異世界ボイコット(5日目(1))
「……広世?」
玄関先でいつものように出迎えた母は、驚いた様子で弟を見る。
山田太郎と会社近くの路地裏で別れてから一時間弱。弟と一緒に自宅まで帰ってきた。
電車で、とも思っていたけれどりっくんもいたし、弟は紙袋やゲージ以外の手荷物が見当たらなかったから、結局はタクシーを拾った。
まあそれは別にいいのだけれど、弟も帰ってくるなら貴重品くらい持ってくるべきだと思う。
たた、と弟に駆け寄る母に、意識を目の前に戻す。
「今までどこ行っていたのよ! 急にいなくなるから心配したじゃない。あらやだ、少し痩せたんじゃない? ご飯はちゃんと食べてるの? それにいつ帰ってきたの? ええっと、それから……」
「えーとね、急に異世……」
「立ち話もなんだし、リビングで話さない?」
矢継ぎ早で投げかけてくる母に何か口走りかけた弟の言葉を慌てて遮る。
「え、ええ、そうね。広世も弥生も疲れているだろうし……」
「そうだね、わかった」
私の言葉に二人とも頷くのを見てほっと息をつく。そのまま母は玄関の端に寄る。
空いたスペースから玄関ホールに上がり、入り口脇にある洗面所で手を洗う。その間もずっと、母は落ち着かない様子で私たち……というより弟のことを気にしていた。
いつもなら荷物を置きに部屋に戻るところだけど、今日は弟のこともあるから、母と弟と一緒にリビングに入る。
「おお、広世か。弥生もおかえり」
私たちに気が付いたのか、リビングで寛いでいた父が顔を向ける。でもすぐにテレビに視線を戻すと、カルガモの親子を真剣な様子で見守る。
ただいま、と父に返すとダイニングテーブルに近付く。母の隣の席に腰掛け、鞄はひとまず足元に置いておく。
弟は私の向かいの席まで来るとゲージをテーブルに下ろす。
「はい、これお土産ね」
そう言って両手に抱えていた紙袋もよいしょとテーブルの上に置く。どさどさと中身を取り出した。
乱雑に並べられたのは、普段見慣れたものよりも一回り以上大きいサイズの果物やきのこ、異世界産の食べ物たち。
「えーと……これは? このりんごは、前に弥生が持って帰ってきたこともあったわよね」
「リンゴーアップルとモーモーピーチと、ナーシーペアーとブドーグレープ。あとはビハクダケとか、ビハダケとか……」
「りんごー? そんな品種のりんご、あったかしら……」
「全部、異世界でとれたものだよ。濃厚な魔素を浴びてるから、普通の果物やきのこより、味もいいし、栄養価も高いんだ」
弟の返答に一瞬固まった母は、おろおろと私を見た。私はさっと視線を逸らす。
いつの間にか母の正面の席に座っていた父は、興味深そうにテーブルの上の果物やきのこを眺めている。でも一番興味を惹いていたのは、ゲージに入ったりっくんだった。隙間から指を突っ込み、するすると頭を撫でる。
「広世。お前、今までどこにいたんだ?」
「そうよ! どこに行ってたの!?」
のんびりと問いかけた父の言葉に被せて、前のめりに母も聞く。
「え、どこって異世界だけど。姉ちゃんから聞いてない?」
さらっと、なんでもないことのように弟が告げる。弟の返しにああ、と頭を抱える。
「ん?」
「え?」
「だから、異世界」
一拍遅れて反応した両親は、重ねて言われた言葉に完全にフリーズした。二人の最もな反応に、私は大袈裟に息をつく。
「全く……私がどれだけ気を遣って、両親に伝えていたと……」
「え、そうなの?」
「いや、そうでしょ」
横目で両親を見ればまだ復活しそうにない。私はりんごを取ると席を立つ。
「何やるの?」
