化物と乙女の密会
――九六九年 実季三節
こんなことになるとは思わなかった、と。『ヤドリギ』は女王国最大の劇場『ハー・マジェスティ・シアター』の舞台袖の椅子に腰掛けながら、考えずにはいられない。
別に『ヤドリギ』は、『獣のはらわた』から地上に出ることを禁じられているわけではない。ただ居心地がよいのと、その他いくつかの差しさわり――主に右半身を中心とした「ひとでなし」具合により、地下の闇に紛れていた方が気が楽なのは間違いなく、このような地上の、それも最も華やかと言っていい場所に引きずり出されるのは、なかなかに落ち着かない気分であった。
とはいえ、客席に人の姿はなく、舞台の上に灯る明かりはほんの少し。それこそ『はらわた』の中にところどころ灯る、発光植物のそれとほとんど変わらない。何せ、現在は時計台の鐘が日の変わり目を告げるくらいの時刻。本来ならば人がいていい時刻ではないのだ。
けれど、ここには『ヤドリギ』がいて、もう一人、目の前に少女がいる。
アイリーン・サイムズ。
劇場つきの大劇団に所属する若き女優。そして本来ならば、きっと、こんな場所にはいないはずであろう少女だということを『ヤドリギ』だけが知っている。
演劇とは華やかなものであるが、しかしあくまで『見世物』だ。つくりもの、まがいものの華やかさ。本来在りえざるものを在るかのように描き出すもの。『見世物』になる側と見る側の間には、どうしたところで格差がある。故に、演劇に携わる人間もそう社会的階級の高い者でないのが普通だ。
だが、少女の立ち居振る舞いは、言葉を選ばなければ「淑女としての教育」を受けて育った者のそれだと『ヤドリギ』は思う。普段は意識させないが、時折見え隠れするそれらは、おそらく体に染み付いた類のものだろう。
だからこそ、おそらくは家の意向で入れられたのだろう学園という箱庭を抜け出そうとして『はらわた』に潜ったのだろうし、脱出が叶った結果として、今こうしているのだろう。
「……と、いうわけで」
そんな『ヤドリギ』の感慨は、少女、アイリーンの一言で断ち切られる。
「あなたには、台本の読み合わせに付き合って欲しいの」
そして『ヤドリギ』の左手に台本が押し付けられる。それなりに分厚い台本だが、挟まれている付箋はそう多いとはいえない。それでも、この付箋の数だけ彼女の出番があるのだということを理解して、つい、率直な感想を言葉にする。
「その若さで台詞のある役を貰っているのか。すごいな」
「ううん、最近、やっとここまで来たばっかり。頑張らないとすぐに他の子に置いてかれちゃう」
「厳しい世界だな」
「どこだって変わらないわ。だけど、これだけは、私が選んだ道だから。手を抜いて後悔はしたくない」
そう語るアイリーンはどこまでも凛としていて、『ヤドリギ』はそんな彼女を好ましく思っている。自らの道を、己の足で歩もうとする者につい肩入れしてしまうのは悪い癖だと思いながらも、彼女のような姿勢こそが美徳というものだと『ヤドリギ』は信じている。
ともあれ、渡された台本の表紙に書かれた題を確かめる。
「『獣の王と贄の乙女』。傲慢な振る舞いから魔法使いに醜い獣の姿に変えられてしまった王と、彼の生贄としてやってきた乙女の日々と、都から遣わされてきた獣狩りとの戦いを描く、かなりの古典だな」
ほとんど無意識に筋書きを呟いたところで、「え」とアイリーンの声が降ってきた。フード越しに見上げてみれば、少女は目を丸くして『ヤドリギ』を見つめていた。そんなにおかしなことを言っただろうか、と首を傾げていると、アイリーンが我に返ったようにぱちぱちと瞬きして言った。
「……意外。詳しいんだ」
「最近の話はさっぱりだが、古典はそれなりの数を読んだことがある」
