胡蝶の夢
――九六八年 雪季三節
わからずや、と「それ」はよく『ヤドリギ』を罵る。
いつからかはよく覚えていないが、『ヤドリギ』の右腕を形作っている、もしくは体内に宿っている植物が言葉のようなものを操るようになった。「ようなもの」というのは、あくまで『ヤドリギ』にしか聞こえない声であり、時には言語の体を成していない、単なる感情の塊であったりするからだ。
最初はごく原始的な植物としての本能に基づいた主張――水が欲しい、だとか、霧が足りない、だとか――だけを繰り返していた「それ」が、いつ頃からここまでの知性を持つようになったのか『ヤドリギ』は思い出すことができずにいる。それに、その声はあまりにも小さくて、『ヤドリギ』が誰かと言葉を交わしていたり、何かの行動に意識を払っているときにはほとんど聞こえることはない。
故に、その声は、いつでも『ヤドリギ』が一人で物思いにふけっているときか、眠りについているときに聞こえてくる。
その声は、最初は少女のようであったが、今は随分とはっきりとした少年の声に聞こえる。「それ」曰く「僕が君に宿った結果」だという。全くもって説明になっていないと感じたことだけは覚えている。
そう、意思疎通をしようと思えばできるのだ。『ヤドリギ』が普段はそれを拒んでいるというだけで。だから「それ」、もしくは「彼」というべき共生者は『ヤドリギ』を絶えず「わからずや」と罵るのであった。
拒みたくなるのも当然ではないか、と『ヤドリギ』は少しばかり腹立たしく思う。
自分の中で蠢く「彼」とどう付き合っていけばいいのか、『ヤドリギ』は未だにわからないままだ。「彼」が自分を生かしていること、自分が「彼」を生かしていること。もはやその二つに差などないこと。それだけは間違いないことであったけれど、それ以上、踏み込んでよいのかわからない。「彼」に近づいていいのかわからない。
このまま「彼」と自分とが溶け合ってしまったら、完全に、自分ではない何かになってしまうのではないかと。
そんな恐れが『ヤドリギ』と「彼」の間に線を引く。
故にいつまでも「彼」は『ヤドリギ』を夢の中で「わからずや」と罵るし、『ヤドリギ』はそれに対して何も言葉を返さずにいる。
ただ、時折。時折『ヤドリギ』は「彼」が見ているらしい夢を垣間見ることがある。それは青い花の夢。年に一度、熱に浮かされる日に見る悪夢めいたそれとは違う、とても静かな夢。温かな霧明かりの中で、青い花を揺らすひとつの大きな樹の夢だ。
それが「彼」の本来の姿なのだろうか。『ヤドリギ』は夢中の夢に漂いながらぼんやりと思う。「彼」は答えないけれど……、温かな霧の中に咲くおおきな樹と、その花の色は、『ヤドリギ』も決して嫌いではなかった。
そんな夢を見た結果かどうかは、正直『ヤドリギ』にはわからない。
ただ、ひとまず、今の自分が人に見せられるような状態でないということだけは、夢から目覚めた瞬間に理解した。
残念ながら、人に見せられない姿を、しげしげと観察している人物がいるということも。
「……何してんの?」
普段通り食材探しにやってきたらしい、常連のデリック・ギルモアがなんともいえない表情でこちらを見下ろしている。朝早くからご苦労様である。が、出来れば見られたくなかった、という思いを篭めて、質問に対して率直に答える。
「ただ寝ていただけだ」
そう言ったつもりだったが、きちんとデリックに聞こえていただろうか。口から喉にまで入り込んでいた蔦は起きた瞬間に慌てて引き抜いたが、一体どうやって入り込んでいるのか未だによくわからない、鼻の穴からかなり奥の方まで入っているとみられる細い蔦は引っ張ってもなかなか抜けてくれない。そもそも口と鼻を塞がれて窒息死しないのがいつも不思議なのだが、『ヤドリギ』はそう簡単に死ぬようにはできていないらしいから、まあ、そういうものだろうと思うしかなかった。
