異世界ボイコット(1日目〜4日目前日)

 ピピピピピ、とどこか遠くで音がする。ベッドサイドに置いたスマートフォンに手を伸ばし、アラームを止める。

 もっと寝ていたいところだけど、今日は仕事だ。そろそろ起きて、準備を始めないと。

 のそりと、ベッドの上で起き上がる。


「……なんだか、寝た気がしないわね」


 いつもと変わらないはずなのに、どうにも頭がすっきりしない。まあ、確かに今日もよく眠れなかった。欠伸を噛み殺して、大きく伸びをする。

 眠い目を擦って、ベッドから降りる。一通りの朝のルーティーンを熟すと、朝食を食べにリビングに向かう。


 リビングでは父と母がダイニングテーブルを囲んでいた。私はキッチンに入ると朝食用のグラノーラをガラスの器に注ぎ、牛乳を入れる。スプーンを持ってリビングに戻ると母の隣に腰掛ける。


「そうだ、お母さん。今日の夜は家でご飯食べるから」


 グラノーラを食べながら、母に伝える。


「今日は外でご飯を食べてくる日じゃないの?」

「そうだったんだけど、今日は……」


 言葉を濁す私に母は不思議そうに首を傾げる。

 最近は毎週火曜日と木曜日は異世界に行くことになっていたから、晩御飯はいらないって言っていたのよね。でも、流石にまだ、異世界に行く気分にはなれない。

 ざくざくとした食感を噛み締めながら、そっとため息をつく。


「そういえば、広世からあれから連絡はあるの?」

「あー……、うん。元気そう、だったよ?」


 つい一昨日も異世界で会っているとは言えず、それだけ言葉を返す。

 母は小さく、そう、と呟くと牛乳が入ったグラスに手を伸ばす。母の向かいで、父は静かに新聞を読んでいる。その前に置かれたコップから、コーヒーの湯気がゆらりと立ち上った。


 私は朝食を食べ終えると、一旦部屋まで戻る。出社の準備を整え、重い足取りで家を出た。

 あの日以来で初めて、今日は異世界への誘いがある日だ。少しだけ憂鬱な気分を抱えて、会社に向かった。




「……やっぱり、神束さん、疲れてるでしょ? ちゃんと夜、眠れてる?」


 出社するなり、隣席の同僚は私の顔を覗き込んでそう聞いてくる。


「いつも通りですよ?」


 ここ二日は寝付きが悪いものの、それ以外は至って普通だ。ちょっと寝起きもすっきりしてないけれど、体調面に問題もない、はず。

 私は机の上にハンドバッグを下ろすと席に着く。


「ほんとに?」


 それでも同僚は疑うような目を向けてくる。


「……まあ、昨日と一昨日はいつの間にか寝落ちしていましたけど」


 じっと右頬に感じる同僚の視線に、若干の居心地の悪さを感じつつ、パソコンに電源を入れる。


「私もスマホとか見てるとついついやっちゃうけどさ。ちゃんと寝ないとダメだよ?」


 私がそれ以上話す気がないと察すると、同僚はため息をついてカタカタとキーボードを叩き出す。


「それにしても、今日はリュックじゃないんだね。今日は例のアクティビティーに行かないの?」


 アクティビティー……て、なんのことだったかしら。


「えっと、ああ、そうですね。今日は、いいかなって」


 社内システムを立ち上げようとした手を止めかけて、慌ててそう返す。そういえば、同僚には異世界に行っていることをそんな話で誤魔化していた。


「そっか。ああいうのって一回行かなくなると、足が遠のいちゃうからなー」


 何気なく零した同僚に何も返せないまま、社内システムを開く。今日のスケジュールを確認した。


 リモートワークにフリーアドレス制も導入しているせいか、執務室はがらんとしている。私のチームは一応、固定席を割り当てられているから、他のブロックよりは席が埋まっているけれど、それでも人は少ない。


