第二話 星の占い B

〝B〟


 呪われてから数十秒後、男からとうとう「おーい」と呼ばれて我に返った。しかし彼が僕にかけてきた呪いは未だ健在のまま。好奇心という呪い、あるいは毒である。


「待ってくれ。えっと、まず霧咲くんがなぜ二年二組にいるんだ?」


 彼は笑った顔をいったん崩し、首を傾げた。どういうことだ、と言わんばかりに。

僕の質問は単純なものだったはずだ。誰でも答えられるようないたってシンプルな問い。最悪、この質問に対して「気になってる女子の机でいろいろしたかった」とかでも僕は納得できた。


「たしか霧咲くんは一組だったろ? なのになんでこんなとこに」

「何を言っているんだ。ここは一組だ」

「へ?」と僕は変に上ずった声をもらしてしまった。

「だから正確にはその質問をするのは俺であり、茶色頭くんじゃない」


 茶色頭だと?

 僕は眉を真ん中に寄せて、彼をにらんだ。あまり話したこともない人からこんなことを言われれば、誰だって苛立ちはするものだ。


「茶色頭じゃない。僕は深崎司だ。深い谷の深いに、神奈川県川崎市の崎、司は司書の司。深崎司」

「それじゃあ司。俺のことは皐月と呼んでくれ」


 いきなり呼び捨てかと少し遠慮したい気分だったが、どうもこの男の攻めには抗えない。男──皐月は右手でウェーブのかかった髪をいじりながら僕に話しかけてきた。


「話を戻すけど、司はとんでもない勘違いをしているよ」

「どんな勘違いなんだよ?」


 僕は少し首を傾げつつ、即座にそう尋ねた。すると皐月はにやっと唇を吊り上げ、いかにも俺の出番だと言わんばかりの自信にあふれた笑みを浮かべた。


「まあ百聞は一見になんとやらだ。教室から出てみろ」


 僕の胸のうち側から湧いてくる疑念は消化されないまま、彼の言うとおりに教室を出てみた。


「あれ」前の扉にもあるはずの、一組と書いてある札がないのだ。「なんでだ? さっきは見かけたのに」

「そう、うちの教室にはないんだ」


 皐月が僕よりあとに教室から出てきては、先ほどと変わらない相好そうごうのまま言った。僕はすぐにどういうことだ、と彼と目を合わせて尋ねた。


「でもね。後ろの扉にはあるんだ、二組と書かれたクラス札が」

「そ、それがどうしたっていうんだよ」

「司はなにやら急いでいたようだったな。廊下を走る音が俺にも聞こえた」


 たしかに僕は焦っていた。なぜ焦っていたのか、その理由は今となってもわからないままではあるけど。


「真実かどうかはわからないけど、俺が探偵ぶって推理するならこうだ。おまえは焦るあまり走って、前の扉にもあるはずのクラス札がなかったから、後ろの扉より奥にあるクラス札を見た。そしてここが二組だと勘違いした。で、入ってきたわけだ」

「そう、か? まあそうなのかもしれないけど、一応教室の数を数えて、ここが二番目だったからってのもあるんだけど」

「それがまたおまえの勘違いの幅を広げたんだ。よく見ろよ、そこの教室は多目的教室なんだぜ?」

「あ」


 本当だった。多目的教室。よく補修のときに使う教室で、僕は一度だけこの教室に入ったことがある。僕はようやくそこで合点がいって、手のひらに拳を打ちつけた。


「まあ、正直な感想言わせてもらうとずいぶんと無理やりな探偵だと思うけど」


 あ。まずい、口が滑った。こんな漫画のようなミスが本当に起こりえるなんて思いもしなかったが、とにかく心の中の言葉を声にしてしまった。


 どうすればいいだろう。


 見るからにプライドの高そうな人だ。僕の苦手な人種は美人なのだ。あの美麗な顔つきで責め立てられたら、僕は膝を崩して床に手をつき、額をこすりつけて謝ることだろう。そんなことはしたくない。が、そうするほか仕方はないのだろう。断念してしまえ。


 ええい、もういっそのこと今すぐ──、


「そ、そこは目をつぶってくれ」


 そっぽを向いて、頬を赤くしている。照れ隠しに口笛なんかを吹いている。

 僕はそこでため息をついた。いや、正確には安堵あんどの息をもらしたのだ。

 なんだ。霧咲皐月って意外に大したやつじゃないんだな。


 傍からすればひどい言い草なのかもしれない。悪意のこもった言葉かもしれない。でも違うんだ。僕は霧咲皐月を近いようで遠い、そう表現した。だけど、今になってみればあいつの表現のほうが的を射ているのかもしれない。


〝遠いようで近い〟


 まったく、その通りだ。

 彼も、僕らと同じ十七の少年に過ぎない。見た目こそ頭がいかれちまうほどの麗人だけど、中身は普通の少年なのだ。


 そんな僕の勝手な思い。もしかしたら勘違いかもしれないけど、まあ、いずれわかることなんだから焦らなくてもいいだろ?


 僕はそんな、答えのわかりきった問いを自分に投げかけた。




「それで、調べたい怪談話ってなんなんだ?」


 僕らは二年一組の知らない誰かの席を借りて談笑していた。そのあいだはおそらく三十分ほど。


 この話を切り出すまでは普通の学生らしい会話をしていた。たとえば皐月は前の学校ではどんなやつだったのか。


 成績はどれくらいなのか。好きな女の子はいたのか、なんていうプライベートに攻め入った話題も親友のように笑い合いながら話した。


 そのぐらいまで行くと、僕はようやく本題を思い出した。優先すべき話題を。


「在間高校の七不思議って知ってるか?」


 七不思議? あれ、七不思議だったっけ?