もちろんそれは『はらわた』で暮らすようになる前の話ではあったから、「細かな筋はほとんど忘れてしまったが」と軽く肩を竦めてみせる。『はらわた』の内部を常に彷徨う『ヤドリギ』にとって、書物は荷物にするには重くかさばりすぎるから、現在は常連から貰った一冊しか持ち歩いていないし、それも今はねぐらに置いたままだ。
右腕の代わりを務める蔦で台本を支え、左手で渡された台本の頁を繰る。特に、彼女が付箋を貼った場所を重点的に確かめる。読み合わせということは、最低限自分に求められているのは、その周りの台詞を把握することであったから。
「君は、獣王の世話係の役なのだな」
「ええ。台詞は多くないけれど、舞台の上に立っている時間は長いから、しっかりやらないと」
くるりと、アイリーンは軽くその場で一回りしてみせる。彼女の軽いステップに合わせて、質素なスカートが花びらのように膨らむ。本番は、もっと重たい使用人の衣装を着せられるのだろうが、彼女ならきっと上手くやるだろうと、不思議と『ヤドリギ』は確信していた。
「幕が上がっている間は、私はアイリーンではなくて、名前すらわからない使用人。……舞台の形に切り取られた『もう一つの世界』を見せるのが役者の役目だもの。そう思わない?」
「ああ、そうだな。舞台というのは、そういうものだった」
かつて。友人と共に観劇に出かけた日々のことを思い出す。確かに、それはアイリーンの言うとおり、ここではない、もう一つの世界だった。時代も、場所も飛び越えて。時にはそう、この台本にも描かれているような、荒唐無稽な「魔法」が「ある」のだと信じさせてくれる世界。
「俺も昔はよく演劇を見に行った。それが、ただ一時の、誰かの手で演じられたものであると理性ではわかっていても、心揺さぶられるものだった。自分もまた、その世界の一員であるかのような錯覚に囚われたものだった」
そして、幕が閉じた瞬間に、それが「舞台の上だけで演じられたもの」であったことをはたと思い出すのだ。その、突如として水をかけられて我に返るような感覚も含めて『ヤドリギ』は演劇が好きだった。
その回答に、アイリーンはぱちりと一つ瞬きをして、不思議なものを見るかのように『ヤドリギ』を見た。その視線の意味を『ヤドリギ』はすぐには理解できなかった。ああ、そういえば、本の話をした時もアイリーンは同じような顔をしていた。
……それから、一拍遅れて気付く。
そうだ、アイリーンは『ヤドリギ』の成り立ちを知らない。「芸術を介する化物」という『ヤドリギ』自身の言葉以外には、何も。アイリーンの中では『ヤドリギ』はただただ「そういう化物」なのだ。それならば不思議な顔をされても仕方がないし、この場であえて経緯の説明をするのもはばかられたから、アイリーンから視線を切って台本に視線を落とす。
しかし、アイリーンは『ヤドリギ』の言葉で自分の認識が誤っていたことを即座に察したのだろう。ぽつりと、言葉を落とす。
「……あなたは、人『だった』の?」
当然の疑問であっただろう。首都の地下迷宮で、右腕から生える無数の蔦を引きずりながら、人を避けて暮らす半人半植物の化物が、まるで当たり前のように「人の営み」を語るのは。だから、聡明な少女に対して『ヤドリギ』は彼なりの精一杯の笑顔をもって返す。
「そう見えないかもしれないが、人だった時期の方が長いんだ」
多分、と小さな声で付け加える。流石にこのような体になってからそう極端に時間が経ってはいないとは思うが、自分の時間の感覚はいつだって曖昧だったから。
アイリーンの唇から「どうして」という声が微かに震えて聞こえた。怯えている、というよりも単純に混乱しているだけだろう、と思う。「どうして」。当然の問いかけだ、ただ誰もが『ヤドリギ』に遠慮をして問いかけようとしないだけで。
