3日目(3) 湖畔の夜と一人ご飯
紺藍の空にきらきらと星が瞬く。斜めに差し込む白金の月明かりの下、さわさわと森の木々が揺れる。少し冷えた夜の空気がカーディガン越しの肌を包む。
空が綺麗ね。そういえば、ご飯まだだったな。
ぼんやりとそんなことを考えながら、景色を眺める。……まあ、現実逃避はこれくらいにして。
視界の隅でシルバーグレイの髪がさらりと風に流れ、意識がそちらに向く。その隣では楽しげに弾む尻尾が見え隠れする。
ずしりと重いリュックを背負い直し、私はそっとため息をつく。
「では、次のポイントを確認してから、街に向かいましょうか」
「あ、いえ、私は結構です」
アリアさんの提案に、私は即座にそう返す。悩んだものの、結局そのまま伝えることにした。
「「え?」」
「え?」
私の言葉に二人同時に驚いたように声を出す。むしろなんで否定される可能性を考えないのかと問いたい。調子乗っている魔物とかよくわからないけど、絶対に遭遇したくない事案だ。
「えー! カミツカ、行かないの?!」
ニーナが私の前に、たた、と駆け込んでアンバーの大きな目で見上げてくる。がっかりしたような表情と、だらんと下がった尻尾に心が揺れそうになる。
その姿を視界に入れないように斜め上を見ると、必死に断る口実を探す。
「えっと、魔物とかよくわからないですし、対処の仕方も検討つかないですし、森を歩くのにも慣れていないのできっと二人にご迷惑をかけてしまうと思います。それに、こちらのお金を所持していないので、街に行っても何もできないですし……」
「それなら大丈夫! りょーがえじょがあるよ」
……ん?
ニーナの言葉に、断り文句を捻り出していた思考が急停止する。
「両替所?」
なんだか今、ここで聞くのは違和感しかない単語が聞こえた気がしたけれど、気のせいかしら。
「この前、ヒロセが来たときに商業ギルドの隅っこに作ってた。なんかね、ヒロセの世界のお金とこっちの世界のお金を取り替えてくれるんだって。ヒロセが使ってるのしか、見たことないけど」
どうやら気のせいではなかったらしい。……あの子は、一体、何をやっているのかしら。
よくわからないけれど、他の世界のお金が流通するのって、この世界的に問題ないのだろうか。
「交換した貨幣はここ最近、コレクションアイテムとして一部の層からの人気が高くなっているようです」
ニーナの説明をアリアさんが補足してくれる。なるほど。貨幣として流通しないのならば、いいのかしら。……いや、ダメだと思う。
「他にも冒険者ギルドで今回の調査報告をすれば、報酬の支払いがあります。簡単なパーティー申請の手続きさえ行えば、カミツカさんでも受け取りは可能です。金銭面では問題はないかと」
「それにもし魔物に会ってもあたしたちが相手するし! 終わったら街のレストランでご飯食べよ! 宿屋も紹介するよ。それで明日は街を案内してあげる!」
ニーナの語るプランに、アリアさんも頷いている。まさかアリアさんも私が一緒に行くことに、こんなに乗り気だとは思わなかった。……いつ、二人に気に入られたのだろう。
「いや、でも明日も仕事があるので、今回はご遠慮します」
そう、今日はまだ週半ばの水曜日。明日も普通に仕事はある。
それに、攻略本で得た知識は多少なりともあるけれど、言葉も文字もわからないし、この世界のことを何も知らないのに街に行くなんて無謀すぎる。二人に頼りっぱなしになるのも心苦しい。
「むー。ヒロセだったら、一緒に行ってくれたのに」
ニーナは頬を膨らませて、私を見上げてくる。髪の間から覗く猫の耳は、わずかに外側を向いている。
「まあ……広世ですから」
電話越しの楽しそうな声や、白い部屋での様子を思い出す。弟ならばむしろ、誰かに誘われなくても率先して街に行き、この世界の人たちと交流してそうだ。
ノリと勢いのまま、知らない世界にも飛び込める弟を少し羨ましくも思う。でも私に同じことを求められても困る。
それに、もしも街に行くのなら、準備のためにも、せめて三日前には伝えてほしい。
「……仕方ないですね。街に着いたら、ブレスレットを拾っていただいたお礼をしたかったのですが」
大きく息をつき、アリアさんはそう言うとニーナに声をかける。
「無理強いも良くないし、今回は諦めましょう」
「うー。わかった……」
諭すようなアリアさんの声音に、ニーナはしゅんと肩を落としながらも渋々頷いた。でも、すぐにばっと顔を上げると、私と視線を合わせる。
「今度は絶対、一緒に街にも行こうね!」
「えーと、善処、します……」
私の返事を聞いて、それでもニーナは満足そうに、にっと笑う。
