彼女の挨拶
――九六八年 雪季二節
やられた、と気付いたのは一拍置いてからだった。
慌てて壁の後ろに身を隠し、痛みに堪えきれずずるずるとその場に座り込む。何とか手放さずに済んだランタンを置いて恐る恐る確かめてみれば、右肩のあたりにぬるりとした感触。どうやら蔦が生えている根元部分を「撃たれた」のだと察する。
傷は深くない、と思うのだが、如何せん『ヤドリギ』は痛みに強いわけではない。傷を与えられた瞬間の痛みもさることながら、傷を修復するにも激しい痛みを伴うのだ。ままならない身体に『ヤドリギ』は溜息をつく。人より丈夫であろうとも、それを自分で制御できなければ意味が無い、と常々思っている。ただ思うだけで、この体が自分の思うとおりに働いてくれるわけではないのだが。
――それにしても、不覚だった。
まさか、普段歩きなれた通路を折れた瞬間に撃たれるとは思ってもみなかったのだ。普通ならば、角一つ先くらいの足音なら聞き分けられる。そうでなくとも、曲がった瞬間に武器を構える音を聞き取ったり、相手の姿を見分けることくらいはできた、はずだというのに、それすら許されないままに撃たれて姿を隠す羽目になった。
つまり、相手は最低限、素人ではないということだろう。足音を立てずに近づき、音もなくこちらを狙うだけの武器を手にした、何らかの訓練を積んでいる相手。
嫌だな、と『ヤドリギ』は率直に思う。何せ『ヤドリギ』は見ての通りの化物ではあるが、「人としての能力」はそれこそ一般人に毛が生えた程度だ。もしくは、右側の感覚器官が働かないだけ、人より劣っていると言ってもいい。
その上で、何度かの荒い呼吸を経て、相手も即座にこちらに踏み込んでくる様子がないらしい、ということを察して、ごく原始的な手段を採ることにした。
つまり、
「……っ、驚かせたならすまない。だが、突然撃たれるのは、流石に想定外だった」
音声による意思疎通だ。
これには、流石に気配を殺していた相手も驚いたのか、「えっ」という声が壁越しに聞こえてくる。意外なことに、女性の声だった。
「あんた、喋れるの?」
「人並みにはな」
確かに、人の姿をしているように見えて人ではない化物も『獣のはらわた』にいないわけではない。もしくは、人であっても意思疎通を「する気が無い」者もいる。例えば、『はらわた』を根城にする強盗団であるとか。
が、最低限『ヤドリギ』は人と同じように喋ることができるし、人の言葉を解することができるつもりでいるし、何より、明らかな害意をもって接してくる相手以外に、敵意を持つ理由がない。
「俺にあなたを害する意志はない。証拠を示せと言われると困るが」
『ヤドリギ』が今携えている武器らしい武器といえば、生活の上で必要な刃物くらいか。それを捨てろ、といわれるなら一時的に手放すこともできる。しかし、どうしたって、相手から見て最も脅威に「見える」――そして、おそらく撃たれた原因でもあるのは、右腕の代わりに生えた無数の蔦であろう。これは手放すとかいう問題ではない、『ヤドリギ』の体の一部である。
せめて隠せる程度に剪定しておけばよかったな、と常々の無精を後悔しながら、相手の反応を待つ。
すると、しばしの沈黙の後に声が返ってきた。
「姿を見せて」
「……悪いが、そちらから来てくれないか。すぐには立てない」
血は止まったようだが、傷口が急速に修復されることに伴う激痛は続いている上、傷に反応しているのか、てんでばらばらに蔦が蠢くものだから話にならないし、余計に痛い。正直なところ、声を張るので精一杯といったところだ。
