4日目(1) 異世界と弟と
翌日の仕事終わり。私は女子トイレの個室でドアに寄りかかりながら、いつも通り弟からの電話を受けた。
「……て言うわけでね。今日はそっちには行かないで、大人しく家に帰るわ」
昨晩の母とのやりとりを弟に説明して、そう伝える。
「そっか、わかった。俺もまだ終わってないし、ちょうどいいや」
弟はやけにあっさりと了承する。その声に重なるように、さわさわと木の葉がささめき合う音がする。不思議に思って、首を傾げる。
「広世。あなた、今どこにいるの? それに、何をしているの?」
「え、今? ちょっと、森まで来てるんだ。今、作ってるものがあってさ」
「作っているもの?」
ますます疑問しか出てこない。
なんだろう。弟が言うと、何か碌でもないことを企んでいるようにしか聞こえない。……いや、まあ、きっと実際にはありがたいことではあるんだろうけれど。
「まあ、次に来た時に楽しみにしててよ。ちなみに、明日は来るんだよね?」
寄りかけた眉間の皺を指でほぐし、スマートフォンを持つ手を入れ替える。
「……ええ、そのつもりよ。これからは二日に一度くらいのペースで、そっちに行ければって思ってる」
私としても、親に心配をかけるのは本意ではない。週三日程度なら、まあ、母もそんなには不審がったりしないだろう。
「うーん、そっか。まあ、母さんたちをこれ以上心配させるのも悪いし、仕方ないか」
渋々同意された電話の向こうで、とんとんと音が重なる。……一体、何をしているのだろう。
「わかった。じゃあ、また明日、電話するよ」
そう言うと弟は、じゃあね、と電話を切る。私はスマートフォンを耳から離すと、弟の電話番号が表示されたままの画面を見る。
なんだか、いろいろ流されてしまった気がする。出先みたいだったし、取り込み中だったのだろうか。それなら、電話をかけてくる時間をずらしてもよかったのに。妙なところで律儀なんだから。
そっと息をついて、ドアから離れる。女子トイレを後にして、そのまま、真っ直ぐ家に帰った。
そして一日明けた、次の日の定時過ぎ。弟からの電話を受けると、異世界に召喚された。
×××××
ごうごうと耳元で風が唸る。瞼の裏の白い光が消えるのと同時に、ふさり、とスニーカー越しに柔らかな土を踏みしめる。ふっと鼻先を掠めたのは、むせ返るような草の匂い。
私はゆっくりと目を開ける。
真っ先に飛び込んだのは、檜皮色の背の高い樹木。新緑色の若葉がたおやかに風に揺れる。隙間から覗く群青色の空に仄かなオレンジが滲む。遠くの空で、レモン型の月と小さな細い三日月が白金色に輝き出す。
目の前に広がるのは、見慣れ始めた森の風景。一日来なかっただけだというのに、どこか懐かしく感じる。すっと吸い込んだ空気は涼やかだ。
不意に、さっと視界の隅に何かが飛び込む。背の高い草に覆われた地面に、私が来た時と同じ、幾何学的な白い文様が浮かぶ。
ぶわりと渦を巻くように突風が舞い上がる。目が眩むほどの光が弾けた。反射的に目を閉じて顔を背ける。
「よっ、と」
よく知る声が降ってきて、視線を向ける。
風と光が急速に収束し、崩れるように足元の白い文様がかき消える。たん、と慣れた様子で地面に降り立つ。ふわりと跳ねた焦げ茶の髪が、夕暮れに淡く透ける。
「え、なんで来てるの?」
思わず、声が出た。
そこには、何故か弟がいた。さっきまでいた白い部屋で会った時と同じ、ラフな格好のままで。え、本当になんでいるの?
