6日目(1) 雨と森と青い花

「これでよし、と」


 ばん、と冷蔵庫のドアを閉めれば、ばふ、と冷たい空気が漏れる。

 昨日と同じ、午後十三時。近所の公園からログハウスの玄関に転送されてきた。とりあえずリビングのキッチンまで行き、持参してきたバターとバニラアイスを冷蔵庫にしまう。


「それにしても……」


 下ろしたリュックを持って立ち上がり、窓を見る。

 濡れたウッドデッキの先。窓の向こうに広がる景色が、霞みがかったように白くけぶる。

 しとしとと降り注ぐ雨は音もなく池の水面に幾重にも重なる波紋を描く。その奥に立ち並ぶ新緑の森は、白い景色の中で萌黄色に滲む。細かな雨粒がぱちぱちとリズムを刻んで葉を揺らす。


「こっちでも、雨は降るのね」


 少し曇ったガラス窓には、四角く縁取られた雨の景色が広がっている。


「まあでも、雨くらい、降るわよね」


 呟いて、窓から空を見上げる。

 ここには、空も雲もある。池や川、湖だって何もないところからは生まれない。それにどの世界にだって、水は必要になる。

 当たり前のことではあるのだけれど、今まで晴れた空しか見てこなかったから、なんだか変な感じがする。


「それにしても、どうしよう……」


 一歩足を引き、目を細める。

 今日もログハウスの中で攻略本を読んで、魔法陣を確認しようかと思っていた。けれど。


「広世が何か、言っていたのよね」


 えーと、何だったかしら。

 こめかみに手を当てて、どうにか記憶を辿る。


「えーと、雨の日だけ採れる、美味しい食べ物があるとか……」


 確か、なんとかって花が目印で、なんでもその花は雨の日にしか咲かないらしい。

 ……うん。よく覚えていないわね。もっとちゃんと聞いておけばよかったかしら。

 思い出すのを諦めると、スマートフォンを取り出す。攻略本アプリを立ち上げた。アプリ内には検索機能も付いている。『雨 花』とかで出てくればいいけど。


「ああ、あった。これね」


 検索画面に表示されたのは、青い色が印象的な風景画。この画像にはなんとなく見覚えがある。確か、攻略本の観光案内のページにも掲載されていた、ような気がする。異世界の絶景十二選、だっただろうか。

 私はスマートフォンから目を離すと顔を上げる。


「でも、雨なのよね」


 窓の外は、相変わらず霧雨が降っている。


「どうしようかしら……」


 雨が降っていると、どうにも外に出るのを躊躇ってしまう。濡れるのも嫌だし。

 弟は、他にも何か言っていた。美容にいい、だったかしら。それは、少し気になるわね。

 リュックの中を覗き込む。幸い、折り畳み傘は持ってきてはいる。雨でも外に行けないことはない。


 もう一度、窓の外を見る。

 雨が優しく窓を撫でつける。銀鼠色の空にはところどころ白灰色の雲が覗く。少し明るくなってきているから、この雨もそう長く続かないのかもしれない。


「……せっかく、広世が教えてくれた情報だし」


 無下にするのも申し訳なく思う。

 しばらくその場でうんうんと悩む。小さく息をつくと、リュックから折り畳み傘を発掘する。やっぱり、弟の言葉を無視してここで読書するのも悪い気がする。それに美味しくて、美容にもいいらしいし。


 窓に背を向けながら、攻略本も取り出す。入り口近くの本棚に立てかけた。万が一、濡れでもしたら大変だ。……他に、置いていくものはないわよね。


「あとは、大丈夫かしら」


 鞄の中を確認してから、リュックを背負う。玄関まで来ると、ゆっくりとドアを押し開ける。


 その途端、ひんやりした空気が肌を差す。

 霧のように細かな雨は、音もなく地面に吸い込まれていく。池の水面と囲む草花の葉が静かに揺れる。勢いは弱いけれど、傘を差さないと濡れそうだ。


 私は折り畳み傘のカバーを外すと、リュックの中にしまう。背負い直し、傘を広げる。ターコイズ色の傘は、波型の縁を小さな白いリボンとレースの模様で飾られている。


「さてと」


 雨が降っているのは残念だったけれど、仕方ない。まあ、こんな日にしか採れないものもあるみたいだし。

 スマートフォンに視線を落とす。表示したままだった検索画面から、紹介ページを開く。下の方には、アクセスマップがある。タップすれば、連動してアプリ内のマップが展開される。


 ナビを開始させると赤い三角形がぱっと表示される。……これが、現在地だったかしら。

 目的地にはピンマークが付いて、三角形を起点にして道筋が線で結ばれる。大まかな位置情報を掴むと、顔を上げる。


 少しぬかるむ足元に注意しながら、ログハウスから続く小径を進む。その先に広がる森に向かった。



 ぱちぱちと深緑の葉を揺らす雨が跳ね返り、雨粒が傘を叩く。ログハウスを囲んでいた白樺の樹林を抜けて、辺りは檜皮色の木々が立ち並ぶ。濡れた緑はより色を濃くして、湿った草の匂いが立ち込める。


