霧の向こうに
――九六九年 花季一節
「『ヤドリギ』って読書家っつーか、濫読家だよな」
「そうだろうか」
『ヤドリギ』は思いながら、当の本を持ち込んできた男、デリック・ギルモアをフードの下から見やる。
「目が疲れるから、一日に読める量は限られるが」
「そうじゃなくてな?」
デリックは呆れたように肩を竦めながらも、二本の棒――箸で鍋をかき混ぜている。今日のメニューはデリックの父方の故郷たる極東に伝わる調味料「味噌」を使った鍋物であった。具材は主に『はらわた』のあちこちの壁に張り付いている甲殻蛸。命名はもちろん『ヤドリギ』であり、正式な名称は誰も知らない。デリック曰く、蛸に似た吸盤を持つ足をよく茹でるとぷりぷりとした食感が美味しく、剥がした甲殻部分は出汁を取るのにちょうどいいという。
『はらわた』の生物は生態にしろ味にしろ癖のあるものが多いが、きちんと下処理をし、かつ味付けを工夫すればいくらでも食べられるものだということを、『ヤドリギ』は日々デリックから学んでいる。
ともあれ、そのデリックが着々と調理を進めながら言う。
「『はらわた』暮らしの連中、自分の名前もろくに読み書きできない奴だって多いだろ。そういう連中と比べると全然苦労してなさそうだよなって。片目だから不便は不便だろうけど」
言われて『ヤドリギ』は改めて手元の本に視線を落とす。確かにここに書かれている文字列の中で知らない単語はない。平易な文章や単語で書かれた大衆向けの本ということもあるが、そうでなくとも、新聞や雑誌を前にして困ったことはほとんどなかったと思い至る。
……とはいえ、ありとあらゆる意味で「わけあり」の人間ばかりが暮らしているのが『獣のはらわた』だ。さして取り合うこともなく、ひらひらと左手を振る。
「俺も書く方はさっぱりだ。人に読める字が書けない」
「そういや、『ヤドリギ』が字書いてるとこ見たことなかったな」
「見なくて済むならその方がいい。『呪いの文字』とか言われたぞ、この前」
そんなに下手なら逆に気になるな、とにやにや笑いながら言うデリックを無視して『ヤドリギ』は本に意識を戻す。
「その本、好きなのか?」
「ああ。地上でも流行っているのだろうか」
「流行ってるなんてもんじゃないさ。雑誌に新作が載るとすぐに売り切れ。それだって、手に入れるの苦労したんだからな」
今『ヤドリギ』が手にしているのは『霧の向こうに』と題された本だ。著者はカーム・リーワード。十中八九筆名であろうということは流石に地上の情勢に疎い『ヤドリギ』でもわかる。それが女王国海軍の英雄、最強最速の『霧航士』ゲイル・ウインドワードの名にあやかったものであることも。
筆名から察せられるとおり、この本は戦時中の女王国海軍に属する人々、特に女王国が誇る高機動兵器『
戦後、未だ情報規制や軍の検閲が完全には解かれていない中で、それでもこのリーワード氏はどのような抜け道を使っているのか、大衆向けに多少は誇張はしているのだろうが、極めて正確かつ詳細な軍人たちの描写が特徴的だ。その上、許可を取れた者に限り、という制約はあるらしいが、一部の人物が実名で登場しているというのがまた話題の種であった。
ただ、これが数十年に渡った帝国との戦争の悲惨さや壮絶さを強調するような作品であったなら、ここまで話題には上らなかっただろう、とも思う。
この物語の主題は「そこにいた人の、当たり前の日々」だ。
著者カーム・リーワードは人前に姿を見せることは皆無、あとがきなどの著者としてのコメントも全く記さない正体不明の人物であるわけだが、しかし、一度だけ雑誌の編集者に対してこう話したことがあるという。
『出兵数、撃墜数、死傷者数。いつしか全てが「数」でくくられて、内訳は忘れられていく。本当は、一人、一人、別の人生を歩んできた、それでいて「あなた」と同じ人間だというのに』
