第35話 銀雪

 月曜日の昼休みの屋上で僕は本を読んでいた。今日は先日と違って集中できている。昼休みを有効に使えるというのは僕にとってもありがたい。


かえで柏木かしわぎ君いたわ」雪乃ゆきのが屋上の入口から顔を出した。


「う、うん」楓の声も密かに聞こえた。


 二人は僕の目の前まで来ると立ち止まった。


春人はると……」


 二人の表情はとても深刻そうで、とくに楓は今にも身を投げそう……というのは大げさかもしれないが、楓の表情は鬼気迫るものがあった。


「え、えっと、なんだろ?」僕は尋ねる。


「春人! ごめん!」


 楓はそういうと、地面に膝と両手を着いた。


「え! な、なに?」


「柏木君、私も謝るわ、ごめんなさい」


 雪乃も同じく、地面に膝と両手を着く。


「ゆ、雪乃まで! どうしたの?」


「あたしはあの時、春人に助けを求めて『力』を使わせてしまった」


 楓は地面に額を近づけたまま言った。


「私も、私の家族のことなのに、『力』を使わせてしまって」


 雪乃も楓と同じ格好で言った。雪乃に関してはお礼と言って、あの夜……。やっぱりあれは夢だったのだろうか……。


「二人とも、まずはそんな恰好やめてよ、それに『力』に関しては僕が使うって判断したから使ったんだし――」


「春人、違うのよ、あたしは……」


 楓はそういいかけると、口をつぐんだ。そして深く呼吸をして、言葉を続けた。


「あたしは、春人なら何とかしてくれるんじゃないかって思ったの……」


 そして楓は言葉をふり絞るように「ごめん……ごめん……」とつなげた。


「楓、それって……」僕は尋ねる。


「あたしは、もう自分ではどうにも出来なくて、春人を巻き込めばどうにかなるって」


「楓、それってつまり……」


「たぶん、春人が思っていることで合ってる」


「……そっかあ」


 つまりはそういうことなんだろうけど、楓は雪乃のために悩んで出した結果なはずで、もちろん楓もその判断をすることは苦しかったと思う。単純に天秤にかけたとか、そんな問題じゃない。僕と楓は、母さんが『力』を使って死んでしまった時に、二人で約束した。絶対に『力』を使わないと。それを破るようなことをさせるってことは相当な決意があったはずで。


「柏木君、楓を責めないでほしい、もともとは私の家族の問題で、私がどうにも出来なくなったから、こんなことになった。だから私の責任なの」


 雪乃も僕たちを巻き込んでしまったことを後悔しているんだと思う。叶うかどうかわからない希望を信じてずっと……。


「二人とも、もうその恰好はやめてよ」


「で、でも……」楓が言葉を返す。


「僕は『力』を使ったけど、後悔はしてないんだ。きっとさ、天国の母さんもよくやったって褒めてくれるよ」


「そう……かな……」楓は不安そうに言った。少しだけ声が震えていた。


「まあ、正直言うとわからないけど、でも僕はあの時使わなかったら、僕が後悔していたと思う、僕は『力』のことで後悔したくないんだ。だから僕が使うと判断したから使った。それでいいじゃないか」


 後悔はしていないし、雪乃、そして楓を助けたかったのは本心だ。僕は僕の判断で『力』を使った。それは間違いない。


「春人……ありがとう……」楓は、半分泣きながら言った。


 泣かれると、どうしたらいいかわからなくなるから困るんだけど……。


 楓は、立ち上がり、そして右手で軽く目をこすった。


「春人、困ったことがあったらなんでも言って! なんでもするからさ!」


 楓はいつもの元気を取り戻したかのように僕に言った。


「うん、私もできることだったら何でもする、柏木君には感謝してる」


 雪乃も楓に続いて立ち上がり僕に言った。


「春人! 少しくらいエッチなことだって聞いてあげるわよ! ね! 結衣!」


 楓は顔を赤くして高めのテンションで雪乃に同意を求めた。


「わ、わた、私はわた、わわわわわ、くぁwせdrftgyふじこlp」


 このことは二人で話してなかったのか、雪乃は突然の楓の言葉に意味不明なことを口にした。本当になんて言った?