そして『ヤドリギ』は『ヤドリギ』で、この経緯を正しく他人に話したことは一度もない。何も話すのが嫌とかそういう感情的な理由でなく、ごくごく理性的な判断として。
だから空いていた右手の蔦の先端で台本をぱらぱらとめくりながら、おどけた調子で言う。
「俺はこの王以上の馬鹿だったものでな。魔法使いにこんな姿に変えられてしまった」
もちろん獣にされた王など物語の中だけの存在で、魔法使いなんて尚更だ。それが嘘であることは、当然アイリーンにも伝わっただろう。それと同時に「話す気がない」ということも。アイリーンも『ヤドリギ』の事情にそこまで深入りするつもりはないのだろう、「それは災難ね」と笑ってみせながら、少しだけ眉尻を下げた。
「それなら、こんな話、あなたにとっては嫌かしら?」
一瞬、何について言われているのかわからなかったが、蔦がぺらぺらと無造作にめくっている台本に改めて視線を落として合点がいく。これは己の傲慢さ故に醜い獣に変えられてしまった王の話。そして、ここにいるのは己の愚かさ故に醜い化物となった『ヤドリギ』。
けれど、『ヤドリギ』にとってそれとこれはまるで別の話だ。首を横に振り、出来る限りアイリーンには明るく聞こえるように声を張る。
「お気になさらず。この
これは『ヤドリギ』の素直な感想だ。感謝こそすれど、不愉快に思うことは何一つない。アイリーンは聡明であり、そして、心根の優しい少女なのだろう。自業自得の結果として地下の迷宮を徘徊する、醜い化物の心の内を案じてくれる程度には。
アイリーンは、恐る恐る、『ヤドリギ』の顔色――と言ってもそれはほとんどフードの陰になってしまっていたけれど――を窺いながら問いかけてくる。
「それ……、元には、戻らないの?」
「残念ながら、俺にかけられた魔法は、幸せな口付けで戻る類のものではないのでね」
何せ、この異形は、魔法などという在り得ない手続きの産物ではない。口付けがどれだけの力を持っているのかは知らないが、『ヤドリギ』に宿るそれが、乙女の口付けを求めていないことだけはわかる。
それに、仮に戻る方法が用意されていたとして、『ヤドリギ』は積極的に戻りたいと望んでいるわけではない。仮にこの体に寄生、否、正確には「共生」している植物と別たれるときがあれば、それは互いが滅びる時だ。その程度には『ヤドリギ』は人間をやめて久しい。かろうじて人の形を残しているから、まだ、人間らしく振舞ってみせることができているだけの、化物だ。
絶えず蠢く右腕の気配を確かめながら、『ヤドリギ』はできる限り明るい声に聞こえるように心がけて言う。
「変な話をしてしまったな。俺は問題ない、ということだけわかってくれればいい」
アイリーンはまだ納得がいっていないようではあったが、それでも『ヤドリギ』がこれ以上を話したがっていないことは察してくれたに違いない。頷きで『ヤドリギ』の言葉に応えると、一歩、二歩、と舞台の方へと歩いていく。
「それじゃあ、三十八頁の最初の台詞からお願いしてもいい?」
「……頁数も覚えているのか」
「台本の頁も行数も、もちろんト書きも他の人の台詞だって、全部把握できてなきゃきちんと舞台の上で動けないもの」
当たり前のように言うアイリーンに『ヤドリギ』は内心舌を巻く。いくら『ヤドリギ』が同じことをしろと言われても、どれだけ時間を与えられたところで彼女のようにはなれないであろう。果たして、同じ舞台に立つ者も皆アイリーンのような役者なのだろうか。思いながら、言われた通りの、付箋を貼ってある頁を開く。
本来、読み合わせとは役者同士がお互いの呼吸を掴むために行うもので、実際の役者でない『ヤドリギ』がどれだけアイリーンの役に立てるかはわからなかったが、それでも、言われた通りに最初の一文を読み上げる。
