3日目(1) 湖畔の夜と現地民との遭遇
夕暮れ間際の森の中。見慣れた新緑色と檜皮色の背の高い木々の間をゆっくりと進んでいく。
水色の空には仄かに橙色が差し込み、薄く掃いた雲に一番星が溶け込む。さわさわと流れる風は柔らかく、カーディガン越しの腕を優しく包む。
ここに来る前に一度、白い部屋に寄ってきた。そこでオイルポットなど、昨日預けていた荷物を回収して、入れられるものはリュックにしまった。靴もパンプスからスニーカーに交換済みだ。
白い部屋では、弟と少し話してもきた。曰く、攻略本アプリをアップデートしたようで、ナビ機能を追加したらしい。通った地点の魔素の流れをスマートフォンが記憶することで、一度訪れた場所ならナビが使えるそうだ。……よくわからないけど、そんなことを言っていたような気がする。
「こっちかしら」
試しに設定したナビの地図上では、私がいると思しき場所に赤い三角が点滅している。その三角形の先には目的地を示す、星型のマークがある。
ひとまず、昨日きのこを採取した場所を目的地にしてみたけれど、近くまで来ているみたいだ。ふっと鼻先を掠める香りにも、濃密な土の匂いが混ざる。
よかった、ナビは無事に機能しているようね。このまま行けば、問題なく目的地に着けるだろう。私はスマートフォンに落としていた視線を上げる。
でも、昨日と同じ場所に行くとして、少し気がかりなこともある。
昨日、割とたくさん、きのこを取ってしまったけど、まだ残っているわよね。一応、取りすぎないように配慮していたつもりではあるけれど。
少しの不安を残しつつ、目的の場所を目指した。
しばらくして、辿り着いた場所に足を踏み入れる。
幸い、きのこはまだたくさんあった。それだけじゃなく、昨日採取した木の根元にも、またきのこが生えている気がする。流石にまだ、小ぶりなのもあるけれど。
それにしても、異世界のきのこ、成長スピードが早すぎじゃない? それとも、こんなものなのだろうか。何か要因でもあるのかしら。
……まあ、ここで考えても答えは出そうにないし、今はいいか。
私はリュックからエコバッグと多機能ツールを用意する。ビハダケにビハクダケ、それに翌朝の効果も実感できたしスッキリダケ。きのこを次々とエコバッグに入れていく。
ただ、黒髪に天使の輪が輝くように光るカミツヤダケだけは、まだちょっと食べる勇気が出なかった。
一人で食べるには十分な量のきのこを取ると、スマートフォンのアプリを開く。昨日、りんごを採取した地点を確認する。うん。ここから、そう遠くはない。
目的地に設定すると、ナビの案内に従い、りんごの採取場所に向かった。
その後のりんご狩りも実にスムーズに完了した。昨日の教訓から、りんごは二つほど多めに採っておいた。ついでに近くにあった桃————アプリにはモーモーピーチの名前の表示があった————も、おいしそうだったから、二つ、採取しておいた。
あとはどこか、ゆっくり食事ができるスペースがあるといいのだけれど。
昨日の川原もいいけど、せっかくだし別の場所も行ってみたい。ただ、今日も火を使うし、できれば水辺がいいわよね。ちょうどいい場所、あるかしら。
そんな事を考えながら、攻略本アプリの地図を開く。
「あ、ここなら、いいかも」
ここから南西方向に進んだ先に、ちょうどよさそうな所がある。
私はリュックの前ポケットから方位磁石を出す。初めていく場所だから、ナビは期待できない。でも方位磁石はりんごの時にも使えたし、今回も大丈夫でしょう。
地図と方位を確認すると、おおよそ南西の方向にゆっくりと歩き出した。
日が沈んだ薄暗い森を魔道ランタンがオレンジ色に照らす。進むごとに森の緑は一段と濃く深くなっていく。そこに、微かに水気を含んだ草の匂いがした。
アプリの地図を見れば、目指す目的地は近そうだ。
足元に注意しながら慎重に森を歩いていくと、不意にぱっと目の前が開けた。
飛び込んだのは、深緑色と碧色。藍色と青緑に滲む、白金の二つの月。
森を抜けた先。広がっていたのは、エメラルドグリーンの湖。
空と水上に輝く星空の中、楕円の月と三日月が朧に輝く。
そっと、足を踏み入れ、湖に近付いていく。
森から続く足元の緑は湖が近くなるにつれ、土色、砂色に色を変える。湖の周りは砂浜のようになっていて、さらさらと砂が流れる。よかった。ここならば、火を使っても問題はなさそうだ。