 まあいいか。


「まあ、噂ぐらいは」

「その七不思議の──ったく」


気持ちよく話していたのに、と続けてつぶやく皐月。着メロが和風ホラー風なのが気になるが、あえて指摘はしなかった。


「ちょっと待っててな」

「あ、うん」


 僕はうなずいた。

 皐月は携帯を片手に立ち上がり、小走りで廊下のほうへ行った。


「なんだよ、母さん」


 扉は開けっ放しで彼の低い声が聞こえてきた。不満げな声調であり、どうやら相手は彼の母親らしい。


 僕は、霧咲皐月の母親のイメージを脳のなかに広げた。きっと彼と似てきれいな人なのだろう。実際会ったらドギマギして、十七の少年らしく心臓を激しく伸縮してしまいそうだ。いいよな、年上。とくに人妻は……、


「わ、わーったよ。もう帰るから! だからそんなに泣くな! あ、ああごめん。違うんだ、俺は別に怒ってるわけじゃなくて──」


 どうやら彼の母親は息子に対して過保護な姿勢にあるらしい。当人からしてみれば面倒だと思うのだろう。けど、第三者から見ると実に微笑ましいものでもある。


「おまえ、何にやにやしてんだ?」

「えっ、ああいや違うんだ」


 どうやら通話はすでに終わっていたらしい。彼が教室の扉際に肩を寄せて、不審者を見るかのように目を細めて僕を見ている。


 僕が一番苦手な目だ。美人はもちろん、目がきれいなのだ。美人が眉を下げて、目を細めてみればむき出しの刃と似た危うさがあるのだ。


「もう帰らなくちゃいけないんだって?」

 僕は話題を変えた。

「ああ、すまないな。どうもうちの母親は俺をまだ子供だと思ってるみたいで」

「いいじゃん。それだけ愛されてるってこった」

「いや、まあ悪くはないんだけどさ、心配なんだよ」

「ふ」

「何笑ってんだ、気持ち悪い」

「ぐ」



 僕らは正門前で別れることになった。


 皐月にはどうやら迎えがあるらしかった。母親がこんな時間に独りで帰ったらだめ、と言っていたから致し方なく、とのこと。


先に帰ってていいぞと言われたが、そのあとすぐに黒塗りのセダンが来たものだから、開いた口がなかなか閉じなかった。


 そのあと僕がいたからか、運転手がそのセダンから出てきて、


「初めまして。霧咲家に務める執事、永井でございます」

「は、はあ。どうも」


 礼儀正しい──執事だから当然かと思うが──人だった。そもそも今の時代、死語と化した執事というものが、今僕の目の前にいることにも驚いた。


 皐月はじゃあな、と車のウィンドウから顔を飛び出して、僕に手をふった。僕もふり返して、セダンの姿が少しずつ小さくなってやがていなくなっていく。それを見届けて、僕はその道に背を向けて家路についた。


 日が落ちて、空は黒一色に染まっている。だがそんな暗闇でも輝くものがいくつかあった。白く輝く星々たちである。彼らは薄暗い劇場のなかでスポットライトを照らされた役者たち。それぞれの役目を持ち、それぞれの名前を持ち、それぞれの輝きを持つ。昨日の夜も星は光を放っていたが、今日のものとは段違いだ。


「こんなに、きれいだったんだな」


 今日はきれいなものを見すぎたせいか、僕のなかの美意識が強く前へ出てきているようだった。


そして次の朝。昨日と同じ清々しい朝。何も変わったことなどない。豆腐に何もかけずに食べたときと同じ気分。


 どうやら冴えていたはずの美意識は昨日までのものだったらしい。まあシンデレラの魔法もそんなものだ。あの男からかけられた呪いとやらは、もしかしたらこの美意識だったのかもしれない、と今になって思う。


「あ」


 結局サブバッグ忘れた。




 僕が食卓で昨日と同じトーストを食べていると、携帯の通知音が耳に届いた。テーブルに置いてあった携帯の画面を見てみると、


〈今日の放課後、図書室で落ち合おう〉


というメールだった。相手は霧咲皐月。アカウント名も律儀に本名で表示されてある。


 おそらくこのメールの真意は昨日の話の続きをしよう、ということなのだろう。彼からの話というのは在間高校の七不思議についてのこと。いまいちその名前にしっくりこないのが気がかりだが、そこはもうどうでもいい。


 それよりも今来たメールのほうが気になる。


〈一年に超かわいい子がきたってよ‼〉


 それは逃すわけにはいかないな、と僕の胸がざわざわと騒ぎ立てる。心が躍っているのだ。いえい、と派手な声を出して腰をくねらせてはしゃいでいる。


 最後の一口を食べたのち、僕はいつもの習慣である「音楽」を自らお預けにして、登校の支度をした。


 走れば五分程度だが、ここぞとばかりに僕は自室にずっと置いていた鍵をもっていった。その鍵は愛車である。むろん僕はまだ未成年で車の免許は持っていないし、かといって原付の免許を取得しているわけじゃない。


 自転車である。ママチャリだ。めったには使わないので愛車と言っていいのか首を傾げざるをないが、そんなことは今の問題に比べれば大した問題ではない。


 僕はサドルにまたがり、ペダルを踏んで自転車をこぐ。自転車であれば五分もかからない。こんなことに自転車を使うなんて、と僕自身も呆れているが、そこから垣間見える本心にはこの文字が深く刻みこまれてある。