もちろん、向こうが本当に敵意を持っている、といった場合は、それはそれでやりようはある。体が動かなくても『ヤドリギ』に戦う手段が皆無というわけではない。ただ、手負いの獲物を「追わなかった」時点で、相手も積極的な敵意はないのだと思う。『ヤドリギ』の異形に驚いて撃ってしまった、という程度のものだろう。今までに何度か経験はしている。
やがて、やはり足音もないままに、一人の女が『ヤドリギ』の視界に入ってきた。
物好きな探検家、というのは身軽すぎ、けれど『獣のはらわた』に潜るために必要最低限かつ無駄のない服装をしている。それに、何よりも目を引いたのは今は女の額まで上げられている不思議な形の眼鏡だ。『ヤドリギ』も何度か見たことはある。記術仕掛けの暗視眼鏡だ。『ヤドリギ』は発光植物のうっすらとした灯りと植物の感覚で周囲を知覚できるが、普通の人間が『獣のはらわた』をランタン抜きで歩くなら必需品といってもいいだろう。
そして、見慣れない、小型の武器――銃のようだが、『ヤドリギ』が知っているそれよりもはるかに小ぶりなものを、真っ直ぐとこちらの額に向けている。
「手を挙げて、……って言いたかったけど、それを『手』って言っていいのかは如何せん怪しいわね」
「その言葉には俺も同意する。左手だけ挙げておこうか」
「いいわ。見た感じ、ほんとにやる気なさそうだし。っていうか、頭撃ったら死ぬの?」
「流石に死ぬと思うが、試したことがないからわからないな」
「試してみる?」
「死ねなかった時に苦しそうだから遠慮しておく」
もし本当に死ねなかったら死に方を模索しなければならない、と案外本気で『ヤドリギ』は思っている。こんなところで死ぬ気はさらさらないが、「死ねない」というのは下手をすると死ぬよりも辛いということは、ここ数年で嫌というほど学んでいるからだ。
女は今のやり取りで毒気を抜かれたのか、「変な奴」と軽く肩を竦めて手にした銃を降ろした。
ランタンの灯り越しに改めて見てみると、『はらわた』には似合わない、整った顔立ちをした、なかなかの美人だと思う。『ヤドリギ』の美的感覚が狂っていなければ、だが。この体になってから、どうも人間の美醜に鈍くなったような気がしている。否、もしかしたら昔からだったかもしれないし、実際昔からだな、と『ヤドリギ』はそっと息をつく。
一方の女は、じろじろと遠慮ない目つきで『ヤドリギ』を観察しながら言う。
「突然撃ったのは悪かったわ。傷は?」
「すぐ治るから気にしないでくれ。見ての通り、まともな体ではないからな」
相変わらず『ヤドリギ』の意志とは無関係に自由に蠢く蔦を視線で示す。大人しくさせようと思えばできるが、それはそれで疲れるのだ。傷口は、あと一時間もしないうちに完全に塞がるだろう。『ヤドリギ』の体はそういうものだ。
その様子を異様なものを見る目で見つめていた女は、ぽつりと言葉を落とす。
「……あんた、そもそも人間なの?」
「見ての通り、ただの人間とは言いがたいな」
おどけて答えてみせるが、女の問いかけにはそこまで深い意味がなかったのかもしれない。女は「そう」と特に感情の見えない声で答えた後に、『ヤドリギ』を見下ろして言う。
「で、あんたは何でこんなとこうろついてたの?」
「それはこちらの台詞だ。地上の人間が一人で彷徨うような場所ではない」
特に、ここは『ヤドリギ』が知っている中でも特に複雑に入り組んだ迷宮部分だ。『ヤドリギ』ですら何度か遭難しかけたことがあるのだから、こんな場所で『はらわた』の構造を知らない地上の人間と出会うこと自体がおかしいのだ。
すると、女は少しばかりむっとした調子で、綺麗に整えられた眉を寄せて言った。
「案内人を探していたの。『はらわた』の内部に詳しいっていう、案内人。普段いるって言われた場所をいくら探しても見つからないから、こんなよくわかんない場所に迷い込んじゃったのよ」
