第37話 現実と幻想の狭間で 序
日野先生の病室に入ると、先生はベットの上に座り、外を眺めていた。
薄いブラウンを丁寧にカラーリングされたセミロングの髪が、太陽に照らされている。サイドテーブルには果物と、入院中はやはり暇なのか、一冊の文庫本が置いてあった。
日野先生はじっと空を見つめている。そんな先生の姿は何故かどこか懐かしさを感じさせた。昔、本当に昔から知っていたような感覚。以前は感じなかった日野先生に対する不思議な感覚だ。
「先生」
日野先生はこちらに振り向くと「皆さん……」と小さく声を出した。
「怪我の具合はどうですか?」
雪乃は控えめに気遣うように言った。
「幸い、傷口も浅く、問題ありません、皆さんも怪我がなくてよかったです」
そういうと日野先生は笑顔を作った。日野先生の笑顔は以前のような笑顔とは違う笑顔のように感じた。以前はたまに仮面のように感じたが、今はそれが消えていた。自然になったというか、そして何故だろうか、どこか懐かしい……。今まではそんな感覚はなかったが、何故か今は心の奥が覚えているような、以前から知っているような、そんな感覚だった。
「先生、あの時は助けてくれて、本当にありがとうございます」
雪乃は日野先生に向かって頭を下げた。
「雪乃さん、そのことはもういいですから、わたしは雪乃さんを助けたかった。それだけです」
日野先生はそう言いながら、にこやかな表情を作った。
「でも、先生、傷が残ってしまって」
雪乃の言葉を聞くと、日野先生は視線を窓の外へと移した。そして自分の脇腹に手を当てた。
「これは生徒を守れたという、わたしにとって勲章みたいなものです。決して後悔の傷にはなりません。今後の教師生活で挫けそうになったとき、この傷を見て今日のことを思い出して頑張れると思います。ですから雪乃さんは気に病まないでください」
先生は去年生徒を亡くして、何もしてあげられなかったと今まで苦しんできた。生徒は先生に助けを求めていた。その生徒を気づいてあげることができなかったとずっと後悔していた。その想いは完全には消えないと思う。いや、日野先生は消してはいけないと感じているのだと思う。それを一生背負って生きていくことになってしまっている。だけどせめて、今回の件でそんな先生が少しでも、救われれば。
「先生、まだまだ頑張ってよ! あたし達、先生のこと大好きだし! ね、
「え! うん、先生、困ったことがあったら僕たちも力になるからさ……」
日野先生が何か変わった気がするのは僕だけだろうか、
「春人? どうしたの?」
楓が声をかけてきた。
「い、いや、なんでもない」
自分でも何なのかよく分からないので説明のしようがない。変なことを言うとさっきの雪乃母の時のように、惚れた? などと言われかねない。惚れたとかいった感覚ではないと思う。懐かしい、ただその一言。不思議な感覚だ。
「入院期間もそんなに長くないですから、縫った傷口が落ち着けばすぐ退院できます。みなさんは夏休み前の試験があるのでちゃんと頑張ってくださいね」
日野先生は、にまっと笑顔をつくって見せた。
「そうだ。忘れてた」
僕は基本的には家では勉強はしない。だけど、試験は別だ。気になっていた雪乃の件が落ち着いたので勉強に集中できるはずだ。
「まあ、
日野先生は雪乃に視線を移した。内申点で操作ってなんだ。
「いや、あの……私は……うっ……」
日野先生の視線を受けた雪乃は小さなうめき声をあげ、そして「今回は、大丈夫……」と言った。
「ふふふ、では頑張ってくださいね。私はあくまでも教師です。みなさんの成績や将来のことを第一に考えますからね」
先生は先生なりに気を使ったのだろうか、雪乃の家庭環境は先日の事件から変わった。雪乃の今回は大丈夫という言葉も、そのことが含まれていると思う。雪乃の今までの成績は僕は知らないけど……。
「結衣がバイトがない日とか、土日のバイトじゃない時間、一緒に勉強しようか? 今回の範囲ならあたしはもう勉強終わってるから、教えられるし」
楓がそんなことを言った。さすがは学年トップと言いたいところだが、もはや楓は学年トップとかそんな問題ではなく、それらの領域を超えているのではないだろうか……。
「ほんと? 教えてくれるなら助かるわ」
雪乃の言葉に楓は表情を少し変えた。その表情は優し気な表情をしていた。
