最終章 メメント・モリ

第36話 雪乃母に惚れた?

 放課後、病院へ日野先生と啓介けいすけ君のお見舞いに行こうと、雪乃ゆきの、そしてかえでと現地で待ち合わせた。


 僕は啓介君に本を貸すと約束していたので、本を取りに一度家に帰った。


「芥川龍之介と川端康成だったかな……あれ?」


 部屋の本棚を見つめながら、どれがいいか選んでいると、ふと、あることが頭をよぎる。


 この二人が好きってことは、いくつか読んだことあるってことだよな……。


 どの作品を読んだことあるかぐらい聞けばよかった。と思いながら、仕方ないのでいくつか持っていくことにした。


 リビングに入り冷蔵庫の中のお茶を一杯飲むと、今朝、父さんと話したことを思い出した。


「そろそろ、母さんの命日だな」


 父さんは今朝、その言葉だけを残して仕事に向かった。


「命日か……」


 僕は母さんの写真の前でつぶやいた。


 正直、母さんの命日の日は嫌いだ。父さんと夏樹なつきがあの日のことを話すからだ。でも今年こそ……。


 先日、雪乃は自らを縛る呪縛に決着をつけた。僕も今年ははっきり伝えよう。母さんだって、こんな父さんと夏樹を見たら悲しむに決まっている。そんな思いはさせない。


 母さんの写真に手を合わせて、僕は日野先生と啓介君が入院している病院へと向かった。


 病院へ着くと、待ち合わせ場所にはすでに雪乃と楓がいた。


 二人とも制服のままで、雪乃はバッグを肩に下げていた。僕も制服のまま来たからちょうどよかった。


「遅いよ」


 楓が僕に向かって言った。


「ごめん、啓介君に貸す本を選んでたんだ」


「結構持ってきたのね」


 僕が持っている紙袋を眺めながら楓が言った。


「好きだって言うことは、いくつか読んだことがあるんだって思って、それを考えていたらどれを持っていこうか決まらなくなって……もう選んでもらおうかなってさ」


「啓介が喜ぶわ、ありがとう」


 雪乃の表情がとても優しく感じた。


「え、あ、うん……」


 昼休みから、雪乃の表情がとても柔らかくなった。そしてあの時見せた笑顔が、なんとなく心をざわつかせた。


「じゃあ、病室へ行きましょう。最初は啓介たちの部屋かな」


「うん……」


「春人、どうしたの?」


「いや、何でもない」


 何でもないと思う、あの昼休み、心の準備なしに笑顔を見せられて、動揺しただけだと思う。


 僕たちは雪乃を先頭に病室へ向かった。


「啓介の病室はお母さんと一緒の部屋にしてもらったの、ちょうど空いていたみたいで」


「話をした時、お母さんどうだった?」


 楓が雪乃に尋ねた。


「ショックを受けていたわ、私と啓介、謝られちゃった」


「そっか……」


 それを聞いた楓は複雑な表情をしていた。雪乃の母が選んだ人が、自分の子供を傷つけることになった。それは耐え難いものだったのかもしれない。楓もそんなふうに思ったのかもしれない。