その言葉には、つい『ヤドリギ』は笑ってしまった。余計に眉を顰める女に対し「すまない」と断ってから付け加える。
「余計な手間をかけさせた。それは俺のことだ」
「はあ?」
「『ヤドリギ』を探せ、といわれたのだろう? 俺が『ヤドリギ』だ」
見ての通り、と左手で右の蔦を示す。本来ヤドリギという名で呼ばれる植物とはいささか趣が異なるが、「植物が何かに寄生している」という意味では変わらない、半人半植物の化物。それが『ヤドリギ』というものだった。
それを聞いた女は「確かに余計な手間だったわ」と口を尖らせつつも、『ヤドリギ』の前に座り込む。そして、改めてしげしげと『ヤドリギ』のフードの下を覗き込んで言う。
「酷い顔ね。それ、火傷?」
「ああ。昔、ちょっとヘマをしてな」
「ちょっとのヘマでそれじゃ、よっぽど間抜けなのね。俄然不安になってきたわ」
「なら、一人で帰っても構わない。帰り道がわかれば、だが」
別段気を害して言っているわけではない。単なる事実を告げただけである。何せ『ヤドリギ』を人とも思わない――事実人ではないのだが――ような相手もいる。そんな手合いに比べれば、あくまで『ヤドリギ』を「ただの間抜けな人」と評価した彼女はいっそ好感にすら値する。
彼女は「んー」と己が来た道を振り返り、大げさに肩を竦めてみせる。
「現実的じゃないわね。帰れないとは言わないけど、ここまで来た時間が無駄になっちゃうし」
「賢明だな。……で、俺に何の用だ?」
話が早いのは『ヤドリギ』としてもありがたいし、きっと彼女にとっても好都合であったことだろう。『ヤドリギ』の顔を覗き込んだまま、にっと笑顔を見せて言った。
「アタシ、
「何のために?」
「何でだと思う?」
当然投げかけるべき問いに、彼女は笑顔もそのままに挑戦的に問いで返してくる。『ヤドリギ』は片方しかない残っていない眉を露骨に顰めて、己の推測を言葉にする。
「その装備や身のこなしからして、あなたは素人には見えない。おそらくは窃盗目的、その際の侵入、逃走経路の確保と言ったところだろう」
「大当たり。ぼーっとしてるようで、案外冴えてるじゃない」
「そういう輩はあなたが初めてではないということだ」
むしろ、九割方の来訪者はそのような邪な目的のために『獣のはらわた』とその案内人たる『ヤドリギ』を利用しようとしてくる。確かに、誰の目にも留まらずに首都のあちこちを徘徊できるとなれば、いくらでも悪用のしようはある。
故に、『ヤドリギ』は案内人としての己に一つのルールを設けている。
「悪いが、犯罪行為には加担しないと決めている」
「それも上層の人たちに聞いたわ。脅したりして無理に案内させれば、どこともわからない場所に連れて行かれる、って話もね」
「そこまで聞いているならおわかりいただけるだろう。上までは送るが、あなたに協力する気はない」
きっぱりと断ったつもりだったのだが、彼女は自信ありげな笑みを崩そうともしない。そこまでわかっていて、一体何故そんな表情をするのだろう、と思っていると、不意に彼女のぽってりとした唇が開かれた。
「あたしの『盗み』が、人助けのためだって言っても?」
「……どういうことだ?」
『ヤドリギ』の中では「盗み」と「人助け」という言葉がどうにも結びつかずに首を傾げてしまう。すると、すかさず女がポケットの中からどうやら新聞の切り抜き記事であるらしい紙片を差し出してきた。正直に言えばこれ以上話に付き合う義理もなかったのだが、つい差し出されたものを手にとってしまった。