故に、リーワード氏は「日常」を描くことを決意したのだという。もちろん軍に生きる者の日常の中には戦いも含まれるわけだが、ほとんどは彼らの……、戦時の緊張の中にありながら、友人と他愛ない遊びに興じたり、時にはくだらないと言われても仕方ない計画を企てて実行したり、と、彼らが「『あなた』と何も変わらないただの青年たち」であったことを示したのだ。
生き生きとした筆致で語られる彼らは、人とはかけ離れた生活を送っている『ヤドリギ』にすら、すぐ側にいる愉快な友人であるかのような錯覚を抱かせるものだった。そのくらい、リーワード氏の筆は巧みなのだ。
――その一方で。その「愉快な友人」が翌日にはもの言わぬ死体となっているさまを見せ付けられたりもするのだが。
リーワード氏は戦場の苛烈さを通してではなく、ありふれた今日を描きながら明日を迎えられない可能性のあった、死と隣り合わせであることを求められてきた「彼ら」のあり方を描く作家なのだろう、と『ヤドリギ』はしみじみと思う。それは『ヤドリギ』にとっては下手な悲劇を並べ立てられるよりもずっと胸を打たれるものであった。
この本に描かれている人物の中に、少なからず「自分に関わった」人間がいると知っているだけに、尚更。
同じくこの本の愛読者であるらしいデリックが、小皿にひとすくい鍋の汁を取って、味見をしながら言う。
「それにしても、
「らしいな。この本の記述が正しければ、第一世代の生存者は二人だが障害が残り、第二世代は唯一の生存者が発狂、ほぼ無傷なのは終戦直前に投入された第三世代くらいだという」
言いながら、少しだけ安堵している自分に気付いて軽く首を横に振る。人の命の重さに優劣をつけるものではない、が、それでも、知った相手に対して思いいれることくらいは許してほしいと願う。
「……そのような残酷な『事実』も含めて。ここに記された彼らや、未だ記されざる名も知らない者たちが『今』を作っているということを再認識させてくれるから、俺はこの本と、著者の姿勢を好ましく思っている」
それに加えて『ヤドリギ』は素直な感想として「まだ、実感は乏しいが」という一言を付け加える。その言葉に、デリックは刻んだ香草を加える箸の手を止めて言う。
「やっぱり地下は地上ほど変化はないんだ?」
「ない、と言えば嘘になるが、それでも変化は緩やかではないだろうか」
終戦を迎えて、『はらわた』に住処を求める者が減ったかというとそうではない。『ヤドリギ』の実感としては「さして数は変わらないが、質は変わった」というのが本当のところだ。
「変化らしい変化といえば、昔から『はらわた』は家を失った者の一時的な宿りとして機能していたが、終戦後から元軍人と思われる者が増えた印象がある」
戦争が終わったとしても、軍本部――時計台がなくなったわけではない。ただ、役目は終わったと告げられた者が多いことは想像に難くない。そう告げられたの者のうち多くが、帰る場所もないような貧しい者たちであろうことも。
「そのような者たちは、どうも古くからここに住む者たちとの衝突が多くてな。俺が仲裁に当たることは今までより多くなった」
「ああ、そりゃ地上でも立派な問題になってるよ。行き場をなくした、でも腕っ節だけは強い連中っつーのはとにかく厄介だからなぁ」
デリックは大げさに天蓋を仰ぐ仕草をする。と言っても、『はらわた』からは地上から見える霧の天蓋は当然見えるはずもなく、うっすらと光を放つ植物に覆われたごつごつとした岩肌しか見えないのだが。
「とはいえ、そのような者たちは移ろうものだ。『はらわた』に長居をするようなことはほとんどない」
「……それ、問題起こした奴は片っ端からお前が『仲裁』という名目で追い出してる、って訳すんだよな?」
「さあ、どうだろうな?」
ことさら否定をしないということは、つまり、そういうことなのだが。
