第34話 お礼は初めての

 目を覚ますと、そこは僕の家の白い天井ではなかった。茶色でやや傷んだ天井……。


 僕は日野先生と雪野ゆきの弟が救急車で運ばれたのを覚えている。そのあと、眠気で意識がなくなった。


「ここは、どこだ……」


 僕は声に出してつぶやいた。


「私の家よ」


 しんとした空間に小さく響き、僕の意識を奪い去った。


 視界に映ったのは、雪乃だった。


 寝ぼけているのか、何かと見間違えているのか、僕の目の前にはTシャツ姿で横になる雪乃がいた。部屋の明かりは完全に消され、雪乃のシャツの色もはっきりとはわからない。カーテンと窓は開かれ、清光せいこうのみが二人を照らしていた。


「え……え!」僕は思わず声を出した。


「しー! かえでが起きるわ」


「楓?」


 何が起きているのか頭を整理しようとし、視線を天井に戻した。すると何かが僕の顔めがけて降りてきた。


「あいた!」


 僕の顔に当たったものを確認すると、人の手だった。その手をつかみ、手の主を確かめると、そこには寝息をたてる楓がいた。寝息というか、ややいびきにちかい、思えば楓は少し寝相が悪かった……。


「大丈夫?」雪乃が小さな声で言う。


「う、うん……ていうか、なんで僕が真ん中……?」


 部屋には布団が敷かれ、僕が真ん中で、左に雪乃、右に楓と川の字で横になっていた。


柏木かしわぎ君が変な気を起こしたら、どっちかが助けられるようにって、楓が……」


「な、なにそれ……」


「日野先生が病院に運ばれちゃったから、送って行くこともできなくて……」


 そうだ、日野先生、そして雪乃弟は……。


「二人は……?」


 僕はなんだか心配になって恐る恐る聞いた。


「大丈夫、二人とも傷は浅くて、致命傷にはなっていないって、ただ、何日か入院が必要みたい」


「そうか、よかった」


 僕はそれを聞くと、安心感がこみあげてきた。


「柏木君、ありがとう」


「え? 僕?」


「うん、あのとき、『力』を使ってくれて……私、楓に聞いたの、柏木君にとって『力』を使うことが、何を意味するのか」


 雪乃は僕から視線を天井に移した。


「私たちの問題にみんなを巻き込んでしまった」


 寝ていたせいか、やや記憶が曖昧あいまいだったが、雪乃のその言葉で記憶がはっきりしてきた。


「あの人、なんで警察に? ……いや、ごめん、言いたくないよね」


 無神経だったかもしれないと言葉に出してから後悔した。雪乃にしてみれば赤の他人ではない人が、あんなことになり、雪乃自身も傷ついたはずだ。


「ううん、柏木君にも知る権利があると思う。あの人が警察に監視されていた理由は、違法薬物の使用。そして、取引をする相手とトラブルを起こし、死に追いやってしまった。お母さんと一緒になってすぐに手を出したみたい」


「……そうだったんだ……」


 雪乃の言葉は僕が思ったよりも、雪乃にとって、そして彼女の家族にとって残酷なものだった。


「私たちは、あの人が何をやっていたのか知っていた。でもどうしたらいいかわからなくなって、お母さんも私も言われるままに働いて、もらったお金をあの人に渡していたわ。いつか前のような優しい人に戻ってくれるって信じていた。でも無駄だったみたい」


 そういう雪乃の顔は何を思っているのか、察することができない表情をしていた。ただ、茶色く傷んだ天井をただ見つめていた。


 僕も彼女の表情を見て、同じく天井に視線を移した。


「雪乃……」


「うん? 何?」


 雪乃はそういいながら僕のほうへ視線を移した。


「雪乃がやってきたことは無駄なんかじゃない。あの人のことはあんな結果になったけど、それまで、雪乃の弟君と、お母さんと力を合わせてここまでやってきた。そして、どういう形であれ、乗り越えた。三人はきっとどんな家族より、強い絆で結ばれたんじゃないかな」


「三人の絆?」


 雪乃は顔をこちらへ向けた。


「うん……なんか言いなれないこと言って恥ずかしくなっちゃった。なんか決まらないな」


「そんなことない、ありがとう」


 ……あ……。


 気のせいだろうか、一瞬、雪乃が笑った気がした。そのまま雪乃は言葉を続けた。


「柏木君がいたから、私たちは解放された。柏木君の力のおかげで、私は自分で決着をつけることができた。あのまま、あの人が警察につかまっていても、私たちは気持ちを切り替えることができなくて、途方に暮れてたかもしれない」


「そうか……」


 僕はあの時、紫色の球体が雪乃のところに行った理由がわかった気がした。僕が解決したのでは駄目だったんだ。雪乃が自らの行動で、あの人の呪縛から解き放たれることが必要だった。雪乃は自らの手で殻を破ることができた。


