異世界帰還後(3日目)
「姉ちゃんさ、街とか行かないの?」
中継地点の白い部屋で荷物を整理していると、不意に弟が聞いてきた。
「え、だって別に行く必要ないし」
食べるものだって困っていないし、道具もそれなりに用意してある。森の中でもそれほど不便はしていない。それなのに、わざわざ街に行く意味がわからない。
「それに、もし行ったとしても、言葉も文字もわからないもの。コミュニケーションも取れないのに、行っても無駄じゃない?」
アリアさんやニーナが使っていたような魔法を私も使えれば話は別だけど、現状、道具も知識もないからできそうにない。
「言葉なら攻略本に文字と単語の一覧があるよ。アプリにも翻訳機能が付いてるし」
弟の言葉に仕分けを続けていた手を止める。
「……そんな機能、あったの?」
「今日のアップデートで実装した」
弟の言葉にスマートフォンを取り出す。アプリを開けば、トップページの右下に、マイクのアイコンが表示されている。試しにタップしてみたら、Siriみたいな画面が表示された。
「それに話しかければ、こっちの言語に翻訳されるよ。文字入力にも対応してるし。読み上げ機能もあるから、会話だってできるよ」
試しに、こんにちは、と入力してみたら、聞き取れない言葉で無機質な女性の声がした。
「ちなみに学習モードもあるよ」
……学習、できるのかしら。勉強したところで、話せるようになる気がまるでしない。
「これ、作ったの? わざわざ?」
こんなものがあったのなら、こっちに来た時に教えてほしかった。でも、これ、作るの大変だったんじゃないだろうか。
「まあ、暇だったし」
こともなげに弟が言う。その言葉に、なんだかどっと力が抜けた。
「ああ、そう……」
私はこめかみに手を当てる。大きく息をついた。
なんだろう。結構すごいことをやっている気はするのだけれど、そう感じない。
「そういえば、広世。あなた、この部屋から出られたのね」
こっちに来る時はいつもこの白い部屋にいるし、この部屋から世界を見守る、みたいな感じで、ここからは出られないものだと思っていた。
「まあ、こっちの世界ならね。あんまり長い間ここを開けるわけにはいかないんだけど、少しの時間なら」
「へー。まだ帰ってはこられないの?」
少しの時間でも部屋を抜けられるなら、帰ることもできるんじゃないかしら。
持ち帰るものと置いていくものを仕分ける作業を再開させながら、何の気なしに弟に聞くと、弟は困ったように笑う。
「頑張ればいけないことはないんだけど、こっちの世界の管理もしなきゃいけないからね。ほら、俺。一応神様だし?」
「ああ。そういえば、そうだったわね」
全然神様らしくないからたまに忘れそうになるけど、弟はこの世界の(自称)神様だった。神様になった理由は、ネットオークションで、三百円で買ったとか全く締まらないものだけど。
「今、遠隔で管理できるシステムを構築してるんだけど、難航しててさ。それができれば、家からでも管理、運営できるようになるんだけど」
「ふーん」
まあ、それなら弟のことだ。そのうち家にも帰ってくるだろう。
「でも、たまには電話くらいしなさいよ。お母さんだって心配してるんだから」
「あー、まあ、そのうち。それより、もう時間じゃない?」
……明らかに、誤魔化したわね。まあ、でも言いたいことは言えたし、今はそれでよしとしましょう。そっと息をついて、腕時計の時間を確認する。
すでに二十三時を少し過ぎている。
私はリュックの中に、必要なものだけ残し、スニーカーを脱いで、端に寄せる。パンプスを手に取った。
「それじゃ、行くよ」
「ええ。お願い」
私が頷くと、ヴオン、と足元に白い幾何学的な文様が展開される。見慣れたそれが出現すると同時に吹き上げる突風と、眩い光。目を開けていられなくて、ぎゅっと閉じる。
そして数秒。とん、と固い床の感触がストッキング越しの足の裏に伝わる。目を開けば、いつも通りの弟の部屋。ただ、最近少し、本棚にあった漫画が減った気がするのは、何故だろう。
まあ、いいかと弟の部屋を出る。自分の部屋に行き、リュックを下ろす。エコバッグに一つ残っていたりんごと、パンプスを両手に持って、一階に続く階段を下りた。
「あら、帰ってきてたの?」
玄関のシューズボックスにパンプスを置き、りんごを野菜室にしまっていると、母の声がかかる。
「あ、うん。少し前に」
振り返りつつ、動揺を隠してそれだけ答える。母は私の手元に目を止める。
「随分立派なりんごねぇ」
「ああ、うん。おいしそうだったから」
曖昧に答えた私を母はじっと見ている。若干の居心地の悪さを感じながらも、ぱたんと野菜室のドアを閉める。
「えっと……何?」
母の視線に耐えきれず、声をかける。母はなおも窺うように私を見てくる。
「あんた、最近帰りが遅いけれど、何してるの?」
「えっと……」
異世界に行っているとは言えず、返答に困る。
そうよね。今まで定時で帰っていたのに、急に連日二十三時過ぎに帰ってくるとか、違和感しかない。……えっと。これ、どう、言えばいいかしら。
「あんたまで……いなくなったり、しないわよね?」
思いがけない声の弱さに、驚いて母を見る。不安に揺れる瞳と目が合った。
一瞬だけ、ぱち、と瞬きをする。気づかれないように小さく息をつく。
「大丈夫よ」
私は、安心させるように微笑む。
「それに、広世もそのうち帰ってくるわ」
先ほど聞いた、広世の言葉を思い出す。まだ、時間はかかりそうだけど、そのうち帰ってくるようなことを言っていた。
私の言葉に母は訝しむような視線を投げてくる。
「そういえば、弥生には連絡してきてたわね」
「えっと、まあ、一応……?」
視線を斜め上に逸らして頷く。流石に、さっきまで会っていたとは言えない。
母がため息をつく。私の隣に立ち冷蔵庫を開けると、水を取り出す。コップ立てから自分のコップを取り、水を注ぐ。
「……たまには、早く帰って来なさいよ」
冷蔵庫に水を戻すと、そっとドアを閉める。ぽつりと零された言葉に反応できずにいると、水を飲み干した母が、おやすみ、とキッチンを出ていく。その背中に慌てて、おやすみ、と返す。
途端にキッチンは、しん、と静まり返る。私は、はあ、と大きく息を吐く。
まさか、母からあんなことを言われるとは思っていなかった。
弟に流されるまま、連日、異世界に行っていたけれど、これは訪問の仕方を考えないといけないかもしれない。
とりあえず、明日は真っ直ぐ家に帰ったほうがいいわね。弟から電話が来たら、断らなきゃ。
そんなことを考えながら、メイクを落とすために洗面室に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます