四手には足らない

 ――九六九年 実季三節



『獣のはらわた』にはいくつもの地上への道筋があることを『ヤドリギ』は知っている。

 そのうちの一つが、銅牙広場カッパーファング・サーカスに位置する女王国最大の劇場『ハー・マジェスティ・シアター』に繋がっていることも。

 覗き見は趣味が悪いと常々思っているが、それでも『ヤドリギ』は『ハー・マジェスティ・シアター』の舞台に限りなく近い場所に開いているらしい、ちいさな穴の近くで舞台から聞こえてくる声や音楽を聞くのが好きだった。元々観劇や音楽鑑賞は趣味の一つだったのだ。今となってはそれも遠い昔の話になってしまったけれど。

 特に客人のない日などは、日がな一日そうしていることもあって……、その日はつい、舞台から響くピアノの音色の心地よさと、雪季に近づいているがゆえの気温の低さもあって、いつになく深く眠りこんでしまったのだった。

 目が覚めた頃にはピアノの音はとっくに止んでいて、穴から漏れる光も消えていた。おそらくは夜の、それもかなり深い刻限になっていることだろう。地上と違って『獣のはらわた』に明確な昼夜はないが、『ヤドリギ』は時折、このようなか細い地上との繋がりをもって時間の経過というものを意識する。それは彼が常に携えている懐中時計以上に明確かつ痛切な焦燥をもたらすものであるが、意志の力で飲み下す。

 寒い時期になってくるとどうしてもぼんやりしがちな頭を軽く振って、『ヤドリギ』は立ち上がる。普段なら、そのまま今日のねぐらに戻っていた。しかし、本当に気まぐれとしか言いようがなかったのだが、つい引き付けられるように『ハー・マジェスティ・シアター』に向けた出口へと歩みを進めていた。

 かつて『ヤドリギ』曰くの「彼女」――『怪盗カトレア』を名乗る常連と共に下見をしたことがあるので、この出口が劇場の楽屋に繋がっていることは知っていた。そして、劇場の大まかな構造や、警備の様子も。

 時計の螺子を巻き忘れていなければ、今はちょうど警備が甘い時間帯のはずだ。仮に怪盗カトレアの盗みが成功していたら相当警備も強化されていただろうが、この劇場での彼女の仕事はそもそも露見すらしなかった。何せ盗むべきものが最初からなくなっていた、、、、、、、のだから。

 それも随分と前の話になったな、と思いながら『ヤドリギ』はしんと静まり返った楽屋へと足を踏み出す。『獣のはらわた』の内部とは違う、乾いた空気と建築物特有のにおい。ところどころに警備用のちいさな灯りがついているので、『ヤドリギ』の目をもってすれば十分明るく感じられた。故に、足音を立てないようにだけ気をつけながら、ゆったりとした足取りで舞台の方へと向かっていく。

 ……らしくないな、と自分でも思う。

 自ら『はらわた』を出ていくことも、こんな形で自分がいるべきでない場所を彷徨っていることも。

 ただ、つい、思い出してしまったのだ。

 舞台袖に置かれたピアノに目を向ける。布をかけられた、立派なグランドピアノ。どうやら蓋の鍵はかけられていないらしいことを確かめて、『ヤドリギ』は左手でそっと重たい蓋を開く。

 目に入るのは八十八の鍵盤。黒と白の規則的な配列。『ヤドリギ』にとっては、遠い記憶を呼び覚ます、もの。

 

 

 年頃の女性が暮らす部屋にしては、妙に殺風景というべきちいさな空間で、アップライト型のピアノは、蓋が閉ざされたまますっかり埃を被っていた。長らく、誰も触れていないのだろうということは、一目でわかった。

「勿体無いな。弾かないのか?」

 寝台の上に腰掛けた記憶の中の少女は、問いかけに対して首を横に振った。

「楽譜、読めないから」

 そうか、と短く返したことを覚えている。わかりきっていたことを聞いてしまった、という後悔と共に。けれど、少女は彼の無神経さを特に気にすることはなかったらしい。逆に問い返してくる。

「あなたは、弾けるの?」

「嗜む程度には。……君に聞かせられるようなものかはわからないが」

 それでも聞きたい、と少女が言ったから、軽くピアノと椅子にかかっていた埃を払って、蓋を開く。それから、試しに鍵盤を一つ二つ叩いてみる。音が狂っているわけでもないから、定期的に調律はされているのだろう、と判断する。いつか、少女が鍵盤と向き合うその日のために。

 軽く指慣らしに音階を奏でてみせてから、何を弾こうか、と考えてみたが、この場に譜面もない以上は、指が覚えているものしか弾けないのだと思い至る。あくまで「嗜む程度」にしか弾かない彼が覚えている曲はそう多くはなかったから、その中でも最も得意なものを弾いてみることにした。

 そう難しい曲ではない。ただ、きっと少女にとっては物珍しいものであろう、彼の故郷に伝わる民謡だ。彼にとっては馴染み深い旋律だが、こちらでは随分独特なものとして聞こえるのだということを、首都で暮らすようになって初めて理解したのだった。

 本当は歌詞もあるのだが、彼は如何せん歌はそこまで上手くない。下手というほどでもないが、ピアノほど人に聞かせられるものでもなかったから、頭の中で歌詞をなぞる。

 ――木々はうたう。花はわらう。実りを求めて、ささやきかける。

 今でも十分に諳んじることができるそれを一通り弾き終えたところで、ぱちぱちとちいさな拍手が聞こえた。

「上手。……すごいね、なんでもできる」

「なんでも、というわけでもないよ。それに、練習をすれば君にもできる」

「あたしにも?」

 不思議そうに首を傾げる少女は、すぐに表情を曇らせる。できるはずもない、という顔であることは彼にもわかった。少女は言葉こそ少ないが、その表情や仕草で言葉以上に色々なことを物語ってくれることを、彼はよく知っていた。

 だから、たじろぐ少女に向けて笑いかけて、手を伸ばす。それは臆病な少女に向けた、いつもの手続きの一つ。

「楽譜が見えなくても、鍵盤と、俺の手は見えるだろう。真似をするだけでいい」

 もちろん、それは初歩中の初歩でしかなく、きちんと「弾く」ためには運指の訓練も必要不可欠だが、それでも「真似をする」ということは最初の一歩を踏み出す大事なきっかけだ。音を奏でるということ。一つの旋律を紡ぐこと。それが、少女の手でもできるのだということを教えたかった。

 寝台から立ち上がった少女は、恐る恐る彼の手を取る。ちいさくて、少し冷たく感じられる手。もしくは彼の手の方がいつも熱を帯びていたのかもしれないが、今となってはどちらであったのか確かめる術もない。

 長椅子の左側に寄り、少女を横に座らせる。少女のために用意された長椅子は二人で座るには少し窮屈で、少女の痩せた腕が彼の太い腕に触れるのを感じながら、右手を鍵盤の上に置く。少女も真似をして鍵盤の上に手を置いてみせるが、まるで大きさも厚みも違って、お互いに顔を見合わせて少しだけ笑ってしまう。

「それじゃあ、鍵盤に親指を置いてみよう。上に二つ並んだ鍵盤があるだろう、その、左下にある鍵盤だ」

 彼は一オクターブ下で同じように構える。少女は自分と彼の手、それから鍵盤を見比べながら、なんとか同じ位置に手を置く。

「そのまま、親指で音を出してみる」

 ぽん、と。少し低い音の後に、かしゅ、という鍵盤を叩いた音だけが聞こえてきた。鍵盤を叩く力が弱すぎて、内部の機構が弦を叩くに至らなかったのだろう。

「もう一度、もう少しだけ力を入れて。大丈夫、壊れたりはしない」

「う、うん」

 少女がもう一度、白鍵に指を下ろす。すると、彼の奏でた音よりもちょうどオクターブ高い音が響いた。音が鳴った、ということそれ自体に驚いたのか、少女は目を見開いて、普段は青白い頬をいつになく紅潮させている。

「今度は、親指はそのまま。小指で、親指から四つ離れた鍵盤を叩いてみる」

 そうやって、一つずつ、一つずつ。少女も馴染みがあるであろう、古い童謡の旋律を、確かめるように奏でていく。少女も教わっているうちにそれに気付いたのか、自分の指が奏でる音に少しずつ弾むような喜びを混ぜていく。

「では、今度は最初から。ゆっくり、焦らずついてきてくれ」

 もう一度、最初から終わりまでの、短い旋律を繰り返す。少しばかりたどたどしくはあるが、確かに、少女は教わったとおりに彼が奏でる旋律をこだまのように返してくる。そして、最後の一音を叩き終わったところで、ぱっと顔を輝かせた。

「できた」

「ああ、上手だ。この調子ならすぐに弾けるようになりそうだな」

 少女は彼の先導がなくても、二度、三度と同じ旋律を繰り返してみせた。楽譜が読めなくても、耳と指とが覚えていれば、十分に音楽を奏でることはできるのだと少女もわかったのかもしれない。

 彼は、少女に教えた旋律に、軽く左手で伴奏をつけてみる。正確な譜面は覚えていないから、即興のものではあるが。もちろん、流石に少女にとっては難しいものに見えたのだろう、目をぽつんとさせている少女に向かって笑いかけてやる。