 同僚に気付かれないように、そっと息をつく。

 彼女の言葉が、妙に耳についた。




『えー、姉ちゃん、今日はこっち来ないの?』

「ええ。ごめんね。ちょっと忙しくて」


 終業後の十八時過ぎ。女子トイレの一番奥の個室で弟からの電話を受けると、そう返す。

 本当はそれほど仕事が詰まっているわけではないのだけれど、今日は、異世界はご遠慮願いたい。

 電話の向こうで、弟が何か考え込むように黙り込む。


『姉ちゃん、この前のさ……』

「まあ、じゃあ、そういうことだから!」


 少ししてから何か言い出した弟の話を強引に切り上げ、電話を切る。この前の……多分、密猟者とか異世界の話だとは思うけれど、今は聞きたくない。

 スマートフォンを持つ手を下ろす。トイレのドアに寄り掛かる。


 今日は、これでどうにかなったはず。でも問題は土日ね。どうやって断ろうかしら。

 眉間に寄りかける皺をほぐしながら、大きく息をつく。なんだか、とても気が重い。


 結局、土曜日には学生時代の友人たちとの女子会の予定が入って、異世界行きは免れた。いつもは一次会で帰るところ、今回は最後のカラオケまで残ったから皆、驚いていた。


 久しぶりの女子会は楽しかったけれど、女子との会話はとても疲れる。慣れないカラオケにまで行って、変な体力も使ったし。そのせいか翌日の日曜日は非常にぐったりしていた。

 異世界に行く余力もなく、弟からの誘いは丁重にお断りした。

 これで通算三日、異世界行きを断ったことになる。


 日曜日の夜。ベッドに寝転がって、スマートフォンを操作する。待ち受け画面の隅にあるアプリがふと目に入り、眉を寄せる。

 はあ、とため息をつく。


「一回行かなくなると、足が遠のく、ね……」


 今頃になって、同僚の零した言葉が蘇る。


「……りっくんは、元気かしら」


 ぽつりと呟き、画面の隅にある、攻略本アプリのアイコンを眺める。


 あの日以来、りっくんの動画は全然見ていない。それどころか、攻略本アプリを開いてもいない。少し前までは寝る前や隙間時間によくチェックしていたのに……。そういえば、攻略本もリュックに入れたままだ。


「ニーナやアリアさん、あの蜜蜂もどうしてるかしら。それに……」


 思い出したアガットの瞳に頭を振る。

 私はスマートフォンをロックすると、ベッドの上に放る。薄手の掛け布団に肩まで包まり、全てを遮断するように目を閉じた。




 翌朝も、寝起きは悪かった。それに最近、なんだか眠っても疲れが取りきれていない気がする。化粧ノリも良くないし……。


「ちょっと、神束さん。お疲れモードだけど、大丈夫?」

「はい。大丈夫です」


 恒例になりつつある隣席の同僚との朝のやりとりを終えて、席に着く。

 別段、普段と変わらないはずなのに、なんでこんなに疲れているのかしら。今まで、どうやってリフレッシュをしていたっけ。


「そうそう。今日は中途採用の新人くんが来る日だから、シャキッとね」

「ああ、例の……」


 社内システムのスケジュールを立ち上げる。チーム内の予定は一覧で見ることもでき、先週末から新しく名前が追加されていた。その名前が目について、マウスを操作する手を止める。


『山田 太郎』


 なんだかとても、見覚えのある名前だ。いや、でも、どこにでもある名前だし……まさかね。


「あ、そろそろ来るみたい。ちょっと迎えに行ってくるね」

「わかりました」


 席を立つ同僚にそう返し、仕事の準備を再開させた。

 しばらくして同僚が連れてきた中途採用の新人は真面目な好青年、という感じの男性だった。軽く自己紹介を交わすと、同僚はオフィスの案内をする、と新人を連れていく。


「それで、お昼の時間は特に決まってないんだけど、大体十二時から取る人が多いかな。でもまあ、十四時くらいまでならいつでも大丈夫。自分の業務と折り合いつけて適当に取ってね。時間も一応は一時間ってなってるけど、多少オーバーしても問題ないし。ちなみに山田くん、今日お昼は?」