「その時はあたしのお気に入りのレストランを紹介してあげる! リンゴーアップルで作ったパイがね、サクサクでとろとろでおいしいの!」
え、何それ、おいしそう。
そのままのりんごもおいしかったけれど、火を通したあとの味も格別だった。それをアップルパイにするとか、なんという贅沢だろう。その情報を聞いただけで街に行きたい気持ちに傾いてくる。
ただ、明日は午前中に外せない会議があるから、元から無理な話だけれど。
「では、私達はこれで。ニーナ、そろそろ行きましょう」
アリアさんはそう言うと軽く頭を下げる。呼びかけられると、ニーナはとんと軽く地面を蹴り、アリアさんの隣に並ぶ。
「じゃあね、カミツカ! また今度!」
ニーナは大きく手を振ると、アリアさんと二人、森の中へと戻っていく。
「あ、えっと、また……」
咄嗟に返しながら、二人の背中を見送る。追いかけるように涼やかな風が通り抜けていった。
×××××
「さてと」
ニーナとアリアさんの姿が見えなくなると、私は背負っていた鞄を下ろす。レジャーシートを砂浜に敷き、汚れないようにその上に置く。そっと周りを見回した。
さざめく森の木々が、小さく打ち寄せる湖面の波が、音もなく重なって、響きあっていく。星が瞬く音さえも聞こえそうなほど静かな夜。ついさっきまでの騒がしさはどこにもない。
私は折り畳みイスを取り出す。リュックの前に広げ、腰をかける。その傍らにランタンを置く。
そこまですると後ろのリュックからB6サイズの黒いポーチを取る。ポーチの中には組み立て式の焚き火台が入っている。ステンレスのパネルを慎重に組み立てていけば、かしっとしたコの字型の焚き火台ができあがる。
「えっと、あとは……」
エコバッグからきのこをいくつか取り出す。鞄の中のキッチンペーパーを数枚切り取り、きのこを抱えて湖の水際に向かう。さ、ときのこを洗った。その後にキッチンペーパーで水気を拭き取り、多機能ツールで石突き部分をカットしておく。
イスまで戻ると焚き火台の天板部分にセットで購入したメスティン? を乗せる。ペットボトルに残っている水をだぼだぼと中に注いだ。湖の水もあるけれど、流石に口にするのは怖いし。
天板の下にある炭受けのスペースに、着火剤を置き、その上にここに来るまでの道中で拾った細い枝を積み上げていく。リュックの前ポケットに入っていたライターを手に取り、着火剤に火をつけた。
お湯が沸くのを待つ間にリュックから、お箸とお昼休みにコンビニで購入したインスタントラーメンを取り出す。
メスティンのお湯が沸騰すると、麺を入れ、軽く解す。ビハダケ(マッシュルームもどき)とスッキリダケ(えのきだけもどき)を軽く手で割いてから入れていく。時々、お箸でかき回しながら、きのこに火が通るのを待つ。
「そろそろ、大丈夫かしら」
添付のスープを入れれば、ふわりと味噌の香りが立つ。最後にビハクダケ(白トリュフもどき)を薄くスライスして上に乗せた。ふっと鼻先を掠めるきのこと味噌の香りに、くう、と小さくお腹がなった。
「はあ、ようやく食べられる」
ほっと息をつき、思わず零す。予想外の出来事で、予定よりもご飯を食べるのが遅くなってしまった。
いただきます、と焚き火台に乗せたメスティンを取ろうとして、金属の取手にふと手を止める。
「……これ、たぶん、直接持ったら熱いわよね」
直接ではないにしろ、焚き火台の上で火にかけていたわけだから、持ち手の部分もかなりの高温になっていそうだ。しまった。食べる時を想定していなかったわ。
「そうだ」
少し考えた後、リュックからハンカチを出し、取手を掴む。うん、これで大丈夫そうだわ。
メスティンを取ると、手元に引き寄せる。
立ち上る湯気には、味噌ときのこの香り。ずず、と啜った縮れた麺に、きのこの溶け込んだスープがよく絡む。ざっくりと割いたきのこを箸で摘み、一口食べる。
きのこをぎゅっぎゅ、と噛みほぐしていけば、味噌の味が染み出てくる。こくり、とスープを飲めば、まろやかな味噌味の中に、濃厚なきのこの風味が口の中に広がって、喉元を落ちていく。
少し冷えた夜の湖畔の空気に、温かな味噌ラーメン。たっぷりと入れたきのこが、麺やスープによく馴染む。ゆっくりと味わって食べて、ほっと息をつく。
「はー……」
自然と吐息が漏れた。昨日食べた、きのこのアルミ焼きもよかったけれど、これはこれでおいしい。でも、醤油と同じでやっぱりバターが欲しくなる。味噌バター……絶対、おいしいと思う。
こうなったら、魔法でバターを作る方法をどうにか探してみようかしら。あるいは、痛まずに持ち運びできる方法とかないだろうか。
