ゴーストステップ

 ――九六九年 雪季一節



 何でも、劇場『ハー・マジェスティ・シアター』に幽霊が出るらしい。

 ……と、アイリーン・サイムズは笑いながら言った。

 その話は既に『ヤドリギ』も聞き及んでいた。正確には案内人の報酬として得られた雑誌で目にした、と言った方が正しいか。女王国最大の劇場『ハー・マジェスティ・シアター』は当然ながら歴史も古く、幾度か修繕こそ入っているが、それでも相当の歴史を誇っている建築物であることは間違いない。詳細は『ヤドリギ』の知るところではないが。

 その歴史の中で、幽霊騒ぎは実のところ一度や二度ではなかったのだと『ヤドリギ』が目にした記事は語っていた。曰く、舞台上の不運な事故で亡くなった女優の亡霊が度々観測されただとか、舞台上の演出であったはずの炎に巻かれて命を落とした俳優が炎と共に現れて仲間を求めているとか、ある理由で舞台に立てなくなった俳優が自殺した後、怪奇現象が多発しただとか。どれもこれも、もちろん今回の幽霊の話もあくまで「噂」として語られており、その真相についてはどこまでもぼかされていた。大衆向けの雑誌の記事など、大概そんなものである。

 ただ、今回の噂に関していえば、真相はあまりにも明らかであり、舞台袖の椅子に猫背気味に腰掛けた姿勢のまま『ヤドリギ』は口を開く。

「君、噂になっているようだが」

「噂になっているのはあなたの方じゃない?」

「……どちらにしろ、だ。見つかったらお互いに面倒なことにならないだろうか?」

「大丈夫よ、警備のひとには私が練習しているのは伝えてあるから。練習を覗くようなひとたちじゃないと思うし」

 アイリーンは無邪気に笑う。果たして本当にそれだけで大丈夫だろうか、という疑念はあるが、もし「面倒なこと」になった場合にどう動くべきかは常に頭の片隅に引っ掛けてある。……それを、彼女がどう考えるかは別として。

「で、今日は何に付き合わされるんだ?」

 あえて意地の悪い言い方をしてみるが、別に彼女の練習に付き合うのは悪い気分ではないし、アイリーンもそれを冗談であると受け取ってくれる程度には『ヤドリギ』の性格を理解してくれているとみえる。

「今日は、円舞の稽古に付き合ってほしいの」

 言われてみれば、今回の劇には、大団円を示す大規模な円舞のシーンがあったと記憶している。そこに、彼女が扮する使用人が踊り手として登場することも。

 しかし、それにしては頼む相手が間違っているのではないかと『ヤドリギ』は思う。踊る、ということは相手が必要ということであるし、今までの稽古は『ヤドリギ』が素人でも特に問題はなかったが、舞踏の練習となれば相手だって踊れなければ意味がない。

「君は、俺が踊れるとでも思っているのか?」

「思ってる」

 アイリーンは躊躇いもなく答えてみせた。

 その答えは想定外だったが、確かに十分すぎるほどの手がかりを与えてしまっていたな、と思いなおして『ヤドリギ』は嘆息する。『ヤドリギ』がアイリーンの背景をおぼろげながらに推測できたように、アイリーンも『ヤドリギ』の言動を観察していただろうし、そこから「何ができるか」を推測するのはそう難しいことではないはずだ。

「ご明察。とはいえ、もはや体が忘れていてもおかしくはない」

「いいのよ、私が踊る練習なんだから。基本的な円舞のステップくらいなら覚えているでしょう? それで十分」

 そのくらいなら、と『ヤドリギ』も頷く。踊れる、ということを看破されてしまった以上は付き合うしかない。何せ、アイリーンは既に舞台袖の音響装置を動かし、どこかで聞いた事のある――題までは思い出せない――円舞曲を流し始めてしまっている。