「っていうか……、それ、大丈夫なのか?」
やっと鼻の奥を占拠していた蔦をずるりという嫌な感触と共に引き抜いたところで、デリックが恐る恐る問いかけてきた。当然の問いだろう。何せ蔦が占拠しているのは顔だけではない。唯一自由になる左手を除き、体中を蔦が締め付けているのである。服の上からだけでなく、服の下にもぐりこんでいる蔦も多い。正直、ちょっと口に出して言うのがはばかられる辺りに絡まっている蔦もいる。服の下なので直接目に触れないことだけが幸いだが。
ともあれ、見られてしまった以上、何も言わないのはお互いのためにならない。『ヤドリギ』は小さく咳払いをして――というか、そうしないと喉が正しく動きそうになかった――デリックを見上げて言う。
「あまり大丈夫ではないが、深く気にしないでくれ、よくあることだ」
「よくあんの!? そのエクストリームセルフ緊縛プレイが!?」
「遺憾ながら」
普段『ヤドリギ』は眠る時には上層を離れて自分だけのねぐらで眠る。上層の住人たちに気を遣わせないためもあるが、理由の半分くらいは「これ」だ。一度この姿を人に見せてしまってから、『ヤドリギ』は眠るとき特に人の目を避けるようになった。一応、『ヤドリギ』にも人並みの羞恥心はあるのである。
デリックも『ヤドリギ』の人並みの羞恥心を理解してくれたと見える。あえて『ヤドリギ』から視線を外し、いつも火を熾しているあたりに移動する。
「と……、とりあえず、何かあったかいもの食うか? 今日寒いもんな」
「それはありがたい。どうにもこの時期は苦手でな。防寒をしても寒いものは寒い」
『獣のはらわた』には四季がある。通常、洞窟と呼ばれるものは大概が一定の気温を保つものだが、『はらわた』の気温は例外こそあるが、ほとんど場所が地上の気温と連動している。単に地上の大気が流れ込んでいる、というわけでもなさそうなのが不思議なところだが、『ヤドリギ』は今だにその謎を解けていないし、おそらく一生解けないだろうなと思っている。
そして雪季の今は『ヤドリギ』が最も苦手とする時期であった。昔はそうでもなかったのだが、今の体になってからはどうにも眠気が取れず、体の動きがぎしぎしとするような錯覚に見舞われる。起きている間も眠るときも寒さへの対策は欠かしていないつもりだが、やはりこの環境では限界がある。
「じゃあちくわ猫のスープにでもするか」
まずは下半身辺りに絡まっている蔦を何とか引き剥がそうと下穿きに手を突っ込んで四苦八苦する『ヤドリギ』に対し、デリックがそう告げたことで『ヤドリギ』は一旦手を止めてデリックの方を見る。
「ちくわ猫、結局美味かったのか」
ちくわ猫。
それは、何と表現していいものか長らく『ヤドリギ』も悩んでいた動物であった。柔らかな毛に包まれた円筒状の体をしており、おそらくは脚部と思われるちいさな四つの瘤を持つ。目に当たる器官は見当たらず、二つの三角形の耳を持ち、ちいさな鼻と鋭い歯を持つ口がある。なおこの口と、微妙に猫を髣髴とさせる顔立ちから肉食獣かと思われたが、よく見たら岩肌の苔をかじっているだけだったので、草食らしいことは明らかになっている。
そして、特筆すべきは口からその円筒型の体の後部までが空洞になっている、ということだ。食べたものをどこで吸収しているのか、一体どうしてこんな構造をしているのか、謎は多いが、ともあれデリックはその構造と毛のまだらの色味から、極東の食物「ちくわ」に似ているとして、以来『ヤドリギ』とデリックの間でこの動物は「ちくわ猫」と称されるようになった。
「おう。よく出汁が出るし、食感もよかった。この辺りのやつはのんびりしたもんだから捕まえるのも楽だしな。この時間帯だと特にいい」
「場所によって生態が違うのか。この前見つけた奴は追い掛け回してもほとんど捕まらなかったが」
「天敵の有無じゃないかな。この辺、あんまでかい生物いないだろ」