「もう、楓がそんな顔しないでよ、もうすぐ病室につくからさ」


「うん、ごめん」


 そういうと楓はいつもの表情に戻った。


 さらに歩くと雪乃は「ここよ」と言って立ち止まった。


 雪乃に続いて病室へ入ると、窓際のベットに啓介君が上体を起こした格好で現代文の教科書を読んでいた。


「こんにちは」


 雪乃が他の人に挨拶をして入ると、僕たちも挨拶をして雪乃に続いた。


 啓介君がこちらに気づいて「みんな、来てくれたんですね」と言った。


柏木かしわぎ君が本を持ってきてくれたわよ」


「本当?」


 雪乃弟は嬉しそうに言った。


「何を持ってくればいいか、わからなかったから、適当に持ってきちゃった。好きなの選んでよ」


「ありがとうございます」


 僕は持ってきた紙袋から本を取り出し、ベットの上に並べた。啓介君はそれを一冊ずつ手に取り、これがいいかなと選び始めた。


「春人、あたしにも何か貸してよ」


 本を眺めていた楓が自分も読みたくなったのか、手に取り始めた。


「いいけど、啓介君が先だよ?」


「わかってるわよ、ってこれ、教科書に載ってるやつじゃない?」


 楓は一冊の本を持って言った。


「そうだよ、教科書には途中までしか載ってないから買っちゃったよ」


「本当に相変わらずね」


 楓は少し呆れた顔をした。


「続きが気になったんだから仕方ないじゃないか」


 僕と楓がそんなやり取りをしていると、雪乃は周りを見ながら言った。


「啓介、お母さんは?」


「さっき、退院の手続きをしてくるって出て行ったよ」


「そう、じゃあ、お母さんがいないけど、作っちゃおうか」


「姉ちゃん、持ってきてくれたんだ」


「うん」


 雪乃はバッグから大きめの水筒と、紙コップを出した。


「何持ってきたの?」


 楓が雪乃に聞いた。


「秘密、あとこれかな」


 雪乃はバッグからインスタントのコーヒーを取り出した。


「コーヒー?」楓がそれを見て言葉を漏らす。


「んー、ちょっと違うかな」


 雪乃は紙コップに水筒の中身を注いだ。紙コップからは湯気が立ち上っていた。温められた牛乳だった。


「カフェオレ?」僕は言った。


「カフェオレっていう人の方が多いかなでも」


 雪乃が四人分の紙コップに温かい牛乳を注ぎながら言った。


「俺たちにとっては、コーヒー牛乳かな」


 雪乃弟が続けて言った。


「前に、柏木君がカフェオレとコーヒー牛乳って何が違うのって楓に聞いたじゃない」


「うん」


 先日のボランティアで楓に聞いた気がする。そして最近、自動販売機にカフェオレとコーヒー牛乳が並んでいるのをよく見かける。そのたびにこの二つは何が違うのだろうかと思っていた。


「詳しい違いは分からないけど、私と啓介にとっては、カフェオレじゃなくて、コーヒー牛乳かな」


 雪乃は何かを懐かしむ表情で言った。雪乃は笑顔だけじゃなく、本当に色々な表情をするようになったと思う。僕が気づかなかっただけなのかも知れないけど。


 コーヒー牛乳をつくり終わると、雪乃はコーヒー牛乳が入った紙コップを僕たちに手渡してくれた。コーヒー牛乳が入った紙コップはほんのり温かかった。


「じゃあ、いただきます」


 僕はコーヒー牛乳を一口飲んだ。


 コーヒー牛乳はとても甘く、そして少しだけほろ苦かった。


「甘くておいしい」


 楓は笑顔で言った。


 雪乃は一口飲んで言う。


「このコーヒー牛乳はお父さんが、私たちが風邪ひいたときに作ってくれたの、とても甘くて美味しい。二人には飲んでもらいたかった。柏木君はどうかな? 少し甘かった?」


 雪乃は心配そうに僕の顔を見た。


「いや、甘くておいしいよ、そして優しい味がする」


「よかった」


 そう言って雪乃が笑った。


「結衣! 今の顔!」


 楓が雪乃の顔を見ながら声をあげた。


「え?」


「なんだか、久しぶりに見た」


「そ、そうかな」


 雪乃は照れくさそうな表情で自分が持っている紙コップを眺め、そして一口飲んだ。


「おいしい……」


 雪乃は満足気につぶやいた。


 僕たちがしばらく、コーヒー牛乳を飲みながら話をしていると、一人の女性が病室に入ってきた。


 雪乃がその女性に向かって声をかけた。


「お母さん」


「結衣、来てたのね」


 この女性が雪乃の母親……雪乃と、その弟の啓介君にそっくりで、さすが親子! というより姉妹とか姉弟とか……と言うほどそっくりで若く見える美人な母親だ。


「結衣のお母さん、結衣と啓介君にそっくりで美人でしょ?」


「うん……」


「春人? もしかして、お母さんに惚れた?」


「うん……」


「じょ、冗談のつもりだったのに! 本当に!?」


「え!? いや、違う違う! あまりにも似てたから驚いちゃって」


 楓と話していると雪乃母はこちらに視線を向けた。


「もしかして楓ちゃん? 久しぶりね」


「お、お久しぶりです」


 楓は軽くお辞儀をした。


「ずいぶん大きくなったわね、結衣に少し分けてほしいくらいだわ」


「あ、あははは」


 楓は雪乃母の突然の不意打ちに苦笑いを浮かべた。


「そして、あなたが柏木君ね」


「は、はい」


 なんだろうか、雪乃母の声の調子が少し変わった気がした。


「柏木君って、もしかして……」


「え?」


 雪乃母は何かを考えるように、僕の顔を見ながらつぶやいた。


「いえ、なんでもないわ、柏木君と楓ちゃんには迷惑かけてしまって、それから担任の先生にも……今度うちに遊びに来てね、ここではなんだから、その時に二人にお礼させてね」


「そうだよ、いつでも来てください」


 雪乃母に続き、啓介君もそんなことを言ってくれた。


「じゃあ、今度お邪魔しちゃおうかな、ね! 春人」


「うん、そうだな、そのときまた違う本を持っていくよ」


「楽しみにしています!」


 雪乃たちは、これからも大変だと思う、だけどどんな大変なことも、この三人なら乗り越えてしまうんだろうと感じさせるほどの明るさと、切っても切れないような絆の強さを感じた。


「結衣、先生にも会うんでしょ? あと準備しておくから行ってきなさい」


「うん、わかった、じゃあ、楓、柏木君、日野先生のところに行こうか」


「そうね」


「本、ゆっくり選んでて」


「ありがとうございます」


 そう言って僕たちは日野先生の病室に向かった。


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