紙片に書かれている内容は、さる富豪が、没落し跡継ぎもなくなった男爵家の家財一式を買い上げたというものであった。それ自体は、比較的よくある出来事だ。女王国は精霊たる女王を長とし、その血を濃く残す公爵家をはじめとした、女王の血と爵位、そして己の領土を持つ「貴族」たちと、それ以外の民衆からなる。
ただ、近年になってその形も随分と形骸化してきている。己の領民達を養えなくなる、もしくは跡継ぎを失ってしまう貴族たち、それに反して力をつけつつある資産家たち。本来「女王の血族」という形で一線を引かれていた関係性が、曖昧になりつつある時代であるということは流石の『ヤドリギ』も知っている。現時点での己には全く関係のない話ではあるが。
「で、これが何だというんだ?」
「実は、跡継ぎが失われたって言ってるけど、この貴族の嫡男は生きてるの。でも、その証である紋章をこの富豪に奪われちゃって、その上で家を追い出されて今は首都の貧民街で暮らしてるのよ。かわいそうな話だと思わない?」
「事実だという証拠は?」
「そうね、これでどうかしら。あんたに通じるかはわかんないけど、その自称男爵家の跡継ぎくんから預かったものよ」
紙片と交換で、古びた金属の何かを手渡される。ランタンの灯り越しに、その陰影を確かめて、ついでに材質も目と指で見極められる範囲で確かめた上で、自分なりの見解を言葉にする。
「女王から賜った紋章の一部か。シロツメクサに馬ということは南部領だろうか? 全てを奪われるまえに一部をあらかじめ外して隠し持っていたが、これのみでは流石に家柄の証明としては機能しない、と見ればいいだろうか」
爵位を与えられる際、女王から賜るその家を表す金属製の紋章は、一種のパズルのような仕組みになっており、部分部分を分割できると聞いたことがある。正確な理由は定かではないが、『ヤドリギ』の知る、女王国の古くからの伝統のひとつである。
「……あんた、そんななりで案外博学なのね」
「お褒めにあずかり光栄だ」
本気でそう思っているわけではないが。何せ『ヤドリギ』にとっては一般教養の範囲だ。「一般的な」教養であるかは知ったことではないが。
「ちなみに完成形はこんな感じらしいわ」
彼女は『ヤドリギ』の前に一枚の写真をかざしてみせる。『ヤドリギ』は手にしていた紋章の一部をそのまま左手で弄びつつ、写真に目をやる。
シロツメクサと馬に取り巻かれた、交差した剣と中心の盾。その下に提げられたおおきな宝石は
「で、あたしは、この紋章の『奪還』を、元の持ち主から依頼されたってわけ。これ以外の何もかもをわるーい金持ちに奪われちゃった、自称男爵家の跡継ぎくんからね」
「……なるほど。まあ、『人助け』として筋は通っているな」
「あたしの狙いはあくまでこの紋章だけ。他のものは何一つ盗まないって約束するわ。だから、あたしじゃなくて、その子を助けると思って協力してくれない?」
彼女の手に紋章の一部を返しながら『ヤドリギ』は思案する。どれだけ人助けという名目があっても、犯罪は犯罪だ。ただ、彼女の言葉が真実であるならば、確かに何らかの手を差し伸べたいとは思ってしまう程度にはお人よしでもある。
故に、ゆらりと右腕の蔦を揺らす。喋っている間に随分右腕の傷はよくなったようだ、痛みも随分和らいでいる。まだ多少引きつるような痛みは残っているが、動けないほどの激痛でもない。壁に蔦を這わせて、体を支えながら立ち上がる。
「事情が事情だということはわかった。……今回限りは、協力しよう。当然ながら、俺ができるのは道案内までだが」
「十分よ。あんたが話のわかる奴でよかったわ」
おそらくは『ヤドリギ』に見せるためだけに持ってきたのだろうそれらの「資料」を再びポケットに収め――つまり「説得に必要」であろうということをあらかじめ把握していたに違いない――、彼女はにんまりとする。その笑顔に、何とはなしに嵌められたような感覚になりつつも、現時点までの彼女の言葉には嘘はなさそうだと判断した己の感覚を信じることにする。