「『ああ、全く我が王の横暴ぶりには困ったものだ』」
とんでもない棒読みだな、と自分で自分の口から出た言葉に辟易する間もなく、アイリーンの澄んだ声がそれに続く。
「けれど、少しばかり、いつもとは様子が異なりましたわ」
それは確かに『台詞』ではあった。ただ、その言葉が放たれた瞬間に、それは確かに「獣王の使用人」の言葉であると『ヤドリギ』は確信した。そう確信させるだけの力が、アイリーンの声には篭っていたのだ。
「そう、あのお方は、寂しいだけなのですわ。……それを言葉にできないだけで」
何がどう変わった、と『ヤドリギ』ははっきり断ずることはできない。ただ、目の前のアイリーンが、先ほどまでとはまるで別人である、ということだけはわかった。
これが「演じる」ということなのか、と。『ヤドリギ』は素人ながらに思う。観客席からただ与えられるものを享受するだけではきっとわからなかっただろう、間近で体験する「演技」の力を思い知らされる。
一つ、二つと言葉を重ねていくたびに、アイリーンはさらに深く役に入り込んでいく。『ヤドリギ』もそれにつられるように、気付けば最初よりはずっと、前後の台詞を読む声に、役柄の感情を滲ませられるようになっていた。もちろん、アイリーンのそれには決して及ぶことはなかったが。
――と、アイリーンの台詞を聞いていて、不意に何か引っかかるものがあった。『ヤドリギ』は台本から顔を上げて、真っ直ぐに観客席を見据えるアイリーンに声をかける。
「っと、すまない、一ついいだろうか」
「何? 何かおかしかった?」
問いかけに対し、「使用人」という役を脱ぎ捨てたアイリーンがぱたぱたと駆け寄ってくる。その切り替えの速さに面食らいながらも、『ヤドリギ』は台本上の、彼女の台詞を指差す。
「おかしいというより、ここは、その発音でよかっただろうか。俺も自信はないのだが」
決して難しい言葉の並びではないし、引っかかった単語も、会話の中ではよく使われるものだ。ただ、古典ということもあって、言葉遣いは全体的に古めかしい。故にこそ、『ヤドリギ』の耳に引っかかったのだ。
「この単語は現代ではその発音でも問題ないが、本来は後ろに強勢が来るはずだ」
「えっ、そうなの?」
「古い言葉を使っている以上は、本来の発音に合わせた方が聞く側の違和感は少ないと思う」
慌てて自分の台本にメモを書き添えるアイリーンに対し、「素人の言うことだから、正しいかどうかは後で確認してほしいが」と付け加えつつ、『ヤドリギ』はつい口元を歪めてしまう。
「ありがとう……、って、どうして笑ってるの?」
「いや、何、昔のことを思い出しただけだ。散々『お前の喋り方は癖が強すぎるから正しい発音で喋れ』と矯正されてな。文字列だけでどう発音を見分けろというのだ、理不尽だ、と教師に噛み付いては叱られてばかりいた」
今も多少、言葉遣いや発音のところどころに変な癖が残っていることは自覚している。耳が片方聞こえないということもあるが、ほとんどは幼い頃からの癖で、直しきれなかった部分。言ってしまえば訛りというやつだ。
「そういえば、少し変わった喋り方だと思ってた」
「何せ田舎者でな。これでもかなり矯正した方だ。と言っても、どうも言葉遣いそのものが古めかしいらしく、よくからかわれたものだった」
どうしても「言葉」については苦々しい記憶ばかりが蘇ってくるが、まあ、それも今となっては遠い日の思い出だ。『ヤドリギ』自身の中でも、笑い話にできる程度には。
「古い本ばかり好んで読んでいたら自然とこうなっていた。教材が悪かったな」
「でも、私は変だとは思わないわ。物語の騎士様みたいでかっこいいなって思うけど」
「騎士様、か」