「実際には、左手は左手で別に練習をする。俺も、最初は相当苦労した」

 特に彼は右利きであったから、左手で音階をばらつきなく奏でられるようになるまでにも相当かかったと思い出す。その点、少女は左利きであるから、もしかすると案外楽に弾けるようになるかもしれない。

 とはいえ、少女にとっては全てが「初めて」であったからだろう。少しばかり眉尻を下げて鍵盤に視線を落とす。

「やっぱり、難しいんだ」

「最初はな。でも、思う通りに弾けると楽しいだろう?」

 その問いかけに対しては、少女は力強く頷いた。それから、いつになく明るい表情で彼を見上げて言う。

「これからも、教えてくれる?」

「もちろん。君さえよければ、喜んで」

 こうして、二人で並んでいられる時間は、彼にとって幸福な時間であったから。彼女にとってもそうであってくれればよい。そう願いながら、ふと、浮かんだ思い付きを言葉にする。

「君が両手で弾けるようになったら、連弾もできるかな」

「連弾?」

「そう。二人四手で、一つの曲を弾く譜もあるんだ。君と弾けるようになったら、もっと楽しいのではないかと思うんだが」

 彼の言葉に少女は花咲くように笑む。少女が笑顔を見せてくれることはさほど多くないけれど、だからこそ、時折見せてくれる笑顔が何よりも好きだった。

 少女は、細く折れてしまいそうな指を彼の小指に絡めて――それは彼女の好きな「約束」のしるしだった――言う。

「うん。上手になって、あなたと一緒に弾く。約束」

「ああ、約束だ、」

 そして、彼は少女の名を――。

 

 

 唇から、ちいさく漏れた名前に自分で驚く。

 慌てて誰にも聞かれていなかったことを確かめて、改めて『ヤドリギ』は鍵盤と向き合い、何とはなしに自分の手を見る。ところどころが爛れた左手と、それから、もはや「手」ともいえない右の蔦。これでは、当時弾いてみせた曲を弾くこともできないし――、あの日の少女とピアノを弾くこともできない、と考えたところで思考を打ち切る。

 いくら、ありもしない想像を積み重ねたところで仕方がない。結局のところ『ヤドリギ』は人であることをやめてしまったし、かつて側にいたはずの少女はいなくなってしまった。当時を思うことはできても、戻ることなどできはしないのだ。

 ピアノは何も語らない。弾く者がいなければただそこに在るだけだ。

 もう二度と果たされない四手の約束を首を振って追い出して、蓋を閉めようとしたその時、不意に一音。あの日の少女が最初に弾いた音が響いた。

 右腕から完全に意識を外していたことに気付いた時には遅すぎた。『ヤドリギ』の意志に反して勝手にピアノを鳴らした右の蔦は、何事もなかったかのようにゆらりと揺れ、それと同時に。

「誰かいるの?」

 という声が舞台の逆の袖から聞こえてきた。

『ヤドリギ』は慌てて身を翻し、来た道を逆に辿る。足音を殺すだけの余裕もなかったが、幸いなことに誰何の声以外に何かが追ってくることはなかった。いや、追ってきていたが気付けていなかっただけかもしれないが、それを判別するだけの余裕は『ヤドリギ』にはなかった。『はらわた』の内部と違って、『ヤドリギ』の人より鈍い感覚を補完してくれる植物は建物の中には乏しい。

 それでも、何とか楽屋の一つにある『はらわた』へ続く隠し通路に飛び込み、扉をしっかり閉ざして。そして己のねぐらまで引き返したところで、やっと息をつくことができた。

 馬鹿なことをしたものだ、と自分で自分を叱咤する。元より慎重な性質ではないのだから、身にそぐわない行動はあらかじめ慎むべきなのだ。長く長く息を吐き出して、それから伸びすぎていた右腕を剪定しなければならない、と普段と何ら変わらないことを思う。伸ばしたままにしていてよいことはないのだ。今回のように。

 それにしても、と。落ち着いたところで不意に意識を切り戻す。

 女の声だった、と『ヤドリギ』は思う。あの時聞こえた誰何の声。女というよりも、まだ少女と言っていいだろう、澄んだ声だった。

 そして、どこかで聞いたことのあるような気がする、声だった。

 ――気のせいだろう、と思うことにする。色々なことを考えすぎて、混乱していたのだ。きっと。

 もう一度、自分の手を見る。二度と鍵盤を叩くことはないであろう指を折り、そういえば随分爪が伸びてしまっているな、と、ありふれたことを考えた。

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