〝超かわいい子〟


 一つ訂正しておくと僕は女好きではない。かわいい子が好きなだけである。

 あいつが話したがっている七不思議とかもう本当にどっかへ行ってくれと思うぐらいにどうでもいい。


 そして……本当に五分、いやそれどころか三分もかからずに学校の正門前に到着した。僕は駐輪場に自転車を置いてきて、携帯をポケットから取り出す。


 ここでその一年が何組なのかという問題が発生してくるが、もうそれは解決している。僕は家を出る際にメールをあいつに飛ばしていた。


 僕はその効果を確認すべく、携帯の画面を開いてそれを見た。


〈三組らしいぞ!〉


 よしわかった、三組だな。


 僕がそうガッツポーズをとると、一人の生徒がこちらを怪しんでにらんできた。


 その人は自転車に鍵をかけたところだった。その人の自転車には、あるはずのものがない。なんだっけな、たしかシールだった気がする。自転車点検のときに貼るやつだ。


 まあ、そんなことはどうでもいい!


 僕はぎゅっと携帯を握りしめて、おまえの想いは俺が引き継ぐ、とつぶやいた。昨日観たテンプレートにそりすぎて失敗した映画の影響である。


 まああいつからしたら、一人突っ走りやがった裏切り者でしかないわけだけど。


 僕は昨日の日没のとき以上に速度を飛ばして廊下を駆けていた。一回、教師とすれ違ったが正直どうでもいい。


「こ、ここが……三組……ハァ」


 教室棟の一階。正面玄関から入って左折して、少し奥へ進んだところにある。


「さて、どれだ。どの子だ──って」


 僕は、とんでもないミスを犯してしまった。あまりに初歩的なミス。誰かに知られれば顔を両手で覆い隠すほかないほどの、恥を知れと思うぐらいの平凡なミス。


「名前、わかんねえ」


 かわいい子と一括りにすれば、そんなのは一年生のなかには必ず何人か存在する。それにかわいいなんていうのはその人を目撃した当人の価値観を基にしたものでしかない。


 皐月のような容姿ならばわかりやすいのだが、あんな化け物が学年に何人かいたら目が引ん剝くというものだろう。


「諦める、しかないよな」


 ああ、三組にいる少人数が僕を不審者なのかと怪しんでいるようだ。でももう耐性はついたのだ、昨日で。皐月のあの冷たい視線と比べれば全然大したことない。

 さて。不審者は早々に退場だ。


「あの、三組に何か用ですか?」


 やばいな。教室から離れようとした途端、靴箱からやってきた女の子に話しかけられてしまった。加えてその声調にはどうも棘というか、毒がある。しかも覚えのある毒。

 

 覚えのある毒、だと?


「あれ」


 見つけた。見つけてしまった。奇跡だ、万歳と喜びたい。もちろん喜ばしいことだが、同時に胸が痛い。


 彼──いや違う、〝彼女〟の冷ややかな視線が僕の心を一秒ごとに抉っていくのだ。


「皐月、なのか?」

「え。あの、どうして私の名前を?」


 一歩後ずさりして、少し身構える少女。


 長く、よく洗練された長い黒髪。陶器のような華奢な指先。すぐにも折れてしまいそうな細い首。そんな彼女には白いセーラー服がよく似合っていた。


「いや違うな。霧咲皐月は男のはずだ。実はあいつが女だったとか、そんなのはないはず。ならこの子は──」

「ああ、そういうことですか」少女は合点がいったかのように首を縦に何度もふる。「あのバカ兄のお友達……という認識で合っていますか?」


 ああ、そうか。この子はあいつの妹なのか。なるほど、よく似ている。さすがに双子とまではいかないが、皐月の身長が少し小さくなった状態で女装すれば、そのままこの子みたいになりそうだ。


「ああ、たぶんそうだと思うけど」

「え、ほんとだったんですか。半分冗談のつもりだったんですけど」

「冗談って」

 僕は苦笑した。

「だって兄さん、男の人の友達いないですし」


 ああ、そうなんだ──と僕は軽く流しておいた。ここに本人はいないものの、そこに触れると大噴火が起きそうで触れづらい。


「自己紹介が遅れましたね。兄と同じ日にこちらに転校してきました。霧咲皐月……ああ、兄の字じゃないですよ、もちろん。さんずいに少ないと書く沙で月。霧咲沙月」


 僕は彼女の自己紹介を聞きながら、その顔をじっと見ていた。鼻の横にほくろがある以外には皐月とけっこう一致している。


「なにかに書いた方がいいですか?」


 僕が何も答えずにいたからだろう。僕は慌てて「いや、大丈夫」と答えた。


「そういえば兄のこと、皐月って呼んでましたよね。まあ兄の友達ですから、気軽に読んでいただければと思うんですけど」

「えっと、じゃあ沙月ちゃんでいいかな。あ、いやさすがに──」

「いえ、それでいいですよ!」


 と、にこやかに笑う沙月ちゃん。目を細め、唇を頬まで伸ばした彼女の笑みからは、皐月とは明らかに違うものを感じた。


 皐月の笑顔を人を呪うものだとすれば、沙月ちゃんのは人を救うもの。表現があまりにも過ぎているかもしれないが、間違ってはいないはずだ。


「えっと、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」


 と、いろいろと思案していた僕の顔を下から覗き込んでくる沙月ちゃん。僕は少し焦って肩をびくりと震わせたが、すぐに姿勢を整えた。


「僕は深崎司。溝が深いの深いに、長崎県の崎、それで司会者の司で深崎司。僕のことも司とかで気軽に呼んでくれていいよ」

「はい、よろしくお願いします」と差し出された彼女の白い手。僕は戸惑いつつもその手を握った。

「よろしくね、沙月ちゃん」

「はい、司先輩!」




「まあそんなわけで、その子とはお知り合いになれたわけなんだ。連絡先も交換したしな」


 昼休み。僕はクラスメイトと食事しているとき、今朝のことを話題にして自慢していた。僕が声を出すたびに嫌そうな顔を浮かべる彼はなかなかに面白い。さすがにやりすぎたかな、とこれでも控えているほうなのだが。