「せっかくたくさんあるし、アップルティーでも作ろうかと」
それだけ言うとキッチンに向かう。
前に作ったことがあるし、ここにはちゃんとした包丁もある。アップルティー作りはさくさく進んだ。四人分の紅茶をコップに注ぎ、トレーに乗せるとリビングにまで戻る。
ふっと漂ってくる仄かな甘みが少し懐かしい。
テーブルの上の果物やきのこを軽く端に寄せる。りっくんと目が合ったけれど、まだ若干の気まずさが上回る。
逃げるように目を伏せると両親や弟の前にコップを置く。自分の分も取るとトレーを脇に置いて席に着く。
こくり、と一口飲めば、甘くて濃厚なりんごと芳醇な紅茶の香りが口の中に広がる。いつもの紅茶がワンランクアップしたような気がする。
「やっぱりこれよね」
あれ以来、何度か普通のりんごでも作ってみたけれど、どうしてもこの深さは出せなかった。紅茶に煮出してはいるものの、相変わらずりんごは美味しい。
「異世界って、どういうことだ?」
母よりも一足早くフリーズから回復した父が尋ねる。
「そのまんまの意味だよ。こことは異なる、別の世界。前にネットオークションに『異世界の神様になる権利』が三百円で出品されててさ。まあ、入札してたこと俺も忘れてたんだけど」
「……広世。それじゃお父さんに伝わらないと思うわ」
「え、でも他に言いようなくない?」
「いや、まあ、そうかもしれないけれど……」
もっとこう、違う言い方があると思うの。今のところ、思いつかないけれど。
「神様? 広世は今、その異世界? で神様をやっているのか?」
「うん。といっても管理室みたいなところから、滞りなく世界が運営されているか見守っているだけだけどね」
「なるほど、警備員みたいな感じか?」
「確かに言われてみれば……」
「いや、違うでしょ」
父の言葉に納得しかけた弟に思わずそう返すと両親を見る。首を傾げる父の向かいで母は未だに固まっている。
「ちなみに今日はその神様? の仕事は休みなのか?」
「いや、まあ神様業ってフリーランスみたいなものだから、休みっていう休みはないんだけど」
「なるほどな」
何を納得したのか父が頷く。ゲージの隙間に指を突っ込むとりっくんとの戯れを再開する。
そわそわするりっくんから目を逸らし、母を見る。
「お母さん、大丈夫?」
フリーズしたままの母に声をかければ、は、と短く息を吐き出す。そのまま、ずい、とテーブルの上に身を乗り出した。
「広世、あなた大丈夫なの? 急にそんなこと言って、何か悩みでもあるの? 仕事がうまくいっていないとか? あ、もしかして恋愛関係? そうだとしたらお母さんには言いづらいかしら。でも大丈夫、安心して。ちゃんと話を聞くから」
「いやー、特に悩みとかはないけど。仕事はまあ、大変なこともあるけど、やってて楽しいし。恋愛は別になぁ。今は他にやりたいことがたくさんあるから、あんまり興味ないや」
「じゃあ、どうして異世界なんて、嘘をつくの?!」
「ちょっとお母さん!」
母の剣幕に思わず割って入る。
確かに私も、最初に弟から異世界の話を聞いた時は信じられなかった。だから母の気持ちも少しは分かる。でも、言い方っていうのがあると思うの。
なんとか母を宥めつつ、どう伝えようか悩んでいると、ふ、と鼻先をアップルティーの香りが掠める。
「まあまあ。これでも飲んで落ち着きなさい」
りっくんと触れ合っていたはずの父は穏やかにそう言うと、すっと母の前にコップを差し出す。
父の声とアップルティーの香りに少し冷静になったのか、母はコップを受け取ると席に着く。父はそれを優しく見届けると、りっくんの背中を撫でる。