「少しばかり待ってくれ。流石にこの格好では動きづらい」

 舞台に向かうアイリーンに断り、『ヤドリギ』は深く被っていたフードを除けて外套の釦に手をかける。この外套は『獣のはらわた』に常に充満する冷気と湿気、それに軽度の衝撃から『ヤドリギ』を守るために作られているため、細かな動作をするにはあまりにも不自由だ。

 右の蔦で襟を支えながら、左手で不器用に釦と金具を外し、袖から腕を引き抜く。外套の下は防寒のために薄手の服を重ねて着ているのだが、まあ、踊るだけなら支障はないだろうと判断する。

 外套を無造作に椅子に引っ掛け、普段はきつく閉じている襟元を緩めて、ここが『はらわた』と全く違う空間であることを空気のにおいと温度で改めて確かめる。自分が、あまりにもこの場に不釣合いであることも。

 不釣合いであろうとも、何であろうとも。『ヤドリギ』は舞台に向けて足を踏み出す。足元を照らすためだろう、普段より少し明るい舞台はそれだけで酷く眩しく感じられる。だから、つい、そこに立つアイリーンに向けて言わずにはいられなかった。

「あまり、顔は見ないでくれ。……見て気持ちのいいものではないだろう」

 せめて傷痕を隠すために包帯の一つくらいは巻いてきた方がよかっただろうか、と思ったが、この手では包帯も上手く巻けやしない。ああ、そういえば醜い顔を隠すために仮面を被って現れる怪人の話もあったな、などと思っていると、アイリーンの方からこちらに近づいてきて、真っ直ぐにこちらを見上げてきた。

 彼女の目におそれの色は見えなかった。ただ、ただ、青い瞳が真っ直ぐに『ヤドリギ』の焼け爛れた顔を見据えて、ぴしゃりと言い放つのだ。

「自分のことを、そんなに悪く言うものじゃないわ」

 そんな風に言い切られてしまっては、『ヤドリギ』も二の句を告げなくなってしまう。なるほど、必要以上の卑下は相手を不愉快にさせるものだ。内心反省する『ヤドリギ』に対し、アイリーンは笑顔すら浮かべて言葉を紡ぐ。

「それに、あなたがそんなに綺麗な色をしていたの、今まで知らなかった」

 綺麗な、色。

 その言葉には『ヤドリギ』の方が面食らってしまう。

 確かに、綺麗かどうかは横に置いて「物珍しい」のは間違いない。この辺りではあまり見られない特徴であることを『ヤドリギ』も理解はしていた。それもあって、外套を纏い、目深にフードを被って、薄闇に隠れることで自分自身を闇の中に溶かしてしまうようにしていた。そうすれば、色彩も、傷痕も、この異形の右手ですら、曖昧な輪郭を描くのみになる。

 だが、今は自分の身を隠してくれるものは何もないから、舞台の床に異形の影を落として、『ヤドリギ』はアイリーンに苦笑いを向ける。

「昔はこの髪の色を散々に言われたものだ」

 特に少年であったころは、相当礼を失した言葉を投げかけられたことを覚えている。その度に、言葉と、場合によってはそれ以上の手段をもって相手の口を封じてきたが。

 別に自分ひとりがからかわれる分には怒りを表す理由はなかったが、生まれながらの色彩に関しては父母をはじめとした一族の「血」の色だ。それを侮辱されたままでいられるほど寛容ではなかった。今も実のところ、少年の頃と同じことを言われて黙ったままでいられる自信はない。

 ただ、アイリーンは「見る目がない人たちばっかりだったのね」と笑ってすらみせるのだ。演劇に携わる彼女であれば尚更、この色が意味するところを知らないはずもないというのに。

 ――事実、少女はこう言ってみせるのだ。

「燃えるような赤毛は、嵐を行く戦士の色、海を照らしあげる焔の色。でしょう?」

「……『蛮人の色』とも言うがな」

 赤毛、というのは女王国の中でも西方諸島と呼ばれる地域の出身者が持つ特徴だ。かつては「外つ国」であったそこは女王の権能がほとんど届かない貧しい土地であり、女王国の船舶に対して海賊行為を働くことでかろうじて成り立っていた、女王国から見ればまさしく『蛮人』の土地であるといえた。

