異世界ボイコット(5日目(2))
「姉ちゃんさ、もうこっちには来ないの?」
階段を上りきったところで弟は私を待っていた。何気なく聞かれた言葉にどきりとして、踏み出した足を思わず止める。
「いや……そういうわけでは、ないのだけれど……」
見下ろす弟の視線から逃げるように下を向く。
「……姉ちゃんの自由だし、別にいいんだけどさ。まあ、俺としてはまた来てほしいけど。ニーナとアリアも心配してたよ?」
異世界から距離をとって、一週間。二人にもそれだけ会っていない。
小さく息をつき、俯いたままゆっくりと残りの階段を上る。二階まで来ると弟と連れ立って短い廊下を歩いていく。その間も弟は言葉を続ける。
「あ、そうそう。アリアからナーシーペアーのレシピ預かってるから、後で渡すね。俺も前に食べたことあるけど、美味しかったよ。あと、姉ちゃんが遭遇したっていう、密猟者? あいつらは全員捕まったよ。今のところ、魔獣や魔物の密猟問題はとりあえず、解決したかな」
少しして弟の部屋の前に着くと足を止める。
「姉ちゃん。ちょっと時間ある?」
「平気だけど……?」
弟の言葉に首を傾げつつ、そう返す。弟に続いて部屋に入る。
弟は真っ直ぐパソコンに向かう。ゲージを机に置き、パソコンの電源を入れた。ブラウザーを立ち上げて、何やら打ち込んでいく。
「何をしているの?」
「んー。ちょっとダウンロードしたいアプリケーションがあって。昨日、クラウドの共有フォルダに入れておいたんだけどさ。あ、あった、これだ」
弟の後ろからパソコンを覗き込んでみたけれど、画面は真っ白で何も見えない。訝しげに眉を顰める。
弟が何度かマウスをクリックすると、うー、とパソコンの動作音が低く唸る。画面には何もないものの、裏で何か実行されているらしい。
しばらくすると、ぴこんと完了ボタンが表示される。途端に、ぱあっと部屋中に白い光が弾けた。
床一面には召喚や帰ってくる時とも違う、見慣れない文様が広がる。壁も全て埋め尽くすと、溶け込むようにすっと消えていく。
「……何、これ?」
思わず声が出た。全く意味が分からない。私は鞄を肩に掛け直すと、ぐるりと部屋を見回す。
ぴったりと閉じられたカーテンの前。窓と直角に置かれたベッドには薄手の掛け布団が綺麗にかかったままになっている。
さらに手前には、整然と漫画やライトノベルが並ぶ本棚。反対側の壁際には、ゲームソフトをきっちりと積み上げたパイプラックが置かれている。
その隣にある机の上、パソコンの画面は未だ白いままだ。
「え、どういうこと?」
時々母が片付けているせいか、以前より整っている部屋に変化はない。ただ、何となく空気が違う。
「暫定的だけど、この部屋を異世界と同じ空間に作り替えたんだ。完全に同じわけではないんだけどね。でも、これで向こうでもリモートでこっちのパソコンも操作できるし、ゲームもできる!」
……何だろう。すごいことをしているはずなのに、そう感じない。何だかどっと疲れた気がする。
「それで? 何か私に話があったんじゃないの?」
鞄を持つのとは反対の手をこめかみに添えて、尋ねる。
「そうそう、この部屋なら微弱な魔素もあるし、日中帯はこの部屋にりっくんを放し飼いにしておいても大丈夫だよ。このゲージも底板に魔法陣が刻まれていて、向こうから魔素を引っ張ってきて循環できるようになってるけど、ゲージだけじゃ狭いからね。それに魔素のあるところなら観測用の異世界カメラも使えるし、これまでと同じようにアプリからりっくんの様子を見られるよ」
弟の言葉にぴくりと肩が反応する。きゅー、と心細そうな鳴き声を上げたりっくんから視線を感じるけど、何となく気まずくて、ついと本棚に目を逸らす。
「テイムした魔獣や魔物とはさ、深い繋がりができるから言葉を交わさなくても意思疎通ができるようになるんだ。それは、世界を隔てても変わらない。だから、姉ちゃん、気付いてるんでしょ? それに、りっくんだってわかってるよ」
何も返せないでいると、ブーブーとバイブ音が響く。何気なく弟の方を見ると、スマートフォンの通知を確認している。