そっと紅茶を飲む母に、私はひとまず胸を撫で下ろす。
弟に目を向ければ、珍しく真剣な様子で考え込んでいた。母の言葉に傷ついていないか心配だったけれど、ちゃんと向かい合おうとしているらしい。その姿に少し安心して、コップに口をつける。
「うーん、一番手っ取り早く異世界のこと伝えられるのは、向こうに行けばいいんだけど、この人数だと流石に魔素の量が足りないし。他に何かあったかな……あ、そうだ!」
何か思いついたのか、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。
「最近は神様の仕事を遠隔でできないか模索しててさ。スマートフォンから観察できるように、機能を一部追加したんだ。ここからでも、多少は、映るはず」
そう言いながら弟はスマートフォンを操作する。画面をタップするとテーブルの上に置いた。緑深い森が画面いっぱいに広がっているのが見えて、慌てて視線を逸らす。
「これが異世界なのか?」
「うん。ここはオッキーナの森っていってね、今日持ってきた果物やきのこも、ここで採ったものだよ」
「お、次は街並みか」
「この街はパラレリア王国の南方にある街で、陽気な人が多いんだ」
楽しげな父の声が聞こえる一方で、母の反応がまるでない。横目で盗み見れば、眉を寄せてじっと画面を睨んでいる。
「お、次は湖か。湖畔にいるのは……ん? あれは狼、か? ずいぶん大きいな」
「ああ、あれはオーカーミウルフだね。大きくて見た目は迫力あるけど穏やかで物静かな魔獣だよ。でも尻尾はなかなか触らせてくれなくてさ」
聞こえた言葉に思わずスマートフォンを見る。画面の中に映っているのは、スカイグレイの柔らかな毛並みの狼。ふ、と視線を上げた相貌にはアガットの瞳が片目だけ覗く。
「————」
思いがけず、息を飲む。以前見た狼と同じかは分からないけれど、一瞬面影が重なった。
とりあえず無事そうな姿にはほっと息をつく。でも、片目に残る傷跡に小さく唇を噛んで目を逸らす。その視界の隅で、ぶつん、と画面がブラックアウトした。
「あーここまでかー」
弟はスマートフォンを手に取るとジーンズのポケットにしまう。
「いや、なかなかに見応えがあったな」
満足そうに頷く父の向かいで、母は俯いたまま難しい顔で黙り込んでいる。ややあってから、顔を上げて弟と目を合わせる。
「……その、異世界? ってどんなところなの? 危険ではないの?」
「さっき見た通り、自然も多いし、のんびりしてていいところだよ。まあ、たまに調子に乗るやつもいるけど」
「調子に乗る?」
「魔物がマウント取ってきたり、冒険者が腕試しや小銭稼ぎで手当たり次第に魔物や魔獣を襲ったり」
いたわね、そんな魔物。確かそんな話をニーナたちがしていた。その原因だった密猟者も調子に乗った人たちだったのね。
でも、そんな話をしても母の不安を煽るだけだと思う。
案の定、母の眉間の皺が深くなる。
「それは……危なくはないの?」
「まあ、その世界の出来事に俺は直接関われないから、俺が相手をする、ってことにはならないし」
「え、そうなの?」
初めて聞いた情報に思わず口を挟む。
「うん。文化や文明、世界を発展させるような価値観の創造や物の製造の補助はできるけど、実際に世界を回している人たちの運命には関与しちゃダメなんだって」
「でも、広世ってよく現地の街に行ったり、人に会ったりしているのよね? それに、ログハウスまで建ててたし」
「それくらいなら、まあいいかなって。それにお忍び観光くらいするでしょ、普通」
……普通、とは?