「レインブーツとか、用意しておけばよかった」


 立ち止まり、足元を見る。地面を覆う短い草から垂れる雫が、じっとりとスニーカーに染み込んでくる。

 調べれば、靴や衣服を乾かせるような魔法もあった気がする。でも、ここで探すのは、ちょっと手間がかかる。それに魔法を使うと、疲れるし。


「それにしても」


 足元は諦めて、周囲を見回す。空には薄墨色の雲が広がり、霧のような雨が落ちてくる。視線を森に動かせば、深い緑に影がかかる。


「この時間なら、前に会ったうさぎとか、色々な動物も見られるかと思ったのだけど」


 森の中は思っていた以上に静かで、雨音さえも地面に飲まれて消えていく。雨粒を弾く木立だけが、時々囁くような小さい音を立てる。


 今日は雨だから、ここにいる動物たちも息を潜めているのだろうか。他に生き物がいない、なんてことはないだろうし、出会えないのは少し寂しい。


 私は傘を真っ直ぐに持つと、スマートフォンに視線を落とす。

 一応、大体の方向は確認して歩いてきたけれど、今、どのあたりかしら。

 ブラックアウトされていた画面のロックを解除すれば、攻略本アプリの地図が表示される。


 森の南西部。現在地を示す赤い三角形がちかちかと点滅している。そこからさらに南西に、まち針みたいなピンのマークが表示されている。


「ここが、目的地だから……」


 よかった。もう、そう遠くはないみたい。

 地図の右上に表示されている方位磁石を確認する。


「こっちね」


 スマートフォンから視線を上げる。傘を持ち直すと、雨降る森をさらに進んだ。



 ぴちょん、と足元で雨水が跳ねる。ぎゅっと湿った草を踏みしめる。時々スマートフォンの地図で方向を確認しながら、ゆっくりと森の中を歩いていく。


 次第に埃っぽい雨の匂いの中に、水気を含んだ緑と、仄かな花の香りが混ざる。

 そのままのんびり歩いていくと、檜皮色の木の向こうに露草色が覗く。


 近付くほどに、雨とは違う水の匂いが強くなる。空気が一段と冷え込み、ひやりと冷たい風が緩やかに肌を撫でる。


「そろそろかしら」


 一度、スマートフォンで位置を確認してから、前を向く。

 ざっと踏み込む地面に、千草色の細い葉っぱから雫が落ちる。ぱたた、と落ちた雫がスニーカーを濡らす。ぬかるみに足を取られないように気を付けながら、木の間に見えた場所を目指す。


 不意に、ふ、と森が途切れた。ぽっかりとあいた空間に、飛び込んできたのは、萌葱色と露草色。

 そ、と足を踏み入れる。傘をずらし、真っ直ぐ前を見る。広がる景色に、思いがけず息を飲む。


 檜皮色の木々に囲まれるようにあったのは、水溜りみたいな、浅葱色の浅い池。大きく広げた萌葱色したハート型の葉の隙間、森の木々が映り込む。水面に浮かぶ露草色の花は、ハスのように何枚もの花びらを重ねて、大輪の花を咲かせている。

 霧のような雨の中、蒼い景色が淡く白く霞む。


 そろりと池に近付く。萌葱色の葉っぱの上、ころころと雨粒が転がる。ハスみたいな花びらは、外側から内に向けて滲んでいくように、露草色から白い色に変わっていく。


 この花の根元に、美容にいい食べ物があるらしい。え、これ、池の中に入らないとダメかしら。

 そんなことを考えながら覗き込んだ、花の中心。花弁に守られて、透明な丸い玉が包まれている。

 スマートフォンを一旦、ポケットにしまう。そーっと手を伸ばして、慎重にそれを取り上げる。


「何、これ?」


 丸い玉をひとまず、傘を持つ手の親指と人差し指で摘むように持つ。あいた手でスマートフォンを取り出した。

 攻略本アプリでこの場所についての詳細ページを開く。何か書いてあるといいのだけど。


「あった。これね。えーと、雨の……雫?」


 首を傾げて、表示したページを確認する。そのままの名前が記載されているけれど、それ以上の情報がない。結局これってなんなのだろう。


 改めてちゃんと丸い玉を見ようと、スマートフォンをポケットにしまう。傘を持つ手を入れ替えて、右手で丸い玉を高く掲げる。透明な玉の中には、波打つような揺らぎがある。……本当に、なんなのだろう、これは。


「あ、カミツカにゃ!」


 その時、聞き覚えのある声で、聞き慣れない口調の言葉が聞こえてきた。

 驚いて振り返ったのと、たた、と目の前に飛び込んできたのは、同時だった。


「こんにゃところでにゃにしてるにゃ?」


 好奇心旺盛なアンバーの目が私を見上げてくる。それにつられて、目深に被っていたフードがずれ、ふわふわとした、柔らかそうなキャメルの髪と猫耳が覗く。


 そこにいたのは、以前、湖畔で遭遇した、ニーナだった。雨が降っているからか、ワインレッドのマントを羽織っている。


「にゃーにゃー、どうしたにゃ?」


 答えられずにいる私に、ニーナが重ねて聞いてくる。


 えっと、これ、どうしよう……?

 突然の来訪と口調の変化に戸惑いながら、私は返す言葉を探した。

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