そんなことを考えながら、黙々と味噌ラーメンを食べていく。
麺ときのこを食べ、スープも飲み尽くすと、ごちそうさま、とメスティンと箸を膝に下ろす。
「さてと」
ゆっくりしたいところだけど、この後にデザート作りが待っている。
私はメスティンを軽くキッチンペーパーで拭く。軽く湖の水で洗い、水気を拭き取る。一応、匂いがあまり残っていないことを確認してから、また焚き火台の上に置く。
エコバッグの中からりんごを一つ取る。多機能ツールのナイフを引き出し、皮を剥く。半分にカットするとメスティンの中に並べていく。
りんごが終わると、今度は桃の皮を剥き、種をとる。りんごと同じように半分に切ると、片方だけ隣に並べる。鞄からサイダーを取り、りんごと桃が浸るくらい注いでいく。
「あとは、待つだけね」
火加減を調整しながら、水分が完全に飛ぶのを待つ。その間に半分残った桃の皮を剥き、メスティンのふたに切った桃を置く。多機能ツールからピックを抜き出し、さくりと刺すと、はむり、と桃を齧る。じゅるりと垂れる果汁は、ねっとりと濃密で、柔らかな果肉は噛み締めるほどに蜜のような甘味が舌に纏わりつく。
りんごとはまた違う味わいをじっくりと感じながら、最後の一口を食べる。
「……やっぱり、半分じゃ足りないわね」
ニーナにあげたのは早計だったかしら。でも、あの表情と仕草を前に、あげないという選択肢は選べなかった。まあ、明日、多めに採ればばいいか。
「もうちょっと、かかりそうかしら」
メスティンを覗き込む。中のサイダーはまだ残っている。それを確認するとエコバッグからりんごを一つ取り出す。八等分に切ると皮を剥き、メスティンの蓋に並べる。シャク、とピックで刺すと、一切れずつ食べていく。シャリ、シャク、とした歯応えは楽しく、芳醇な香りのりんごは、相変わらずおいしい。
時々、焚き火台に細い枝をくべながら、ぐつぐつとりんごと桃を煮詰めていく。
しばらくして、ちゃぷ、と跳ねる水音に、視線を湖に向ける。
いつの間にか、白金の二つの月は森の淵に沈んでいた。濃紺の空には、花火のような星空が瞬く。鏡の湖面に光を落とし、時折、風に震えている。
湖をぐるりと囲む森は深い。さわさわと揺れる木の葉が夜を宥めるように枝を揺らす。
ぱき、と小さく枝が折れる音が鳴り、メスティンに視線を戻す。
サイダーの水分はすっかりとなくなり、中には色を濃くしたりんごと桃だけが残っている。
「もう大丈夫そうね」
出来上がったのは、りんごと桃のコンポートだった。ネットで見つけておいしそうだったから作ってみたけれど、無事に完成したみたいだ。
私は箸を手に取ると、りんごのコンポートを一口食べる。りんごは舌で崩せるほどに柔らかい。一瞬だけシュワッと炭酸が弾けたあと、芳醇で甘い香りが鼻を抜ける。
昨日の焼きりんごとはまた違うおいしさを噛み締める。
今度は桃のコンポートに手を伸ばす。とろとろに蕩けていて、箸では掴みにくい。一口食べれば、シュワッと炭酸の余韻が残り、どろりと濃密な甘味が舌先を絡める。
……これは、あれね。やっぱりバニラアイスがほしくなる。ヨーグルトでもいいわね。どちらにしてもここに持ち込むのは難しそうだけど。
「魔法かぁ……」
しゃくり、とりんごを食べながら呟く。
昨日の夜も、一応は攻略本の魔法のページを見てみた。でも、どうしても目が滑っちゃうのよね。だけどここは、バターとアイスのために頑張るべきかしら。とりあえず、帰ったらまた読もう。
どうせだったら、魔法が発動できるアプリとか、開発してくれないかしら。……流石に、無理か。
そんなことを考えながら、最後の一つに手を伸ばす。りんごと桃のコンポートを食べ終わると、空の色が一段と暗くなり、星の煌めきが強くなった気がした。腕時計で時間を確認すれば、二十二時をゆうに過ぎている。思っていた以上に時間が経っていたみたいだ。
「そろそろ、帰る用意をしとかないと」
その後は、メスティンをさっと洗い、焚き火台に残った灰と枝をオイルポットに入れる。それ以外の道具も一通り片付けて、現状復帰を行う。
一通り片付けやら何やらが落ち着いた、二十二時五十分。弟から電話がかかってくる。
ランタンを掲げ、ぐるりと周囲を見回す。大丈夫。片付けも終わっているし、忘れ物もない。
『それじゃ、行くよ』
「ええ、お願い」
ぶわ、とスマートフォンから幾何学的な白い文様が展開される。強い風が吹き上げ、強い光が発光する。
昨日と同じ、二十三時少し前。私は異世界を後にした。
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