首を傾げる私の隣で、母がじとっとこちらを見る。
「そんなことを話すってことは、弥生も知っていたのね。そういえばさっき広世も言っていたわね。それに広世から連絡があったって言ってたのも弥生だし、もしかしてその時から? どうしてもっと早く教えてくれなかったの!」
「えっと、異世界なんてどう説明すればいいか分からなくて……」
母の勢いに気圧されつつも、それだけ返す。目を伏せ、誤魔化すようにアップルティーを飲む。
舌に絡みつく甘さの中にりんごの酸味がふっと鼻から抜ける。その後にも残る、芳醇なアールグレイの香り。やっぱり紅茶は美味しい。
はあ、と母が息をつく。左頬に感じていた視線が逸れる。
「それで、あなたちゃんと生活できてるの? ご飯は? 街は大丈夫?」
「生活に問題はないよ。ある程度のことは魔法でできるし。それこそ食べ物だって魔法で出せるし、それに街に行けば食堂もあるからね。そこのリンゴーアップルのパイがまた絶品でさー」
「広世、そこはとりあえず大丈夫だから、街の話をお願い」
きっとニーナたちが持ってきてくれたアップルパイよね。確かに美味しかったけれど、今はその話ではない。脱線しかけた弟を止めて先を促す。
「街かー。今までの神様たちが尽力してくれたおかげで、水道も下水施設も小さい町まで行き渡ってるし、どこも綺麗だよ」
「確かに、さっき見せてくれた街並みは整然としていて綺麗だったな」
りっくんの背中を撫でながら父が同意する。
「それに、病院とかギルドとかインフラもそれなりに整っているし。まあ、電車とか車はなくて馬車移動が主だから、移動はちょっと大変だけど。でも俺その気になれば神の間経由でどこでも行けるし。あ、あと魔の国ではドラゴン輸送ってのがあって、ドラゴンが人や物を運んだりもするんだ」
「どらごん?」
母はきょとんとしてそれだけ返す。うん、まあ、そうなるわよね。前半はまだいいとして、私も後半はよく分からない。
「飛行機の安全性には敵わないけど、風が気持ちいいし、意外と快適だったよ?」
「……広世、そういうことじゃないと思う」
「え、そうなの?」
うん、ドラゴン? の乗り心地とか、どうでもいい。
「まあ、生活は割と不便はなくて普通にできてるし、街も綺麗で安全だよ」
弟の言葉に母は思案げに黙り込む。
「でも、こうして帰ってきたってことは、その異世界は、もういいってことよね?」
しばらくしてから母が聞く。弟に投げかけた視線には僅かな期待が混ざっている。
「いや、まだ向こうで取り掛かっていることも中途半端だし、この後帰るよ。今日は新しく構築した魔法の術式のテストも兼ねて帰ってきただけだし。今、向こうの世界で通信環境や運営システムの整備を進めててさ。まだ全然終わってないんだけど、このプロジェクトが完成すればこっちの世界からリモートで管理できるようになるはずなんだ。それを目標に、頑張っている最中なんだ」
「でも、それって、わざわざ広世がやらなくたっていいことじゃない?」
「んー、まあ、そうかもしれないけど。でも、オークションで落札したのは、たまたまだけどさ、やるからには、もっといい世界にしたいじゃん。それに、こっちでは出来ないことも色々出来るし、毎日楽しいんだ!」
きらきらと目を輝かせて話す弟に母は口を噤む。眉を寄せて下を向く。
「……こうなると広世も頑固だからなぁ。まあ、仕事に一生懸命なのはいいことじゃないか」
「だからって……!」
父の言葉に反論しかけて、母はまた黙り込む。アップルティーの入ったコップをぎゅっと握った。
「……心配は、心配、なんです」
絞り出すように零す母に、父は優しく微笑む。安心させるように握り込んだ手に触れると、今度は弟を見る。
「ちなみに、広世はいつまでこっちにいられるんだ?」
「しまった、今って何時?」
「もうすぐ二十二時だけど」
リビングの壁に掛けられた時計を見て時刻を伝える。
「ごめん、今日はもうあんまり時間ないし、部屋でやりたいことあるからもう行くね。ほら、姉ちゃんも!」
「え、私も?」
「父さん、ごめん。ゲージ持っていくね」
「ちょっと、まだ話は終わってないわよ!」
「今度帰ってきた時にまた聞く!」
弟はゲージを手に取ると母にそう返す。そのまま慌ただしくリビングを出る。
「姉ちゃん、早く!」
弟の声に戸惑いがちに両親を見る。視線が合うと父は小さく頷く。その場は父に任せて、足元の鞄を取ると、弟を追いかけてリビングを後にした。
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