「それと。地上の人間の案内に対しては案内の報酬を貰うことに決めている」
地上の、とあえて言い添えているのは、例えば『はらわた』に暮らさざるを得ない家なしたちの子供が間違って――冒険ごっこを銘打っている場合もあるが、とにかく『はらわた』の奥に迷い込んでしまっただとか、そういう事例に対してあえて報酬を求める理由が『ヤドリギ』にはないからだ。あくまで『ヤドリギ』が報酬を求めるのは、外部から『はらわた』を「利用」しようとする者に対しての、『ヤドリギ』なりの判断材料という側面が大きい。
「事後で構わない。結果の報告も含めての『報酬』だと俺は思っている」
「それって、流石にお人よしが過ぎるんじゃない? 案内した奴にそのままトンズラされたことないの?」
「一、二度はあるな。俺の見る目がなかったということだろうし、以来、その者に教えた出入り口は二度と使えない状態になっている。心無い者に使われるのは『はらわた』の住人にとってよいことではない」
そう、『ヤドリギ』は『はらわた』の出入り口や、通路を閉ざすことができる。『はらわた』で暮らす人々には悪いが、これは彼らを守るためでもあると思っている。『はらわた』の内部構造は、できれば知られない方がよい。それが『ヤドリギ』の基本的な考え方だ。
彼女もその辺りはわかってくれたと見えて、小さく頷いて言う。
「それで、実際に何を持ってくればいいの?」
「最新一週間分の新聞。新聞社は問わないが、思想の偏りが少ないものが好ましい」
「……は?」
「もしくはいくらかの缶詰か、ああ、小型の固形燃料もいいな。ただ、一番嬉しいのは新聞だ」
彼女が初めて、ぽかんとした顔をする。とはいえ、そういう表情も見慣れている。この条件を出すと、必ず皆そういう顔をするのだ。
「金なんて、『はらわた』では役に立たない。外で起こっていることを知るには、新聞を読むのが一番だ。缶詰は備蓄が利くが、新聞だけはどうにもならない。情勢は日々変わるもの、最大のナマモノだ」
そう言った途端、彼女がきゃらきゃらと笑い出した。そんなにおかしいことを言っただろうか、とつい唇を尖らせるが、彼女は笑いながら言った。
「相当な物好きね」
「よく言われる。放っといてくれ」
こんなみすぼらしい化物が、蔦を操って新聞を読んでる姿はどう考えたって滑稽だろうが、『ヤドリギ』にとって、外の情勢を知っておくのは、「今」を知るため、それ以上にこれからの自分のために必要不可欠な手続きなのだ。
ともあれ、彼女はそれ以上のことは問おうとはせず、立ち上がった『ヤドリギ』ににっこりと笑いかけてみせる。
「条件は了解したわ。それじゃ、案内をお願いしてもいいかしら、ミスター?」
「『ミスター』はやめてくれ。ただの『ヤドリギ』でいい。背筋が痒くなる」
きっと、彼女もその手の返答を期待していたのであろう。また、おかしそうにきゃらきゃら笑うものだから、『ヤドリギ』はむっとしながらもフードを下げて表情を隠すことしかできなかった。
かくして数日の後。再び『ヤドリギ』は彼女と向き合っていた。
上層近くの『ヤドリギ』のねぐらの一つ。焚き火を挟んで向かい合う彼女はにやにやと笑っており、対する『ヤドリギ』は――自分の顔を自分で見ることはできないとはいえ、フード越しでもわかる程度の仏頂面をしているだろうという自覚があった。
「……で。『人助け』じゃなかったのか?」