「雪乃、無理しないで! 楓もそれはいいから!」


 そんなお願いをしたらしたで問題になりそうで怖い。


「え? そ、そう? でも本当になんでもいいからさ、言ってよね」


「わた、綿、私は……」


 雪乃はまだ動揺している。


「結衣も突然巻き込んで悪かったって!」


「う、うん」


 雪乃はそういうと、一回だけ深呼吸した。そうとう動揺したんだな。


 でも、『力』を使ったことは事実で、母さんのように、僕の死が近づいていることは変わらない。僕には多分これから、『力』を使えば救えたはずの人を、見捨てなければいけないこともあるのかもしれない。僕はその時に何を思うのか。今は正直わからない。心が折れてしまうことがあるかもしれない。


 その時だけ、どうしても我慢できなくなって苦しくなって、心が折れてしまいそうになった時、少しだけ胸を借りて休ませてもらえたら、そばにいてもらえたら、ほんの少しだけの苦しみを出させてくれたら。それくらいならお願いしてもいいよな。


「ひとつだけ、お願いがあるんだ。いいかな?」


「ん? もちろんよ! なんでも言って!」


「うん、私も力になれるなら」


 楓、雪乃と答えてくれた。


「もし、僕が我慢できなくて、苦しくて出したくなった時、その時は胸を貸してほしんだ」


 言葉にしたら、情けなかったなと自分で思ってきた。やっぱ撤回しようか、今のなしってのもありかな。さすがに情けないか……。


「は、春人、本気?」


 やっぱ情けないか。そうだよな、撤回しよう。


「我慢できない出したくて苦しくて、胸を貸してほしいって……あれよね?」


 ……あれ?


「柏木君、私たちの勘違いだと思うんだけど一応確認させて――」


「は、春人!」


 楓は雪乃の言葉を遮った。


「あ、あたし! はさめるくらいはあると思うから! け、経験ないけど! ば、バナナで練習しとくから!」


 ……バナナ? 楓の顔が赤くなっている。


 雪乃は楓の言葉を聞くと、何を思ったのか、楓の胸を鷲掴みにした。


「ちょ! 結衣なにするの!」


「こ、この大きさ、大きいと思っていたけど、まさかこれほど……」


「この! お返しよ!」


 今度は楓が雪乃の胸を鷲掴みにする。


「……結衣……ごめん」


「……」


 雪乃はなんだかショックを受けている。


「と、とにかく! 春人! いつでも言って!」


 そういうと楓は顔を真っ赤にして、屋上の入口へと向かっていき「春人のエッチ!」という言葉を残して校舎に戻っていった。


「か、柏木君、ごめんなさい、わ、私の胸では、はさめないわ」


 さっきから二人は何を、胸ではさむって……あ……。


「ち、ちがうよ! ぼ、僕が心が折れそうになったときに、いや、それはちょっと情けないかなと思い直したわけで……少しそばにいてほしいとか思ったわけで、でもそれは! とりあえず二人の勘違いだってば!」


 もうなんていったらいいかわからない。


「か、勘違いなのよね、よかった」


 とりあえず雪乃には伝わったみたいでよかった。楓にも後でちゃんと言わないといけない。そうしないと早坂家はバナナで埋め尽くされてしまう。


「柏木君」


「ん?」


「柏木君には、本当に感謝してもしきれないわ、本当にありがとう、啓介も柏木君が今度いつ家に来てくれるか楽しみにしているから、いつでも遊びに来て」


「そうだな、本を貸す約束もあるから、あ、今日お見舞いにいこうかな、入院中って暇そうだし、本を持っていくよ」


「ありがとう、啓介も喜ぶ、それとお母さんが今日退院だから、私もいくわ」


「雪乃のお母さん、入院してたのか」


「うん、あの日のこと、全部話したんだ」


「そっか」


 雪乃の母さんは話を聞いて、どう思ったんだろうか。多分僕が思ったことなんかより複雑な思いをしているんだろうか。こう言ってはなんだけど、自分が選んだ人が原因でこうなってしまったわけだし……。


「お母さん、柏木君に会いたいって言ってた」


「え?」


「お礼を言いたいってさ」


「お、お礼?」


「私たちをあの人から開放してくれたって、もしよかったら会ってくれる?」


「うん、なんか恥ずかしいけど」


「ありがとう、お母さんも喜ぶわ」


 雪乃はそういうと、空を見上げた。


 空は青く、一つだけ小さな雲が浮いていた。


「空って、こんなに青かったのね」


 優しい風が吹いて、彼女の長い黒髪をそっと撫でた。


 彼女は手を空へ向かって広げ、大きく背伸びをした。


「気持ちいい」


 殻で覆われた世界を自分で破り、彼女は大空を手に入れた。それは長い間あこがれた世界との邂逅かいこうだった。


「私は教室に戻るね」


 彼女はゆっくりと歩き出し、やがて立ち止まった。


「あ、この前のお願い、今ならできるかも」と彼女は言った。


「お願い?」僕は尋ねた。


「つくり笑顔?」


 そういうと彼女はゆっくりとこちらに振り返った。


「こんな感じかな?」


 彼女の表情がゆっくりと変わった。


 ……あ……。


 彼女はつくり笑顔といった。だけど、そのつくり笑顔は、とても美しくて、優しくて、何故か泣きたくなるほどに。


 銀雪のように、輝いていた。



 第二章 完


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