 故に、双方の合意によって西方諸島が女王国の一部に組み込まれて久しい現代においても、西方出身者に対する偏見は根強い。それこそ、物語のお約束ステレオタイプとして「赤毛の登場人物」が「野蛮な人物」を指す程度には。

 近頃は差別的といえる表現は表向き廃されつつあるが、それでも根付いた偏見は今だ根強い。おそらくそれらの認識が完全に改められる頃には、『ヤドリギ』はとっくに墓の下だろう。このような化物に墓を用意してもらえるかもわからないが。

 未だにアイリーンは『ヤドリギ』の顔をしげしげと眺めている。流石に気恥ずかしくなってきて、少女の顔から目を逸らし、顔の前に左手を翳す。

「すまない、あまり、見られるのには慣れていない」

「ごめんなさい、今まできちんとあなたの顔を見たことなかったから、つい」

 そう言いながらもアイリーンは笑っていた。「少し得した気分」などと付け加えて。一体何が得なのか『ヤドリギ』にはさっぱりわからなかったが、アイリーンは気を取り直したように軽い足取りで舞台の真ん中へと歩いていく。『ヤドリギ』も、それについていきながら、ちらりと暗闇に包まれた観客席を見やる。

 かつての自分は「あちら側」にいたはずだったのだが。本当に、何がどう転ぶかわからないものである。

 きっと本番は交響楽団の演奏による華やかな円舞曲が流れるのだろうが、今は稽古の時間。流れているのは、古い音盤の音源だ。そんな中、アイリーンは決して華やかとはいえない稽古着ながら、それでも確かな存在感をもって、そこに立っていた。踊りを誘うのは男性の側からというのが基本であり、つまり『ヤドリギ』が手を差し伸べるのを待っているのだ。

 さて、かつての自分はどうしていただろう、と頭で考える前に、体が動いていた。

 膝をつき、恭しく彼女に頭を垂れ、手を差し伸べようとする。手、と言ってもそれは蔦の絡まった不格好な何かでしかなかったけれど、今ばかりは変に暴れることもなく、確かに『ヤドリギ』の右手として動いていた。

 そして、顔を上げて、精一杯に微笑んでみせるのだ。

「どうか、俺と踊っていただけませんか、レディ」

 正直なところ、それが正しい作法なのかを『ヤドリギ』は知らない。ワルツのステップは過去に散々叩き込んだが、正式な場での実践に及んだことは片手の指で数えられる程度だ。何か間違っていただろうか、とアイリーンを窺うと、アイリーンはいつになく頬を真っ赤にして、なんとも言えない表情で膝をつく『ヤドリギ』を見下ろしていた。

「……そんなに、変だっただろうか」

「そ、そうじゃなくて」

 アイリーンはもごもごと口の中で何かを言うが、何せ『ヤドリギ』は耳がろくに利かないものだから、「もう一度頼む」と声をかける。すると、アイリーンはむうと頬を膨らませてこう言うのであった。

「演技以外でそんなこと言われたことなかったから、その、びっくりしただけ」

 言われてみれば『ヤドリギ』のそれは演技ではなく、今までの経験から身についた当然の動きで。それがアイリーンにとっては、どこか調子を狂わされるものであった、らしい。『ヤドリギ』にはよくわからなかったが。

 アイリーンは、まだ頬を微かに赤らめながらも、『ヤドリギ』の異形の手にちいさな手を重ねる。『ヤドリギ』は力加減に気をつけながら蔦の先端を指に見立てて彼女の手を包み込み、立ち上がりながら彼女の軽い体を引き寄せて、左の腕で支える。