騎士。その言葉自体には複雑な思いがあるけれど、今、目の前にいる彼女に対しては、その「複雑な思い」よりも、率直な本音を語るべきであろうと思ったから。
『ヤドリギ』は、笑って、こう言うのだ。
「俺もそうありたいと思っている。何者に対しても敬意を持ち、誠実であり、信念を貫くもの。俺にとっての『騎士』とは常にそういうものだった。子供らしい憧れに過ぎなくとも。今の俺には不似合いなものであろうとも」
霧の下に姿を晒すこともできない化物が騎士道を語るなど、笑い話にもほどがある。けれど、アイリーンは『ヤドリギ』の言葉を笑わなかったし、真っ直ぐにこちらを見つめていた。その異形に怯む様子もなく。
ただ、一言、ほんの少しだけ微笑んで、こう言ったのだ。
「素敵ね」
その、たった一言に対して『ヤドリギ』は自分がどういう表情を浮かべたのかわからなかった。この湧き上がってくる感情につける名前がわからなかった。だから、ほとんど反射的に目を逸らし、フードを目深に被りなおして、アイリーンの視線から逃れることでかろうじて自分を保つ。
「無駄話をしてしまったな。……続けようか」
これが『ヤドリギ』なりの精一杯の誤魔化しであると、聡明な少女は気付いていたと思う。事実、アイリーンは少しばかり不思議そうな顔をしたけれど、それ以上の追及はしてこなかった。興味を失った、というよりは『ヤドリギ』の反応を見て追及をやめたのだろう。
素敵、なんて言われたことがなかったのだ。一度も。
いや、単純に「言ったことがなかった」だけだったのかもしれない。化物の身になってから、ここまで自分の話をしたこと自体がなかったから、アイリーンの反応にどういう顔をしていいのかもわからなかった。
せめて、笑い話だと思ってくれさえすれば、こちらだって笑い飛ばせたはずなのに。
何故だろう。――酷く、泣きたいような気分になる。
その思いを悟られないように、台本に視線を落とす。アイリーンもそれを合図と見たのか、『ヤドリギ』の側を離れて舞台の方に向かおうとした、が。
不意に、その身体が傾いだのが、フードの下から微かに見て取れて。『ヤドリギ』は椅子を蹴って駆け出していた。ふらり、とその場に倒れそうになるアイリーンの身体を、何とか伸ばした両腕で受け止める。
その瞬間、アイリーンが腕の中でびくりと震えた。よくよく見れば、『ヤドリギ』の右手の蔦が、アイリーンの体に絡み付いていたことに気付いて、慌てて蔦を引いて左手だけで彼女の身体を支えなおす。
「申し訳ない、気色悪い思いをさせてしまった」
「い、いいえ、ちょっと、驚いただけ」
アイリーンにとっては、身体に絡まる蔦が未知の感触だったからだろう。目を白黒させてこそいたが、それでも言葉通り深く気にした様子もなく、自分の足で床の感覚を確かめるように立つ。しかし、『ヤドリギ』が手を離したらすぐにでも倒れてしまいそうだった。
アイリーンはそんな自分自身の様子が不思議なのか、首を傾げながらも言う。
「こちらこそごめんなさい、なんだか、急に眩暈がして」
ああ、どうして今まで気付かなかったのだろう。『ヤドリギ』は苦々しさを噛み締めながら言う。
「……君、近頃きちんと眠っているのか?」
アイリーンは『ヤドリギ』の問いに対し、少しだけ目を見張った後に、バツが悪そうな顔で首を横に振った。
「最近は遅くまで、ずっと練習してたから……」
この場の明かりが暗かったなんて、今更言い訳にもならない。『ヤドリギ』はいつもこれと同じくらいか、これ以上暗い場所で暮らしているのだから。その『ヤドリギ』が、アイリーンの顔色の悪さに気付くことができなかったのは、己の失態でしかない。
そっとアイリーンを舞台袖に導いて、自分が座っていた椅子に座らせる。そして、肩を落とすアイリーンの前に膝をつき、彼女を見上げる。