『ヤドリギ』は『はらわた』の住人に多大なる恩がある。故に、彼らが困るような事態になれば手を差し伸べるのが己の役目である、というのが『ヤドリギ』の論理だ。その結果として、問題が起こればしかるべき対処をするのが『ヤドリギ』にとって当然のことであった。
デリックはそんな『ヤドリギ』の態度に「お前さんも案外食わせ物だよな」という評価を下しながら、鞄の中から取り出した椀の中に汁と具を入れる。デリックの大きな鞄には「食べる」のに必要なものは大体揃っていて、なみなみと注がれた独特の香りのスープに、箸を添えて渡してくる。
箸。二本の棒からなる東方では一般的だという食器。使いこなせれば便利だろう、とは思うのだが、まだ『ヤドリギ』には扱いが難しい。それでも、利き手でない左手で箸を持って具を刺したり、椀をなんとか右の蔦で支えながら中身をかき込むという芸当ができるようになっただけ、最初に箸を渡されたときの戸惑いようからは数倍マシになったとは思っている。
「なあ、『ヤドリギ』」
「何だ?」
デリックの呼びかけに答えてから、不器用に椀の中の具を箸で突き刺し、口へと運ぶ。行儀のよい食べ方ではないらしいが、今の『ヤドリギ』にはこれが精一杯であった。奇怪な生物の触手であったはずの具は、確かに独特の歯ごたえでなかなか美味かった。
デリックも自分の分を椀に注ぎながら、言葉を続ける。
「お前さん、元は地上にいたんだろ。地上に未練はないのか?」
なるほど、と『ヤドリギ』は内心で思いながら食を進める。文字を読むのに困らないのもそう。戦中のことを知っているのもそう。全ては『ヤドリギ』が「元は地上にいた」ことを示している。
とはいえ、この質問をしてきたのはデリックが始めてではない。だから『ヤドリギ』も決まりきった解答を返す。
「特にないな」
本当は少しだけ欺瞞なのだが、と『ヤドリギ』は思う。ただ、地上にほとんど未練がないのは本当なのだ。未練になるはずだったものは、ここに来る前に、ことごとく『ヤドリギ』の手から零れ落ちてしまったから。
「地上に出る気もないのか?」
「そうだな。俺のような化物には、このくらいの暗闇がちょうどいい」
これも欺瞞だ。いつかは地上に出なければならない日が来ることを『ヤドリギ』は確信している。その時の自分がどう思うかは今の『ヤドリギ』にはわからないままでいるから、今はこう答えるしかない。それだけの話。
『ヤドリギ』の答えに、デリックは「そっか」とだけ言って、しばし、お互いに椀の中身を啜る音だけが響いた。別に気まずい沈黙というわけではなかった。当たり前の話を当たり前のようにした、ただそれだけの話であり、『ヤドリギ』とデリックの間の食事中の沈黙はいつものことである。
やがて、デリックは『ヤドリギ』の空になった椀を指す。
「もう一杯いるかい?」
「いただけるとありがたい」
言い回しがいちいち古風だよな、と笑いながらデリックは『ヤドリギ』から椀を受け取り、それからふと、思い出したように問いかけてくる。
「それならさ。地上で『好きなことをしていい』って言われたら、どうしたい?」
「なるほど、好きなことをしていいと言われたなら、か」
それは今までに問われたことがなかったと思う。『はらわた』ではできないこと。地上でしかできないこと。それは確かに沢山あるだろう。
ただ、ぱっと思い出したのは、霧に満ちた天蓋だった。
残った左手で、毛布の上に置いたはずの本の表紙を確かめる。戦争は終わって、きっともうその姿を見ることはないのだろうとわかっていても。
伏せた瞼の裏に浮かぶのは、幼い頃の記憶だった。右手でちいさな手を握り締めて、霧眼鏡越しに見上げた青い船。薄青く輝く四枚の翅翼と長い尾を持ち、まさしく「霧を裂く」ように舞い踊っていたその姿――。
霧の向こうに。
タイトルの文字を指先でなぞって、ほんの少しだけ、普段は引き締めている口元を緩める。
「霧の向こうを飛ぶ
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