「僕の時よりも、見事なハイキックだったな」僕は少し茶化すように言った。


「それは言わないでよ」


 雪乃は身体にかけていた薄手のタオルで口と鼻を隠した。


「そういえば、なんでハイキック?」


 僕は前から思っていたことを聞いた。


「え、えっと……」


 なんか追い打ちみたいになってしまった。


「ご、ごめん、言いたくなったら……」


「いえ、大丈夫……小さい頃、お父さんと一緒に空手をやってからかな、お父さんは腰が引けてたり、ちょっと情けなかったけど、思い出なの」


「思い出か……」


「今度、なにかお礼させて」


「いいよ、お礼なんて」


啓介けいすけも柏木君には感謝してるわ、今度いつ家に来てくれるかって、病院で言ってた、いつでも遊びにきて」


 あの人がいなくなって、この家に来るなという人はいなくなったわけで。そんなことを考えていたら、急に眠くなり、僕は大きくあくびをした。


「眠いのに、ごめんね、最後に教えてほしいの」


「大丈夫だよ、なに?」


 雪乃は少し、大きく呼吸した。雪乃の息が、僕の頬をかすめ、少しこそばゆく感じた。


「柏木君と楓って付き合ってないのよね? 楓からはそんなこと聞いたことないけど」


 この雪乃の質問が何を意味するのか、僕にはわからなかった。


「付き合ってないし、楓は妹のような感覚だよ、楓からしたら、僕が弟かもしれないけど」


 僕がそういうと、雪乃は身体ごと僕の方へ向けた。


「そう……」と雪乃はつぶやいた。そして……。


 ……え……?


 雪乃は左手を僕の頭の後ろにまわして僕の顔を引き寄せた。そして自分の顔も僕の顔に近づけた。


「お礼になるかな……」


 雪乃が僕の目の前で囁き、言い終わると同時に僕の唇と雪乃の唇が重なり合った。


 雪乃の唇は柔らかく、僕より体温がやや低いのか、少しだけ冷たく感じた。


 唇が離れると、雪乃は薄手のタオルで鼻と口を隠し。


「おやすみ」と言って僕とは逆の方向に身体を向けた。


「お、おやすみ……」


 僕の眠気は一気に吹き飛んだ。部屋には楓の小さないびきだけが響いていた。


 眠気が覚めてしまった状態で見る雪乃の背中はとても細く、後ろから強く抱きしめたら壊れてしまうような、そんな印象を僕に与えた。


 唇の感触がまだ残っていて、雪乃の囁き声も鮮明に耳に残っていた。


 思春期の男子高校生には刺激が強すぎる状況で、これは俗にいう生殺しじゃないか等、色々考えては消えていった。


 いつの間に眠りについたのか、はたまた、寝ることができたのか、それすらも分からず、気づいたら朝を迎えた。


 朝になると、雪乃が朝食を作ってくれた。楓も手伝うと言ったが、拒否されていた。


 思えば僕は晩御飯を食べておらず、目玉焼きと食パンを夢中になって食べた。


 「ご飯のほうがよかったかな? ご飯炊き忘れちゃって」と雪乃が言った。そして海苔の佃煮だけ僕にくれた。……食パンに塗れと?


 雪乃は昨晩のことがなかったかのように普通だった。夢でも見ていたのかと思うほどだ。


 朝食をごちそうになった僕は家に帰ることにした。今日は土曜日で学校も休みだ。


 やや違和感がある身体で電車に乗り、家に帰った。楓は少し雪乃と話したいことがあると、雪乃の家に残った。


 家に帰ると、楓がうまく連絡してくれていたようで、何か言われることはなかった。


 ふと、リビングで母さんの写真が目に入った。


 前回から、日が経っていないのに、『力』を使ってしまった。しかも今回は軽く引き金を引いただけで『力』が発動した。


 あと、僕が使える回数は――。


 僕は母さんの写真に手を合わせた。


「僕は――」


 僕はどうしたらいい? 答えのない問いを母さんに聞こうとしてやめた。


 写真の母さんの顔は、なぜかとても不安そうに見えた。


 月曜日、この日は朝から全校集会が行われた。もちろん、日野先生のことだ。命に別条はなく今は入院していると伝えられた。事件の詳細は伏せられた。というより、マスコミが『女子高生、ハイキックで犯人蹴とばし事件解決』なんて報道したせいもあり、校内ではちょっとした噂になった。マスコミもこっちのほうが面白いと思ったようだ。なんにせよ、変な風に報道されなくてよかった。


 その日の昼休み、屋上で本を読んでいる僕の前で、雪乃と楓が両ひざと両手を地面につき、額がまさに地面に付こうかという格好をしていた。いわゆる、土下座という格好なんだけど……。


 なんでだ?




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