「ちょっと、その顔やめてよ。傷つくじゃん」
私を見た弟が、抗議の声をあげる。無意識に眉を顰めていたらしい。眉間をほぐしながら、息をつく。
「ちょっと待って。どういうこと? 何をしに来たの?」
思い返せば白い部屋で話している時から、弟はどこか落ち着かない様子だった。預けていたはずの荷物もなかったし、詳しく話を聞こうとしてもはぐらかすし。
「いやー、さっきはちゃんと話せなかったんだけどさ。姉ちゃんに見せたいものがあって、俺もこっちに来たんだ。案内するから、ちょっとついてきてよ」
弟の言葉に首を傾げる。
「見せたいもの? それに案内って?」
そういえば昨日の電話越しの弟は、何かを作っている様子だった。それと関係あるのかしら。案内するくらいなら直接送り届けてくれればいいのに、とは少し思うけれど。
「あー、前にも言ったけど、細かい場所を指定するには、その場所とつながりを作らなくちゃいけないんだ。俺だけならいいんだけど、姉ちゃん、まだあそこには行ったことないし。一度ちゃんとその場所に行って、位置情報を取得する必要があるんだ」
疑問が顔に出ていたのだろうか、弟が説明してくれる。
「……なるほど?」
頷きつつも、首を傾げる。
そういえば、前にもそんな話を聞いたことがある気がする。すっかり記憶から抜け落ちていたわ。
「まあ、とりあえずついてきてよ」
そう言うと弟は先導するように森の中を進んでいく。その背中をしばし見送る。今日もきのこやりんごや桃を採りに行きたいのだけど……これ、ついて行かなくちゃダメかしら。
「ほら、姉ちゃん。早く!」
その場に留まって悩んでいると、少し先を歩く弟が手招く。
私は小さくため息をつく。仕方なく弟を追いかけて、森の奥に向かった。
檜皮色。樺色。白樺色。立ち並ぶ木々が次々と幹の色を変えていく。青々と繁る葉っぱも深みを増して、さわさわと風にささめく。
夕暮れ間際の森の中。弟の少し後ろを歩いていく。
ここに来るまでの道すがら、何度か訪ねたきのこ狩りスポットやりんごや桃などの果実がたわわに実る果樹スポットを経由した。そのおかげで、エコバッグの中はきのこや果実がたくさん入っている。もしかしたら、弟が気を遣ってくれたのかもしれない。
「それでさ、この前街に行ったときに……」
弟は、さっきからずっとこの世界での出来事を話している。あまり興味がないから、適当に相槌を打ちながら景色を眺める。
薄暗い森には白樺の木が続く。白っぽい幹が薄闇に映えて、ここだけ少し明るい。見上げた先には静かに葉を揺らす、若草色と深緑色。
紺青の空に、オレンジ色に縁取られた雲が流れていく。
森でもこちらの方面には来たことがなかったけれど、今度ゆっくり散策してもいいかもしれない。
「で、大工のクイダさんがさー」
弟の異世界話はまだ続いている。その声音はどこか弾んでいる。前から思ってはいたけれど、弟はこの生活を随分と満喫しているらしい。楽しそうでなによりだ。
適当な相槌に時々指摘を受けながらも、ゆっくりと森を歩いていく。
日が沈んで暗くなった白樺の森をランタンの明かりを頼りに進んでいく。
しばらくすると、不意に、ぱっと視界が開けた。
「え?」
突然広がった目の前の光景に、目を丸くする。
それまで続いていた森の木々は途切れ、黄色や白、真紅や薄紅色の野花が咲き乱れる。色とりどりの花に囲まれるように水を湛える小さな池には、紺青の空が映り込む。
その向こうに、一軒のログハウスが建っていた。
「何これ?」
前面にはウッドデッキがあり、池の側まで大きく張り出している。家の近くには、りんごや桃、みかんや梨などの果樹が植えられ、いくつかの実を付けている。
何日か森を彷徨っていた最中、こんな風に家が建っているところなんて見かけたことはない。
「ここは?」
弟を見れば、どこか得意げな様子で胸を張っている。
「これを姉ちゃんに見せたかったんだ」
「これを?」
「うん。頑張って作ったから」
照れ臭そうに笑って弟が言う。その言葉に、思考が一時停止した。
「姉ちゃん、いつも森を彷徨ってばかりだしさ。拠点になるところがあれば便利かなって思って。昨日急遽作ったんだけど、ちゃんとできてよかったよ」
……気のせいかしら。今、おかしな言葉が聞こえたような気がする。
「え、なんて?」
「だから、頑張って、家を作ってみたんだ。あ、安心してよ。一応、街の大工の人にも話は聞いたし、問題はないと思うよ」
聞き返した私に、弟は別になんでもないことのように返す。いや、家の出来上がりを心配しているとか、そういうわけではなくて。ああ、本当にもう……。
「え、広世。なんなの? あなた」
こう、次から次に理解の追いつかないことをやらないでほしい。
「魔法を使えば、意外と簡単に組み立てられるよ? 材料と、構造を理解するための知識はそれなりに必要だけど。それに、俺、一応はこの世界の神様だし。割と自由に色んなものを創造できるんだよねー」
「ああ、そう」
きりきりと痛む頭に、こめかみに手を当てる。
魔法が便利なのか、弟が規格外なのか、どっちなのかしら。とりあえず、家を建てた件は聞き間違いではないらしい。まだ何も始まっていないはずなんだけど、なんだかどっと疲れた。
「とりあえず、中を案内するよ」
そう言うと弟はログハウスまで続く小径を先導して歩いていく。
私はそっとため息をつく。弟の後を追って、ログハウスまでの道を進んだ。
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