 それ以上、言葉はいらなかった。ゆるやかなステップと共に、普段ならば勝手に動き回るばかりの蔦は珍しく『ヤドリギ』の意に従い、アイリーンの手をしっかりと握り、時には彼女を導いてすらみせる。時には彼女の体を引き寄せ、時には互いに繋いだ腕を伸ばして。その手を支えにアイリーンがくるりと回れば、彼女のスカートもまたふわりと膨らむ。

 練習、とは言ったけれど、アイリーンの踊り方に特に『ヤドリギ』が口を出すような点は見当たらなかった。そして『ヤドリギ』自身も、最後に踊ったのがいつかも思い出せないというのに、自然と体が動いていた。人より不器用な性質な分、一度叩き込んだものはそう簡単には忘れないものだな、と自分でおかしくなってしまうくらい。

 もしかすると、そんなことを考えているうちに、無意識に笑ってしまっていたのかもしれない。最初はおっかなびっくり、というよりも、どうにも照れくさそうに踊っていたアイリーンが、『ヤドリギ』の片方だけの目を覗き込んで、にっこりと笑い返してきたから。

 ああ、本当におかしな話だ。

 長らく地下で暮らしていた化物が、本来ならば立てるはずもない舞台の上に立っていることも。柔らかな灯りの下で、少女の手を取って踊っていることも。

 だからこそ。彼女の笑顔を、視界の中で跳ねる煌く金髪を、息遣いと足音を、そしてその温もりを――それはあくまで人の形を残した左手でのみ感じられるものであったけれど――忘れたくないと思った。それこそが、人であることをやめて久しい『ヤドリギ』が、それでも人らしくありたいと思っている証拠。人らしくあるということは、「人と共にあること」なのだと再認識する。

 とはいえ、それもあくまで今、この時だけの話。何もかも、『ヤドリギ』の今までからは考えられなかったことであるし、きっとこれからもありえないこと。あってはならないこと。

 だから、曲の終わりと共に、『ヤドリギ』は彼女の手を握りこんでいた右手を離す。するり、と絡んでいた蔦がアイリーンの小さな手から離れて、いつもの『ヤドリギ』の右腕らしい、てんでばらばらな動きに戻る。むしろ普段より少し激しいくらいかもしれない。

 未だ少し呆然とした様子のアイリーンに一礼し、それから率直な講評を述べる。

「上手いじゃないか。練習なんていらないくらいだと思うが」

 振りは完全に覚えているし、リズム感もいい。こちらがリードするまでもなく、アイリーンは軽々と踊ってみせていた。それこそ、相手がいなくたって上手く踊ってみせるに違いない。

 けれど、我に返ったアイリーンはぱたぱたと音響装置の方に駆けていって、もう一度同じ曲を流してみせるのだ。

 そちらから響く声曰く「反復練習は基本でしょう?」と。

 その言葉が全てでないことくらいは『ヤドリギ』にもわかった。きっと、アイリーンも感じているに違いない。これが自分たちにとって「最初の最後の機会」になるのだろうということを。

 別にそれ自体はどうということはない。当たり前の話だ。そもそも『ヤドリギ』がここにいること自体が奇妙な話なのだから。それでも、アイリーンはもう一度『ヤドリギ』の前に立つと、今度は顔を赤らめることもなく、満面の笑みを浮かべて、自ら白々とした手を差し伸べてこう言うのだ。

「レディの誘いを断るなんてことはないわよね、紳士様?」

 その堂々たる様子に、『ヤドリギ』はつい笑ってしまう。

「君もなかなか変わったレディだな」

「あなたほどではないと思うけど」

「確かに俺と比べるものではないな」

 そんな気安いやり取りと共に、改めて『ヤドリギ』はアイリーンの手に蔦を絡める。自ら望んでこの異形の手を、目の前のレディに預ける。

 それはたった一時。『ヤドリギ』からすれば瞬きのような時間の出来事。

 ただ、誰もが羨む舞台の上での、たった二人だけの舞踏会の記憶は、そう簡単に忘れることはできないだろう。華やかなアイリーンの微笑みを見つめながら、『ヤドリギ』はもう一度、一歩を踏み込む。

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