「このやりちんが」

「誰がやりちんだ。僕はまだ……」


 いったん言葉を切ってこほんと咳ばらいをする。


「まあ、これから少しずつ攻めて最終的に落としてやろうと思う」

「盛大に失敗しやがれ、この女好き」


 女好きだと?

 そんな不名誉なあだ名で呼ばれるわけにはいかない。


「違う。僕は普通にかわいい子が好きなだけだって」

「やっぱ女好きじゃねえか」


 何が違うんだ、とばかりに眉をひそめるクラスメイト。


 僕は別にシャーロキアンというわけではないが、少しまね食後のデザートということで売店で買ったコーヒーシガレットをくわえて、それらしく足を組んだ。視線を感じる。おそらく引かれただろう。


「ワトソン君」


 誰がワトソンだ、という声が耳に届く。


「〝明確な事実ほど、誤れやすいものはないよ〟」

「はあ?」

「女好きといったわかりやすい例を求めるばかりで、違う視点から物事を見るということをしないとものすごく簡単に間違えてしまうってことだよ」

 視線を感じる。そろそろお腹のあたりがきりきりと痛くなってきた。

「これもあるぜ。〝君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違い〟ってやつ」

「知るかよ」


 とうとう怒らせてしまったらしく、僕はそのあと昼休み終わりまでかけてすねた友人をなだめるはめになってしまった。まあ、今となって思えば僕が明らかな原因なのだが。




 放課後、僕は帰ろうかと思った矢先に一件のメールが届いた。


〈絶対図書室こいよ〉


 これは束縛だろうか? まあさすがにたった一回のことで束縛と決めつけるのはよくない。皐月との付き合いはもう少し様子を見て、関係を維持するか断絶するかはそこで判断しよう。


 僕は鞄を背負い、サブバッグを片手に図書室へ向かった。道中、のらりくらりとした足取りで、傍から見れば無気力な人間だと見られていることだろう。いつもなら気力はある、と否定したくなるが今は違う。そのとおりなのだ。僕は無気力なのである。


 何に対して無気力なのかという問いに答えることさえ、億劫おっくうである。

 僕は図書室の前まで来た。


 在間高校の図書室というのは、数ある公立校のなかでも比較的大規模なものらしい。書棚収蔵能力は約八百冊ほど。僕はこれを聞いたとき、たくさんの書物に囲まれるイメージが浮かんだ。


「きっと、楽しいだろうなあ」


 僕は図書室の扉に手をかけ、それをゆっくりと右に引く。


 そこには受験勉強をする三年生が二人ほど、単純に読書をしている生徒が三人ほど、そしてなにやら本を探していると思しき生徒が二人──そのうちの一人の背中は他の生徒とは違う。


 僕にもっと語彙があれば彼のことをうまく表現できたのかもしれないけど、あれはどう考えても異常なのだ。許せ。


「皐月、何を探しているんだ」

 彼は文庫本コーナーの前に立っていた。

「いやね、面白いホラー小説はないものか、と」

「それなら、これはどうだ」


 僕は二冊の本を取り出した。その二冊はお互いに異なる作品ではなく、上と下に分冊されただけのものである。


「これは?」

「主人公がある学校に転校するんだけどさ。在籍することになったクラスはなんだか奇妙な雰囲気が漂っていてね。それで主人公は片目眼帯のヒロインと出会うことになるんだ。んで、どうやらそのヒロインがクラス内で無視されてて──で始まるミステリ的要素を含めたホラー小説だ」


 最後の叙述トリックには思わず、え、と声をもらしたほどである。同時に切ない展開に心を痛ませたものだ。まあそれよりもやはり、ヒロインが可愛いのだ。


「へえ、面白そうだ。ちょっと借りてくる」


 僕はカウンターへ向かう皐月の背中を見て、意外とちょろいな、と聞こえないように小さくつぶやいた。


 借り終わったのか、カウンターに背を向けてこちらを振り返る皐月。そのまままっすぐ僕のほうへ歩いてきた。


「よし。これは今回の調査が終わったら読もう」


 調査?


 僕はその言葉を頭のなかで反芻させる。いったい何の調査だというのだ、と僕は尋ねたかったが、すぐにそれが思い当たった。彼は昨日、怪談話を調べたいと言っていた。その怪談話というのはこの学校の七不思議のことだ。