「コンビニで買ってきました」

「じゃあ、初日だし、一緒に食べよう。ほら、神束さんも」

「え、私もですか?」


 午前中の作業が一段落した十二時半過ぎ。自席でカロリーメイトを食べようとしていたら、戻ってきた同僚に捕まった。ランチバッグを取り出した同僚に、そのままリフレッシュルームまで連行される。


「あの、自分もご一緒して本当にいいんでしょうか」


 席に着くなり飲み物を取りに行った同僚を待つ間、新人の彼は少し困ったように聞いてくる。


「まあ……大丈夫じゃ、ないでしょうか」


 斜め前に座る彼に返しながら、カロリーメイトの箱を開ける。


「お待たせ。今日はレモングラスだったよ」


 同僚はそう言うと、三つ持っていた紙コップをテーブルの上に置く。そのままレモングラスティーを私の前に、水の入った紙コップを新人の前に移動させる。


「ありがとうございます」

「すみません、恐縮です」


 同僚は私の隣の席に座ると、カフェラテを引き寄せる。ランチバッグからお弁当箱を取り出した。


「それで山田くんてさ、履歴書の職歴に異世界がどうとか書いてあったらしいけど、本当なの? 面接でも話してたんでしょ?」


 卵焼きを食べながら、同僚は向かいの席でおにぎりのフィルムを剥がす新人に聞く。あまりの直球な質問に、私は飲みかけのレモングラスティーを吹き出しかけて、なんとか堪える。


 横目で同僚を見れば、興味津々に身を乗り出している。おそらくきっと、この話を聞きたくて、彼を今日のランチに誘ったのだろう。

 私はコップを置くと、もしょもしょとカロリーメイトを食べ始める。


「ああ、そうですね。まあ、もう九年近く前の話ですが」


 新人はなんでもないことにように、さらっと返す。


「ねえねえ、異世界って本当にあるの?」

「まあ、明らかにこことは違う世界でしたね」

「えー、ほんとに?」


 言葉ではそう言うものの、同僚の目は好奇心に輝いている。その姿は誰かを彷彿させた。


「なんだか、元々そこにいた神様の話だと、この世界には惑星みたいな形で、他にも複数の世界が存在しているらしいです。俺が行ったところは自然豊かな場所でした。変わったところで言うと、月みたいな衛星が二つありましたね」

「なにそれ。そうなの? にわかには信じがたい話だね、神束さん」

「そ、そうですね……」


 急に話を振られて動揺する私に、同僚は不思議そうな顔をする。でも新人の話への興味が勝ったのか、さらに質問を重ねていく。

 同僚の意識が移ったことに、ひとまずほっと息をついて、レモングラスティーを一口飲む。


 自然が豊かとか、月みたいな衛星が二つあるとか言っていたし、彼のいう異世界って、先週まで行っていたあの世界と同じかしら。攻略本で『山田太郎』の名前をよく見かけた気もするけれど、やっぱり同一人物なのだろうか。


 二人の話を聞き流しながら、ぼんやりそんなことを考える。

 それにしても、もしそうだとしたら世間って狭いわね。


 新人は同僚からの質問にも、真正直に言葉を返していく。彼の話し方と態度はとても真摯で、同僚も興味深そうに、真剣に話を聞いている。

 私としては、今は異世界のことなんて聞きたくないのだけれど、途中で席を立つのも憚れる。逃げ場もなく、仕方なく大人しく残りのカロリーメイトを食べる。


 結局、ランチタイムはずっと、新人の異世界談義が続いた。弟以外から異世界の話を聞くのは初めてだけれど、なんだか不思議な感じがする。

 ……ていうか、異世界って、こんなオープンにしていいのだろうか。


「異世界、ね」


 二人に気付かれないように、小さく呟く。


 明日はまた、弟から異世界へ誘いがある日だ。色々気がかりがあるといえばあるのだけれど、今はまだ行く気分にはなれない。


 そっと、息をつく。

 明日はどうやって、断ろうかしら。

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