『ヤドリギ』がとんとん、と左指で叩いて見せるのは、新聞のとある記事だ。彼女に頼んだとおりの、最新の一週間分の新聞のうち、数日前のもの。その上、彼女なりの親切なのかなんなのか、地上の屋台で買ってきたらしいフィッシュアンドチップスを蔦に持たせて咀嚼しながらなので、仏頂面にも説得力が少々足りないのだが。
彼女はいたってしれっとした調子で、『ヤドリギ』の問いに答える。
「人助けはしたわよ? あの子にとって重要だったのは身元を保証する紋章の方。だから、宝石の方は報酬としてあたしがいただいた、ってだけ」
新聞に書かれていた内容は、さる富豪の家に『怪盗カトレア』なる泥棒が現れ、富豪の持つ「宝」を奪って逃亡したということ。何故泥棒の名前がわかったのかといえば、その名前が書かれた一枚のカードが、犯行現場に残されていたからだという。なお、この『怪盗カトレア』による窃盗は一度目ではなく、今までも何人もの富豪や貴族の家から、高価な宝石ばかりが盗まれているのだという。
また、『怪盗カトレア』の出没とほぼ同時に、亡くなっていたと思われていた男爵家の嫡男が、その身柄の証拠となる紋章を持って現れたということが、すぐ横に書かれていた。そして、男爵家の家財を買い取った――同時に『怪盗カトレア』の被害にあった張本人でもある富豪が、彼が幼いことをいいことに、あらゆる手を使って彼から家柄を示す証拠を奪って放逐していたということが発覚し、現在警察で取調べを受けている、という旨が報じられていた。
そこまでは、まあ、『ヤドリギ』も特に言うことはない。目の前の彼女が、近頃界隈を騒がせている宝石専門の泥棒『怪盗カトレア』であるという事実には軽く驚きを覚えたが、その程度だ。
問題は、新聞が載せている、証拠品となった紋章は、確かに以前彼女が見せてくれた写真と「ほとんど」一致していたが……、紋章に付随していたはずの大きな橄欖石が丸ごと消えていたのだ。
――嵌められた、と言うべきなのだろうか。確かに窃盗とはいえ、彼女の行動は結果として人助けなわけで、おそらくかの男爵子息も橄欖石が失われたことを気にしているわけでもないのだろう。もしくは彼女と最初からそういう取引をしていたのかもしれない。
だからと言って、それで本当によかったのだろうか、と悶々とする『ヤドリギ』をよそに、彼女は大きく伸びをしながら言った。
「いやー、いい仕事をしたわ。で、次の仕事なんだけど」
「おい」
「実は今度『ハー・マジェスティ・シアター』で『虹の雫』っていう公演があるんだけど」
「おいこら」
「これがまた、世にも珍しい虹色に輝く宝石『虹の雫』を舞台上で披露するらしくて、これはもう狙わないと嘘でしょって」
「少しは俺の話を聞いてくれないか? 俺はこれ以上あなたの窃盗に協力する気は……」
「あら、先払いの報酬を受け取っといて、それは無いんじゃない?」
ぴたり、と。『ヤドリギ』の手……、もとい蔦の動きが止まる。何も言わずに渡された、フィッシュアンドチップス。半分以上腹の中に収まってしまったフィッシュアンドチップス。もちろん、先払いを受け付けた覚えはないし、いくらでも言い訳は思いついた、のだが、完全に「してやられた」以上は言い訳をする方が格好悪い。そういうことだ。
「あんたに罪を着せる気はないし、あたしの『盗み』なんて、かわいらしいものじゃない。誰かを傷つけるわけじゃない。ちょーっとだけ困る金持ちがいるだけで、むしろ喜ぶ人の方が多いんだから」
彼女は歯を見せて笑う。全く悪びれる様子もなく。
すっかり丸め込まれた形になってしまった『ヤドリギ』は伸びきった髭の下で唇を尖らせつつも、彼女が持ち込んできた新聞に視線を落とす。
まあ――、確かに、彼女の言わんとしていることも、わからないでもないのだ。
長きに渡った戦争の終わりは喜ぶべきものであった。しかし、実際に残されたものといえば、疲弊した国と疲弊した民であった。そのくらいは地下の住人である『ヤドリギ』も理解している。復興の一方で、「戦争」という大義名分が失われてしまい、人の心がどこに向けられるべきなのかもわからなくなってしまった、混迷の時代ともいえる。
だからこそ、『怪盗カトレア』のような、誰もが共有できる「物語」が必要とされるのだ。彼女のしていることは確かに犯罪ではあるが、同時に大多数の人間にとっては「痛快な活劇」に他ならない。今回だって、彼女の犯罪は結果的にもっと大きな犯罪を明らかにして、一人の少年を救っているのだ。「痛快な活劇」以外の何者でもない。
だから、『ヤドリギ』は、彼女の活躍を報じる新聞を改めて指先で確かめながら、問いかけるのだ。
「参考までに、一つ聞いていいだろうか」
「何かしら?」
「何故、あなたはこのような犯罪行為を行おうなどと思い立った?」
彼女の犯罪は、彼女自身にとっても極めて危険なものだ。何せ、狙いは高価な宝石ばかり、つまりは相当の警備が敷かれていておかしくないものばかりだ。そんな危険を冒してまで、わざわざ宝石を狙う理由。それが『ヤドリギ』にはわからなかった。
けれど。
「アタシね、宝石が大好きなの」
彼女は、あくまで真っ直ぐにそう言い切ったのだ。
「花も好きだけど、何よりも宝石がいいのよ。変わらないもの。永遠の輝きを持つもの。美しさが失わないもの。それで、ある時ふと思ったの。なーんでこの世の宝石は全部アタシのものじゃないんだろう、ってね」
もちろん、それが理由の全てじゃないけどね、と彼女は言いつつも、どこか……、今までの挑戦的な態度とは違い、少女のような無邪気さで言い放ってみせたものだった。
「だから、アタシは『挑戦』するのよ。この世の宝石を全部アタシのものにしてやるってね。そしたら、宝石も、それに、アタシの名前だって、きっと永遠に輝く『アタシのもの』になるじゃない?」
なるほど、と『ヤドリギ』は思う。彼女のそれは、とことん「我欲」と言ってしまえばそれまでだ。ただ……、悪意ではないのだということだけは彼女の声音からはっきりと伝わってきた。世の中の、もしくは特定の誰かに対する「当てつけ」はあるのかもしれないが、しかし、それ以上に、無邪気ともいえる欲望が彼女を駆り立てているのだと思うと、不思議と、悪い気分にはならなかった。
だから、『ヤドリギ』は残っていたフィッシュアンドチップスを丁寧に腹の中に収めて、それから口を開いた。
「成功報酬は多めに貰うが、構わないな?」
「オーケイ。交渉成立ってことで」
多め、と言ったところで、目の前の彼女にとってははした金に過ぎないのは『ヤドリギ』も承知している。『ヤドリギ』が欲しいのは基本的には情報であり、物品ではない。強いて言えば先ほどのような食糧や衣服はいつでも歓迎するが、それでも「生活に必要なもの」以上を欲することはあり得ない。『はらわた』の奥底を点々と移動して暮らしている以上、ものを増やすことに意味はない。
それでも言わずにはいられなかったのは、すっかり彼女に乗せられる形になったのが、単純に悔しかっただけだ。
「じゃ、改めてこれからもよろしく、『ヤドリギ』」
これからも、ということは、以降も彼女に付き合わされることになることは間違いなさそうだった。
ただ、そこまで不愉快な気分でもなかったから、これが「妥協」というものなのだろうと自分に言い聞かせ、『ヤドリギ』は小さな溜息と共に、口の端を歪めるのであった。
「ああ、せいぜいよろしく、怪盗さん」
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