「俺は人一倍不器用な性質だからな。『繰り返さなければ身につかない』というのは、わかるつもりだ」
『ヤドリギ』も学生時代は体力が続く限り無理を続けたことはあったし、今はこの異形ゆえの丈夫さを盾に人に言えない類の無茶をすることもあるが、アイリーンは『ヤドリギ』とは違うのだ。
「しかし、それも十分な休息と心の余裕があってこそだ。熱心なのはいいことだが、本番までに体を壊しては困るのは君だろう?」
アイリーンは、俯いたまま、そろえた腿の上で手をぐっと握り締める。その手の力も、酷く弱々しいものではあったけれど。それから……、今までの凛とした響きが嘘のようなか細い声で、「ごめんなさい」と呟いたのだった。
そうではない、そうではないのだ。全く、いつになったら言葉の選び方がマシになるのだろうか。自分で自分を叱咤しながら、『ヤドリギ』は慌てて言葉を付け加える。
「いや、こちらこそすまない。これは俺の言い方が悪かった。君を責めたかったわけではない。無理をしてほしくはない、と、言いたかっただけだ」
そうだ、当人もわかりきっているであろうことを、あえて繰り返したかったわけではないし、謝罪の言葉が聞きたかったわけでもないのだ。ただ、ただ、どうしても、彼女の身が心配で、言わずにはいられなかったというだけで。
果たしてアイリーンも『ヤドリギ』の意図は汲んでくれたのだろう。もしくは、『ヤドリギ』の慌てようが面白かったのか。暗く沈んでいた顔にほんの少しだけ笑みを浮かべて、膝をつく『ヤドリギ』を見下ろしたのだった。
「あなたの言う通りね。私も少し焦りすぎてたみたい。心配してくれて、ありがとう」
もう大丈夫、と言ってアイリーンは立ち上がる。『ヤドリギ』の心配に反して、今度こそ彼女はしっかりと己の足で立ちあがっていた。と言っても、やはり顔色の悪さは拭えていなかったけれど。
「うん、今日は帰って休むことにする。明日も、明後日も、稽古はあるんだもんね」
「……ああ」
せめて、宿舎の近くまで送っていこうか、と言いかけてやめた。『ヤドリギ』がこの場にいること自体がそもそもおかしいのだ。ましてや、この閉ざされた空間の外に出ることなど、できるはずもない。……誰が禁じたわけでも、なかったとしても。
そんな『ヤドリギ』の言葉にならなかった思いを察してくれたのか、アイリーンはにっと笑って言った。
「大丈夫、宿舎はすぐそこだから。次に会う時には、きちんと元気になってるって、約束するわ」
次の夜の稽古は、少しだけ先の日に。アイリーンの言葉を『ヤドリギ』はしっかりと胸に刻む。後でねぐらに返ったらきちんとメモを残しておかねばならない、と思う。果たしてそのメモが後できちんと読めるものになるかは、極めて怪しかったが。
「約束ね、『ヤドリギ』さん」
そう言って、彼女は手を差し伸べる。約束の証、ということだろうか。立ち上がった『ヤドリギ』は左手で彼女の手を握る。するとアイリーンは「そっちの手も」と言ってきた。背中側に隠していた蔦を見つめて。
これには『ヤドリギ』もつい笑みを浮かべてしまう。
「物好きだな、君は」
そう言いながら、蔦の一本をアイリーンの手に絡める。気持ちのよいものではないだろうに、と思う『ヤドリギ』をよそに、少女はその表面に指を伝わせる。蔦の感覚は『ヤドリギ』には酷く鈍くしか伝わらないけれど、いたわるような手つきで異形の右手と爛れた左手の感触を確かめて。
「それじゃあ、『またね』」
彼女は無邪気に『次』の話をするのだ。
未来に何一つ確かなことなどない、とわかっていながら。『ヤドリギ』もいつになく穏やかな気持ちで、こう返すのだった。
「ああ、『また今度』」
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