「今まで、こういうこともできなかったからさ、親友を名乗っているのに、こんなこともやったことないなんて親友が聞いて呆れちゃわ、でもさ、これから色々一緒にやっていこうよ」
楓は雪乃の左手に両手をそえて言った。
そしてそれに答えるように雪乃は「うん」と答えた。
「雪乃、コーヒー牛乳ってあまってるかな?」
なんだか二人を見ていたら、コーヒー牛乳をもう一回飲みたくなった。
「あるけど、ちょっと待ってね。先生にも飲んでもらいたくて多めに持ってきてるの」
雪乃は持ってきたバックを開け、中を探り始めた。
「コーヒー牛乳ですか?」
「はい、私も弟も好きなので、さっきつくったんです。先生は甘いのは好きですか?」
「先生はどちらかというと、控えめのほうが好きですね」
「では、砂糖を控え目にしておきますね」
日野先生の大人アピールに雪乃は合わせて、コーヒー牛乳を作り始めた。「甘さ控えめで」この言葉は大人への第一歩だ。
「雪乃……僕も砂糖、控えめで」
「え? 柏木君、甘いの苦手だったかな……」
雪乃が心配そうに僕を見てきた。さっき飲んだのはとても甘かった。そして美味しかった。僕は控えめと言ったが、甘いほうが好きだ。日野先生に感化されて言っただけだった。
「やっぱり、砂糖多めで……」
「どっちだよ!」
楓のいつものつっこみが入った。
そして「あたしももらおうかな、足りるかな?」と、楓も飲みたくなったのか雪乃に尋ねた。
「うん、大丈夫、楓は砂糖はどうする?」
先ほどの僕の一言が雪乃を惑わせたのか、楓に確認をした。
「いっぱい入れて!」
「わかったわ」
楓の言葉に安心したのか、ほっと一息漏らし、コーヒー牛乳を作り始めた。
まだ冷めていない温かい牛乳を紙コップに入れ、そこにインスタントのコーヒーをスプーン一杯、そして、砂糖をいれた。日野先生のは控え目、僕と楓はたくさん。
コーヒー牛乳を受け取った僕たちは一口飲んだ。
「コーヒー牛乳、おいしいですね」
日野先生の顔がほころんだ。
「小さい頃に親と行った銭湯を思い出します」
日野先生がそんなことを言った。
雪乃にしろ、日野先生にしろ、コーヒー牛乳で親との思い出があるようだ。コーヒー牛乳の魔力だろうか……。しかし、どうしても僕には引っかかることがある。
銭湯は特に珍しくない。だけど僕の頭には昔の歌、昭和時代の歌が流れた。
その歌は神田川の近くにある銭湯に、若くて何も怖くない恋人がいつも通っていた。恋人たちは赤い手ぬぐいをマフラーにしているが、銭湯の帰りに二人で待ち合わせ、身体が冷えてしまうのだ。
先生は実は昭和なのだろうか。
「先生って……昭和生まれですか?」
「急に何を言い出すんだ! はるとーーー!!!」
「柏木君、あなたの内申点、全部雪乃さんにつけますね」
「す、すみません」
僕の腰は直角に折れ曲がったが、致命的なダメージは避けられた。でも内申点を雪乃に全部つけるってなんだよ。
「是非お願いします」
雪乃がつぶやいた。本当にやめてほしい。
僕たちはそんな他愛もない話をしていると、帰る時間が来たので、雪乃母と雪乃弟がいる病室へ戻ることにした。
「柏木君、ちょっといいですか?」
僕が病室から出ようとすると、僕だけ引き留められた。もしかして内申点のことだろうか……やめてほしい。
「な、なんですか?」
僕は病室の中に戻り先生に尋ねた。
「柏木君の『力』が弱まっています。今後は何があっても決して使わないようにしてください」
日野先生は僕とは違う『力』を持っている。それは僕の『力』の存在を感知することができる能力だ。それを受信型と言っているが、受信型がなぜ存在するのかは分からない。
「分かってます。僕だって、死にたくありませんから」
僕は、自分があと何回『力』を使うと死んでしまうのか知っている。
「柏木君、それと……」
日野先生は、僕の顔を見ながら真剣な顔をした。
「いえ、なんでもありません」
日野先生は、どこか遠くを見るような顔で僕の顔を見ている。いや、僕ではない何か? わからない。日野先生の視線は確かに僕を見ている、だけど何だか、僕を見ているようで見ていない、何だかそんな感じがした。
病室を出て、先ほどの病室へと行った。雪乃母の退院の準備ができていたので、その日は僕たちも帰ることになった。
そして一週間が過ぎ、次の土曜日、僕は雪乃と二人で隣町のショッピングモールに来ていた。
これはデート?
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