 つまり、霧咲皐月は七不思議の調査を行おうとしているのだろう。


「あそこの席に座ろうぜ」


 僕は一番端のほうの席を指さして、彼にそう促した。


 彼はおうけいとうなずいて僕と対面するようにテーブルをはさんで座った。彼は二冊の本を重ねて、胸の前に置いた。その本の前で彼は両手の指を絡める。


「何がしたいんだったっけ、皐月」

「調査だ」

「それって、七不思議を?」

「ああ、もちろん」


 なるほど、と僕は顎を指でさする。それから困ったな、と僕は聞こえないようにつぶやいた。別に今日は何か予定があるわけではない。


 それに──〝彼女〟からそのことを聞いた限り、僕の興味をひくに十分な妖しい魅力を放っていた。


 その彼女とは、沙月ちゃんである。

 それは、彼女と出会ったときのころにさかのぼる。


「はい、司先輩!」

「ところで、お兄さんってなんか怪談話が好きみたいだね」


 自己紹介を終えたあとで僕は沙月ちゃんにそう尋ねてみた。単なる世間話と思わせて、兄のたくらみを暴こうと思ったのだ。


「ええ、最近はどうやらこの高校の七不思議について調べたいようですけど。たしか──〈星の占い〉とか言ってましたね」


 星の占い。とても七不思議のひとつとは思えないような名前だ。もっとこう、おどろおどろしいものかと思っていたのだが、星の占い、となると何となく女性が喜びそうなイメージが浮かぶ。


「詳しいことは知らないかな?」

「まあ概要は。私も怪談は嫌いではないですし、単純に気になりましたから。といってもお兄ちゃんからじゃなくて、友達からの受け売りですけどね」


 彼女は〈星の占い〉の概要を話した。


 夜の校舎。毎晩、黒装束の男(灯りのついた教室からそう見えたらしい)が灯りのない廊下をさまよっているところを警備員が見かけたという。


 それでその警備員がその男を追いかけると、男は姿を消していた。その代わり、そこには二枚の紙があったとのこと。


 片方は黒い太い書体で描かれた星。もう片方は在間高校の見取り図。この高校の校舎は上から見るとU字型なのだ。


 加えて見取り図には赤ペンでつけられたかのような点が五つあった。警備員はなんとなく二枚を重ね合わせてみたらしい。


 すると星の角と見取り図の点が完全に一致したんだとか。まあその出来事を聞いた生徒が、この校舎で大規模な占いをしようとしていて、その占いに死体を用いているとかいろいろ脚色されてるみたいだけど。


 そこを詳しく尋ねるのはさすがに、と思ったが彼女は勝手に話してくれた。沙月ちゃんはグロテスクな話には耐性があるらしい。


その方法というのは、性別問わず人間の死体を部位ごとに分けるのだ。


 頭と手足に、だ。それから先ほどの見取り図の点のところに頭と手足を置く。胴体はグラウンド中央に置くらしい。そしてその場で占いを行うのだとか。


 まあどんなことを占うのか、なんていうのは僕にも彼女らにも知るよしはない。


 とまあ、これが〈星の占い〉の概要である。


「その七不思議のひとつっていうのがな──」

「ああ、いい。一応調べてはいたから基本的な情報ぐらいは知ってる」

「まあ、ホラー好きそうな顔してるしな」

「それずっと気になってたんだけど、ホラー好きってどういう顔?」

「──そうだな。死んでるんだよ、おまえ」


 何かの悪い冗談だ。こんなことで眩暈めまいなんて。そう、きっと皐月のこの言葉は冗談、ただの冗句なんだ。僕がここで口をつぐむ必要も、指先を震わせる必要も、冷や汗をかく必要もない。


「おまえのその目、死んでるんだよ」

「あ、ああ。目ね」

「? 目以外に何が死んでると思ったんだよ?」


 いやなんでもない、と僕は少し苦笑い気味に言った。でもそれは返事というより独り言のようだと我ながら変に思えた。


 一息おいて、僕は皐月の黒い瞳と目を合わせた。


「それでどうするっていうんだ?」

「今日の夜、日付が変わるころにまたこの学校で集合しよう」


 深夜、か。まあ次の日の朝に七不思議の調査をしようなんて言われてしまえば、誰だって違和感を抱くことだろう。やはりこういう怪談話には、じめじめとした湿り気が漂い、不安を煽る冷たい風が吹きこんでくるような真っ暗な夜がベストだ。


「それまでは普通に帰宅して、準備を整えるんだ。で、日付が変わるころまでにこの学校の裏口から入れ」


 まだ転校してから間もないはずだというのに、なぜ裏口の存在を知っているんだろう。


「それで決まりな」

「ああ。とりあえずはわかった。今日の十二時までに学校の裏口にいればいいんだよな」

「ああ、そういうことだ」


 僕は鞄とサブバッグをもって、図書室をあとにした。皐月はもう少し図書室に残って先ほど借りた本を少し読んでみるとのこと。


 僕は階段を駆けるように降りていき、校舎から抜け出した。そういえば自転車で登校していたな、とポケットにある鍵に触れてそう思い出した。駐輪場のほうへつま先を向け、歩いていくとそこに一人の男性が立っていた。担任教師、である。


「おい、深崎」

「はい?」

「この自転車、おまえのだろ」

「そうですけど」


 おそらく先生は進学の際に貼ったはずのシールが自転車から見当たらないからだろう。


「学校に自転車登校の許可書出してないだろ。だってのになんで自転車登校してきてんだごら」


 そういえば、自転車で登校する必要ないと思って許可書を出していなかったと思い出す。そもそも許可書の存在自体を頭の片っぽに置いていた。


「いえ、それ僕の自転車じゃないです」

「はあ? 嘘つけ。さっきおまえ、」

「僕に虚言癖があることは知っているでしょう?」

「……はあ。なんで教師に対してそう平然と嘘つけるんかねえ」


 と呆れ果てたのか、舌打ちの音だけを残してその場から教師は去っていった。まあ実際は嘘などついていない。だって教師が指さしたのは僕の愛車とは反対の列にある自転車だったのだから。




