7-4 『ちょっとこれは、忘れられそうにない』
『…………その、ちょっと待ってもらえますか。数分ほどでいいので』
そう言うと心春は立ち上がりスマートフォンを自室の机にあるスマホホルダーへ置くと、ヨガマットを準備してきておもむろに床に敷いた。何をするつもりなんだろうと観察していると、手を上に伸ばして横へと広げる深呼吸の運動をしてから、そのまま引き続いて柔軟運動に移行する。前屈が床にまでしっかり手が届いていて、心春の身体の柔らかさに感心させられる。
そう言えば、考え事をするときには身体を動かしているほうがいいという話もあるんだっけ。特に作家やクリエイティブな仕事をする人間の多くはよく散歩をしながら仕事のこと考えるなんて話もあるくらいで、誰もが知る世界的に有名企業の社長もしているらしい。
ちなみに一応、理屈はあるらしい。なんでも、運動することで血液の循環がよくなり、巡り巡って脳の活動が活発になるからとか、なんとか。たまたまネットを見ていて知ったくらいの雑な知識だけど。心春も同じように柔軟運動をすることで思考することを効率化しているのかもしれない。
それにしても、心春が誰かにアイドルを目指していることを話すのにそんなに悩むなんて思わなかった。実のところ私の考えすぎなだけで、あっさりと「いいですよ」と言ってしまうんじゃないかと思っていたけれど──いや、そうだった。
すっかり忘れてしまっていたけれど、最初に出会ったとき、心春は物凄く取り乱していたっけ。今となっては懐かしさすらあるけれど、あれからそれほど時間が経っているわけではない。朗らかで寛容なイメージのある心春だけど、やっぱり、さすがに知り合いに知られることには抵抗があるんだろうか。
とりあえず。あの場ですぐに言わなくてよかったと安心する。
「──よしっ!」
しばらくぼうっと心春の様子を見守ってると、突如として心春はぱちんと自分の頬を軽くぺちっと叩いて、声を上げる。
「大丈夫です。私のことを宮園さんにお話してください」
「心春、本当に大丈夫? 無理してない?」
「ふふ、真宙さんは心配性さんですね。大丈夫ですよ。それに、きちんとお話もしないで曲を作ってもらおうなんて宮園さんにも失礼ですから。……ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、残念だなって思う気持ちはありますけれど」
残念とは、と私は首を傾げる。恥ずかしいとかならわかるんだけど、残念がる理由はよくわからなかったから。
ちょっとだけ頬を赤らめてカメラから視線を逸らしながら、心春は言葉を続ける。
「だって私がアイドルを目指していることを真宙さんと二人だけの秘密にしていたこと、実は凄く素敵なことだと思っていたんです……秘密を共有する二人、なんだか特別みたいで──な、なーんて、ちょっと恥ずかしいこと言っちゃいましたねっ。ごめんなさい真宙さん、忘れてくださいっ!」
きゃーきゃーと騒ぎながらカメラに向かって両手をぱたぱたと振って自分の顔を映さないようにしているけれど、耳まで真っ赤になっているのがしっかりと映っている。
かく言う私も、同じようにきっと顔が赤くなっている。首から頭頂部までぶわあっと茹だった熱が上ってくるような感覚があって、熱い。汗がたくさん出てきそうだ。心臓が掴まれたようにギュンとなるし、血が内面で噴き出したみたいな錯覚すらある。
心を鷲掴みにされるって、こういうことなのかもしれない。
だって、推しにそんな可愛いことを言われて、喜ばないファンがいるわけないじゃん。
……ごめん、心春。ちょっとこれは、忘れられそうにない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます