って」いく。

 足取りは軽く、けれど、靴音に確固たる決意を篭めて。

 己の使命を果たす日までは、胸に灯る火を絶やしてはならない。唯一、かつてと違うのは、今の『ヤドリギ』は「生きなければならない」とは思っていない。

 

「まだ生きたい。生きてみせる」

 

 きっぱりと宣言し、『ヤドリギ』は『はらわた』の柔らかな闇の奥深くへと歩んでいく。

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