 僕はそのあと、皐月の言うとおり家にいったん帰って、母の作った焼き鮭とみそ汁をおいしくいただき、そのあとに入浴した。


 風呂上りの牛乳をコップ一杯ほど飲み干して、僕は洗面所で歯を磨いた。それらが終わるころ、時計を見るとまだ九時であった。


 僕はそれまで宿題を済ませたのち、読書をして、最後は出発予定時間である十一時四十五分まで携帯をいじっていた。


「よし」


 三十分ごろになったので、そろそろ準備をしなきゃと思ったのである。とはいえそんな大層なことをやろうとしているわけではない。ただ夜の校舎を散歩するだけである。


 それに参加する上で必要なものといったら、ライトぐらいなものだろう。まあ携帯のカメラで補えばいいだけか。


 僕は自室の扉をゆっくりと開けて、隙間から顔を出し、隣室に目を向ける。明かりはついていない。ぐうぐうと寝息も聞こえる。それ以外に親が起きているような気配は感じられない。


 僕は一歩踏み出す。そのとき廊下の床がきしむ。まずい、と一歩引きかけたが、別に親が飛び起きるわけでもなかった。


 胸をなで下ろし、ほっと安堵の息を口からもらす。忍び足でそろりそろりと歩き、階段を下りていく。


 玄関前まで来ると少し余裕が出てきた。

 自宅の鍵を握って、玄関を開け、玄関を閉める。


 やっと家を出ることに成功した僕は深いため息をつく。そのとたん、胸の内側の鼓動が高鳴る。動悸は速度を増す。弛緩しかんしていた神経はぴんと張りつめる。


 なんだよ、これ。


「すごく面白いじゃないか……」


 変わった日常を求めていた僕にとって、最高のシチュエーション。夜の校舎という劇場で特別ゲストとしてやってきたみたいだ。


 自然と、唇が吊り上がっていく。奇妙な笑み、だろうか。愉快な笑み、だろうか。どちらにせよ僕の気持ちは変わらない。


 僕は劇場に上がる前から、踊り始めているんだ。

 それも優美なバレエなんかじゃなく、思い切り派手なブレイクダンスを。




 それから僕は上がりに上がったテンションのまま、学校までの道のりを駆け抜けていった。体についた泥を水で洗い落したような気持ちのいい気分だった。アスファルトの道を疾駆していくときの凍えそうな冷え切った風が心地よかった。


 そんな独りよがりな快感。

 自分でも思うとも。

 僕はなんて変な頭をしているやつなんだろうってね。

 そんなことを考えていたら、もう僕は高校の敷地をまたいで裏口の前で空を仰ぎながら立っていた。


「おまえ、なにしてんの?」

「え」背後から声がしたので、上体をくねらせて彼を見た。「皐月か。いるならいるって言えよ」

「さっきからいたんだけどな」


 あれ、そうだったっけ。


 そういえば裏口の前に人影を見かけたような気もするが、すぐに視界はテンションに支配されてしまったものだから認識できなかったみたいだ。


 あらためて深夜テンションは恐ろしい。


「それより、ちゃんと準備してきたんだろうな」


 皐月が僕にそう問いかけた。ああもちろん、というふうに僕は強くうなずいた。


「ふ」皐月はおかしそうに笑う。「なんだ。おまえ、意外とノリノリじゃないか」

「そうかな。まあそうかもしれないね」


 だって吊り上がった唇はいつになっても戻らないままだし。


「皐月こそ、家の人にはどう言ったんだ?」


 霧咲家、という言葉が脳裏によぎると同時に豪奢ごうしゃな黄金色に輝く館が浮かんだ。


「まあね。母親が寝た隙にと思ったんだけど、永井に見つかっちゃってね。で、あそこ」


 皐月が指さすほうへ顔を向ける。するとそこには昨日見たセダンがあった。暗くてわからないが、きっとあの中には永井さんがいるのだろう。


 つまり永井さんは皐月にこう言ったのだと思う。


「外出されることはよしとしましょう。ですが一人はいけません。いざというときに私がついていきます」


 まあ、こんなとこだろう。僕が実際に言ってみせるとどうやら当たりだったようで、視線をそらした。


「まあそんな感じだ。とはいえ、さすがに校内までついてくるなとは言っておいた。雰囲気が台無しだからな」


 なるほどね、と僕は鼻でくすりと笑った。


 ここで気持ちが通じたように、僕らは裏口のほうへ向き直った。ごくりと固くなったつばを飲み込むような音。それは自分だった。


 この学校に入学したころは、こんなにも楽しいことがあるなんて思いもしなかった。期待はあれど、自ら行動起こすのは苦手なので、なかなかこういうことはできなかった。けど、霧咲皐月という男のおかげで僕は最高に笑えている。


「入るぞ」


 皐月がそう言い、僕らは裏口から校舎へ侵入した。警備員の存在を恐れるあまり僕らは自然と忍び足になり、息を潜めていた。


「おっと、これを忘れちゃいけないな」


 皐月がそう小声で言うと、肩にかけていた手提げ袋から、なにやら二枚のプリントを取り出した。それは彼の妹である霧咲沙月ちゃんから聞いた怪談に出てきた、あれである。星が印刷されてあるプリントと、この学校の見取り図。


「なんでこんなの持っているんだ」

「家で印刷してきた」


 いまいち答えになっていないような気もするが、とりあえずは置いておこう。彼がまた袋から懐中電灯を持ち、その二枚を重ね合わせる。その二枚を頭上にもってきて、光を当てた。   


 化学準備室に頭、職員室に右手、家庭科室に左手、資料室に右足、カウンセリングルームに左足、と彼は低くつぶやいた。


 つまりそれぞれの部位がある場所のことを言っているのだろう。なんともむごく、奇々怪々なる所業だ。そう思うことはあっても僕は正義漢なんかじゃない。むしろこういったことに興味津々な野次馬でしかないのだ。


「とりあえず、そこらへんを回ればいいわけなんだな。でもさ、鍵はどうす──」

「ほれ、マスターキー」


 マスター……キー……?