「俺、そろそろ帰る時間だから行くね。母さんたちにも一声かけてこないと。それに勝手に部屋のもの触らないでって言ってこなきゃ。あ、そうだ。これ、ナーシーペアーのレシピ」
そう言うと弟はジーンズの後ろポケットから一切れの紙を取り出す。お礼を言う間もなく、ばたばたと部屋を出ていく。そのすぐ後にどたどたと階段を下りる音。
一人と一匹で残された弟の部屋の中。手元の紙に視線を落とす。
「……何よ、これ。読めないじゃない」
すっきりとした綺麗な字で綴られていたのは、日本語ともローマ字とも違う、見たこともない文字。いや、正確には攻略本で見かけたことはある。
でも二週間かそこらで覚えきれるほど異世界語も簡単じゃない。それに最近はアプリでの勉強もサボっているし。
「これ……アリアさんの文字かしら」
「……きゅー」
「ニーナも、元気かしら」
「きゅ!」
「……」
「きゅー?」
さっきまで大人しかったりっくんが、急に存在を主張してくる。初めは様子見だったレスポンスは、次第に積極的なものに変わってきた。
……まあ、そうよね。この気まずさも、元はと言えば、私の八つ当たりが原因だ。りっくんのことも、ずっと気にはなっていた。
弟から受け取ったメモを鞄にしまう。ゲージの置かれている机の前まで移動すると、背筋を伸ばす。りっくんはくりくりとしたつぶらな黒い瞳で、真っ直ぐに私を見上げてくる。
白茶の毛並みは滑らかで、ふさふさと柔らかそうな尻尾には栗色の縦線が二本入っている。その額には、ちょこん、と小さな角が覗く。
久しぶりに真正面から見たりっくんは、相変わらず可愛かった。撫でたい衝動をぐっと堪えて屈み込み、りっくんと視線を合わせる。
「あっち行けって言ったり、無視するような態度を取ったり、色々とひどいことをしてしまってごめんなさい。りっくんさえよければ、また、私と、仲良くしてくれる?」
ゲージに手を添えてそう聞くと、指先に、ふに、と柔らかな肉球が触れる。その瞬間、ぱあ、と乳白色の光が溢れた。
思わず部屋中を見回す。光が収まるとりっくんに視線を戻す。
「きゅるる!」
りっくんは嬉しそうな声をあげる。それにほっとして、ふっと表情を和らげる。……思いの外、緊張していたみたい。
「ありがとう」
「きゅ!」
私の言葉にりっくんは気にしないでとも言いたげに胸を張る。その姿が可愛くて、思わず笑ってしまう。
「あ、仲直り出来たみたいだね」
そこに弟が戻ってくる。
「もう向こうに帰ったんじゃないの?」
「うん。下で色々とやってきた。それに、スマートフォンに帰還魔法の術式をプログラミングしてはあるけれど、この部屋でやった方が負担は少ないし」
そう話す弟のスマートフォンから見慣れた白い幾何学的な文様と光が弾け出る。
「お、もう時間かな。それじゃ、また連絡するね!」
弟がそう言った途端、白い光が部屋を埋め尽くし、スパークした。光が去ったそこには、何も残らない。ただ、整然と片付けられた、弟の部屋が広がっている。
「きゅー?」
呆然としていると、ゲージの中からりっくんが不思議そうに鳴く。視線を向ければ、こてん、と首を傾げる。
「えっと、ちょっと処理が追いつかなくて……。でも、そうね。そろそろ部屋に戻らないと。……りっくんも、来てくれる?」
「きゅ!」
元気に返事するりっくんにほっとして立ち上がる。鞄を肩に掛け直すと、ゲージをそっと持ち上げた。
弟の部屋を出ると自室に向かう。部屋に戻ったら、アリアさん直伝のレシピも翻訳しないと。……攻略本を開くのは、まだ少し躊躇いがあるけれど。
でも、何よりも、まずはりっくんと思う存分触れ合おう。
そう決意を固めつつ、短い廊下を抜けて自分の部屋のドアを開ける。
異世界に行かない日常も、もう一週間は経過した。だいぶ元の生活に戻ってはきたけれど、何とも言えない疲労感と物足りなさが常にある。でも、まだ一歩、踏み出す勇気が出ない。
「きゅ?」
机の上にゲージを置き、隙間からりっくんの頭を撫でる。柔らかな温もりに、ふ、と口元が緩む。
次、異世界行きの打診を受けるのは二日後の土曜日だ。
私はなんて、返事をすればいいのだろう。
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