「なるほど。まあ、美味いからと言って採りすぎには気をつけろよ」
一応『ヤドリギ』としては、『獣のはらわた』の生態系を崩されるのは本意ではない。デリック一人でそうそう変わるようなものでないとは思うが、少しばかり、不安になるのだ。この男の「食」へのこだわりは、並々ならぬものであるから。
デリックは背後で蔦と格闘する『ヤドリギ』に笑い声だけで返すと、てきぱきと調理の準備を始める。デリックの鞄は、最初に見た時よりは随分とコンパクトにはなったが、それでもそこから飛び出してくるものの多様さに未だ『ヤドリギ』は慣れずにいる。その鞄のどこにどうやってそれらの食器や調理具を格納しているのか、中を覗き込んだところで、デリックの格納術の秘密は解けなかったことを覚えている。
今日は二人分ということで小型の鍋を出し、水を汲んでくると、既に下ごしらえは済んでいたちくわ猫をぶつ切りにして鍋の中に入れて。そして、昨夜『ヤドリギ』が組んだままにしておいた簡易的な竈に火をつけた瞬間、突如として異変は起こった。
あれだけ強情に『ヤドリギ』を締め付けて離そうとしなかった蔦が、急に力を緩めたかと思うと、『ヤドリギ』から次々と剥がれて竈の方にするすると伸びていくのだ。本来この蔦は火を好まない。『ヤドリギ』が火を熾すたびにびくりとするものだが、今ばかりはそれよりも何よりも優先するものがある、とばかりに、全ての蔦がデリックを囲むように竈の前に集結したのであった。
その様子を呆然と細い目で眺めたデリックは、同じく呆然とその様子を見ていることしかできない『ヤドリギ』を振り返って言った。
「……これ、さあ」
「ああ……」
デリックに言われるまでもなく、『ヤドリギ』も気付き始めていた。
ひとりでいるとわからないことは多い。何せまず全身に絡んだ蔦を外さなければ身動きも取れないのだ、次の動きに移ることもできない。例えば、火を熾すだとか。
だから、今の今まで考えもしなかったのだが、これは。
「こいつら、寒がってるだけじゃね?」
「俺もそんな気がひしひしとしてきたところだ」
『ヤドリギ』はどうにも寒さに弱いが、この右腕から生える蔦はそれ以上に寒さが苦手で、目に見えて動きが鈍る。外套の中から出てこようとしないことも日常茶飯事だ。起きているときはそういうものなのだろう、と思っていたのだが、寝ている間、自分の体温はともかく蔦を考慮したことは、これまでなかったのだと思い出す。
もしかすると、寝てから起きるまでの間『ヤドリギ』に執拗に絡み付いてたのは、別に悪意ではなく暖を取るためだったのか。蔦の部分に温度はなく、故に『ヤドリギ』の体温を求めていただけだったのか。特に服の下や体内に集中していたのも、そう考えれば説明がついてしまう。いや、「彼」なりの嫌がらせも微妙に含まれている気はするが。
「そうか、そんなに寒かったんだな……」
「俺の毛布貸してやるから、今日の夜辺りそれで包んで寝てみたらどうだ?」
「かたじけない」
デリックの提案に礼を返し、ふと目を閉じてみれば、青い花のイメージと共に、魂魄の片隅で「彼」がむくれているのがわかる。
「わからずや」
いつもの言葉を呟いて、そっぽを向く。意識の中の『ヤドリギ』は、ただただ苦笑じみた感情を受け渡すことしかできなかった。
せめてちくわ猫のスープで機嫌を直してくれればいいが。瞼を開き、じっと竈で暖を取る蔦を眺めながら、『ヤドリギ』はそんなことを思うのであった。
なお、想像通り翌日からデリック曰くの『エクストリームセルフ緊縛プレイ』は二度と起こらなくなったが、今度は寝る前に包んでおいた毛布に複雑に絡みつき、頑として離れようとしない蔦を引き剥がすのに結局時間を使う羽目になるのだった。
――「彼」との和解はまだまだ遠い。
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