「なんで皐月がこんなもの──」

「当然。だってこの高校の管理者はうちなんだからな」


 それは、初耳だ。


 つまり霧咲家はこの在間高校のトップ中のトップということだろうか? セキュリティを簡単にかいくぐってみせるほどの頂点に、霧咲皐月がいるというのか?


 バカげた話だ、与太話にしては度が過ぎている。そう否定したかったが、彼が今、指にかけてぶら下げているのは高い確率で、いやほぼ確実にマスターキーである。彼がこんなつまらない嘘をつくとは思えない。


「まったく、恐れ入ったよ。おぼっちゃん」

「その呼び方はやめろ。むずむずする」


 はあ、そういうものなのか──と僕は胸中で彼の反応を珍しがりながらつぶやいた。


 さて。


 まずどこから行こうか、と僕が切り出すと皐月は「化学準備室へ。やっぱ最初は頭だろ」と言ったので、僕はそれにうなずいた。


 僕らは地図から目を離す。そして化学準備室へと向かうことになった。皐月が転校してそれほど日は経っていないから、ここはやはり僕が案内役を務めるべきだろうと彼に提案したら、


「いや大丈夫。もう事前に位置は把握してるしな」


まあそれはそれは用意周到ですことおほほ──と唇に手を添えて高らかに笑った。心のなかで。


 僕らは化学準備室の前まで来た。


 そこはどことなくおびただしい数の人肉が転がっていそうな怪しさをまとわせた、いわば人体実験の本場と思うような場所である。


 とはいえそれは僕の先入観、というか偏見でしかない。実際はハッピーでミラクルなきらきらとした場所なのかもしれない。


 皐月は扉の鍵口にマスターキーを挿入し、それを半回転させると、がちゃりと開錠の音が鳴った。


「誰もいないよな」


 皐月が僕を見て確認してきた。


「ああ、いないよ」


 右、左と首を動かし、そこに人影がないことを確認した。懐中電灯の光も見当たらない。もしかしたら警備員はとっくにいないのかもしれない。


「よし、入るぞ」


 皐月が言う。それに対して僕は沈黙で答えた。わかった、と。


 扉がゆっくりと開かれ、それ自体が古いのか、ところどころでつっかえる。それはもどかしかったのか、皐月は力任せに強く開いた。当たり前だが、その際大きな音が廊下中に鳴り響いた。が、とくに問題は起こらなかった。


 僕らは中へ入る。


「さあて。死体はどこにあるかなあ」


 なかなかに猟奇的な霧咲皐月。おぼっちゃん怖いぜ。


「ううん、ねえな」


 皐月が懐中電灯で照らしながら部屋を見渡す。そこにはフラスコやら試験管、薬品などがガラス張りの棚に詰めこまれていた。皐月の言うとおり、そこに頭などなかった。ということはどこかへ隠しているということだろうか?


 僕と皐月は互いにいろいろな箇所を見回った。しかし、やはりどこにもない。腐った肉の異臭などもない。あるのは薬品の匂いのみ。


「ないな」

「たしかに、ないね」


 僕は相槌をうつ。


 その軽い言葉はこの重々しい雰囲気へ流されていった。沈黙はしばし続いていく。お互いにかけるべき言葉がそんなたやすく思い浮かばないのだ。どうすれば、いいのだろう。


「まあ、次へいこう。もしかしたら次の場所で見つかるかもしれない」


 僕は彼の肩にぽんと手を置いて、おそるおそるそう言ってみせた。すると彼からは「そうだな……」と、もう諦めかけであるらしい。


 僕たちは化学準備室をあとにし、職員室へ向かった。


 たしかそこには右手があったはず。しかしいざ入ってみると、そこには来週にあるテストの問題と解答があっただけで、人間の右手らしきものはなかった。


 さらに肩を落とす皐月。僕はテストの問題に目が釘付けだったわけだが、さすがに窃盗とカンニングまでするつもりはない、と自分に言い聞かせ、欲を自ら抑制した。


 次は家庭科室。そこには左手があるということだった。結果、惨敗。何もなかった。正確には人間の左手なんてものはそこになかった。


 次は資料室。たしかそこは右足。結果、同じく。なかった。


 次がカウンセリングルーム。左足。と、ここまで来るとさすがの皐月も結果を知るのを恐れているらしく、向かう途中で足を止めた。


「どうした?」

「ううん、やっぱなんかおかしいんだよなあ。普通、あると思うんだけどなあ」


 普通はないんだ、そんな猟奇的なものは。

 加えてここは公共な教育施設。


 あったほうがおかしい。とは思うが、僕にも少し期待していた面はあるので人のことは言えない。そう、期待外れだった。


 僕は気を紛らすために例のプリントをもって目を凝らす皐月に尋ねた。


「皐月の家はどこにあるんだ?」

「ん? ああ。東方向に進んで、そっから南方向」

「あのなあ。そんな説明でわかると思うか?」


 東方向に進んで、南方向?

 まず北がどちらかすらもわからない僕に理解できるわけ──北? それはつまり、東西南北?


「ああ、なるほど。本当にその通りだな、シャーロックホームズさん」

「うん? ホームズ? ホームズがどうしたんだよ?」


〝君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違い〟


 僕は皐月からその二枚のプリントを取った。その皐月に「ちょっと照らしたままで頼む」と言った。


 あと、と僕は付け加えた。皐月は僕と目を合わせる。


「おまえ、北がどの方向とか、東がどの方向とかわかるよな」

「あ、ああ」


 皐月の顔はきょとんとしている。


 なんというか、こう言ってはなんだけど優越感に浸れる。この瞬間だけ、僕はこいつを上回っている。まあ本当にこの瞬間のみであるが。


「この見取り図を見て、北がどの方向かを示してくれ」

 皐月は首を傾げつつ、北の方向を指で矢印のように示してくれた。僕はあまりの楽しさでにやりと口もとを歪ませていた。ああ、すっげえ楽しいな。

「なら、それに合わせてこのプリントを合わせると──」


 場所は図書室に頭、視聴覚室あたりに右手、二年二組に左手、化学準備室に右足、会議室に左足ということになる。皐月と僕はなんとなく、プリントの端がきれいに重なるようにしていたが、それは違う。東西南北で合わせなければならない。


「なるほど! 東西南北で合わせるのか!」


 皐月は感動している。ああ、本当にそのとおり。僕も感動するよ。涙があふれそうだ。


 感動と同時に希望を見出したらしく、皐月の目は輝いているように見えた。


「よし、次は図書室だ! 行くぞ、司!」


 子供みたいにはしゃぐなあ、と僕は苦笑いした。やっていることは子供のものとは思えないけど。




 僕らは図書室の前まで来た。


 皐月の頭は楽しいことだらけらしく、僕よりもずっと先へ突っ走ってしまっていた。暗い廊下に独りになるのはどうも心地いいなんて思えない。


 だから仕方なく彼の背中を走って追いかけるほかなかった。そのせいで息は絶え絶え、心拍数はただいま上昇中なのだ。


「よし、入るぞ」


 最初の化学準備室に入るときとは段違いの張りのある声。その声につられて、口から笑みがこぼれる。


 開錠の音が、廊下に響く。緊張によって速くなる鼓動。神経がまた張りつめる。汗が額に滲む。


 僕らは悪夢に迷い込んで、それでも目の前にある白い光を目指してきた。もう十分に僕らは立派な旅人なのだ。


 踏み込む。十分に知っている場所だというのに、本当に未知の世界へ歩んでいこうとしているみたいだ。本当に、楽しすぎだ。


 図書室へ入った僕らは、そこら中をライトで照らしていた。おおざっぱに見渡したところ、頭らしきものはない。


  それから僕は適当に本棚やカウンターなど、いろいろなとこを探してみる。文庫本コーナーにも、新書コーナーにも、どこにもない。悪寒が背筋を撫でる。本当に嫌な予感がする。加えて嫌な予感に限って当たるものだ。


 皐月も同じなのか、僕のほうへ視線を向けてはよく目を合わせる。気まずい気分。楽しい気分が一気にダウン。


 僕らは同じタイミングでため息をついた。それがおかしくて、つい笑ってしまった。それを合図に僕らは集合した。


「ない、な」

「たしかに、ない、ね」


 お互いの声は低く、覇気のないものだった。皐月に関しては躁うつ病か、と疑われても仕方ないほど、テンションの振れ幅が大きい。


「なんか、このポスターはがれかけてるな」


 壁に貼ってあった、なにやら映画のポスターである。左上の端の画鋲が取れてしまったらしい。


 僕は携帯のライトで照らそうとしたが、すでに携帯は充電切れという死を迎えていた。とはいえ永遠の眠りではない。また充電すればいいだけの話だ。


 それに、運のいいことに皐月には懐中電灯がある。


「皐月、床を照らしてくれないか。画鋲が落ちているかどうか確認してほしいんだ」


 皐月は言われたままに床を照らす。


「いやないぞ」

「そっか……」


 僕はポスターのほうへ向き直す。


「うん?」


 ポスターの裏から何かが見えたような。照明などないためよくわからない。だからって照明をつけるのはあまりにリスクが高い。警備員が本当にいなくなったとは限らないのだ。


 僕は皐月に「ちょっと懐中電灯を貸してくれ」と言って、それをもらった。僕はそれを破る勢いで引きはがす。好奇心が理性を上回る。


 僕は自ら毒に侵されようとしている。それはもちろん、心の奥底では理解している。ブレーキをかけなければいけないとわかっている。


 でも、無理なんだ。自分では止められない。

 止められることなんて、できるわけない。


 中毒性抜群。クスリを決めこんだ夜のよう。僕はそう、誘蛾灯に誘われた蛾なのだ。はしたなく、好奇心の果てに羽で飛ぶことを忘れ、地面へ身を落としていく。そんな哀れで、ちっぽけな存在なんだ。


 ──ああ、これは。


 頭、だ。


 人の頭。鳥でも、兎でも、犬でも猫でもない。人間という生物の頭部。

 肌はきれいに保たれていた。女の頭のようだった。


 どうやら死んでからまだ時間は経っていないらしい。

 その閉じられた瞼は、いつ開いて、その奥の瞳を見せてくれるのだろうと自然と僕は期待していた。


「皐月、これ──」


 僕は固唾かたずを飲み込む。汗が目のなかに入りそうになったので、それを腕で拭う。


「──へえ。面白いじゃないか」


 声は、この生ぬるい室温に吞み込まれていく。響きは軽く、言葉はそのまま消えた。


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