水際に立ち、湖面を覗き込む。
星の沈む水底には、時折、月明かりやランタンの光を反射するように銀色が煌めく。よく目を凝らせばニジマスみたいな魚が、ゆったりと泳いでいる。
「そっか。魚を獲って食べるって選択肢もあるのね」
こういう所や川べりで、焚き火の周りに立てかけて魚を焼いている絵は、テレビで何度か見かけたことがある。でも、魚って簡単に捕まえられるのかしら。
鯉みたいに餌をあげれば寄って来ればいいのだけれど、都合よくそんなもの持っていない。もちろん釣りの道具なんて持ってきていない。まあ、もし万が一持っていても使える気はしないけど。……これも、魔法でできたりするのだろうか。
ふと疑問に思って、首を傾げる。やっぱり一回、魔法に関するページはちゃんと読んでおいたほうがいいみたいね。
まあ、少なくても、今どうこうできるものでもない。今日は大人しくきのことりんごと桃と、持ってきたものを食べることにしよう。
湖から離れるとランタンを一旦、足元に置く。リュックからレジャーシートを出して、砂の上に敷いておく。その上にリュックを下ろす。背中の重みがなくなり、ほっと息をつく。
「ああ、重かった」
首筋を伸ばして、こりをほぐす。色々と道具も増えてきたし、リュックはなかなかに重い。これでも、なるべく軽めのものを用意していたのだけれど、もう少し軽量化を図るべきかしら。でもそれだと耐久性や強度に不安があるし、悩ましいところね。
リュックから折り畳みイスを取り出して、広げてセットする。
余分なものを持ってきているつもりはないけれど、実際に使ってみないとわからないし。まあ、明日、改めて考えてみればいいか。とりあえず今は、夕食を作る準備を進めよう。
そう思ってリュックを探っていると、がさり、と草が揺れる音がした。手を止めて、顔を上げる。
もしかして、昨日のうさぎかしら。ここも、生息域に入ってきているのかもしれない。
少しそわそわとしながら、森の入り口を見守る。
ざざ、ざざ、と草を踏む音は段々と近くなってくる。それと同時に、微かな話し声も聞こえた。
なんだ、うさぎじゃないのね。
私はがっくりと肩を落とす。言葉は聞き取れないけど、声の感じから誰かここに近付いているみたいだ。リュックの奥から、B6サイズの黒いポーチを引っ張り出した。そこまでして、はた、と動きを止める。
そういえば、この状況。ここから離れたほうがいいのかしら。
攻略本には種族や地域の紹介はあったけれど、人間の良し悪しまではもちろん書いていない。この世界に住む人たちが、みんな友好的とは限らないだろう。それに、相手からしたら見慣れない道具を広げているのも、どうなのかしら。
とりあえず出した黒いポーチをリュックに戻す。リュックを持ち上げ、レジャーシートを取る。砂をばっと落とすと、折り畳んだイスを内側に包む。そのままリュックに突っ込む。
シャッとファスナーを締め、リュックを背負う。足元のランタンを手に取ったのと、ざっと草を掻き分ける音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「にゃっ!」
聞こえてきた猫みたいな鳴き声に、不思議に思って振り返る。
森と湖との境目の入り口に立っていたのは、中学生くらいの可愛らしい女の子だった。Tシャツみたいな服とワインレッドのホットパンツを身に付けている。癖でふわふわと跳ねるキャメルのショートカットの髪からは、猫みたいな耳が覗く。その背中で、猫の尻尾みたいな影がゆらゆらと揺れる。
……ん? 猫みたいな、耳? 尻尾?
私が首を傾げると、猫耳少女(仮)も首を傾げる。アンバーの瞳とじっと視線が合う。
「……」
……いやいやいや。ちょっと待って。え。なにこれ。どういうこと?
確かに、攻略本に色々な種族がいるとは書いてあった。細かい内容までは覚えていないけれど。でも急に遭遇しても困る。普通に戸惑う。
軽い頭痛がして、こめかみに手を添える。えっと、これ、言葉とか、通じるのかしら。
そんな疑問を抱き、目線を落とす。その視線の先に、なぜか猫耳少女の大きなアンバーの目があった。
「!」
思いがけない距離に一歩後ずさる。
いつの間に、こんな至近距離まで来ていたのだろう。猫耳少女は私を見上げて、にっと笑う。
「にゃ!」
「……?」
「にゃあ、にゃーにゃ、にゃにゃにゃ、にゃーにゃにゃーお」
「???」
どうしよう。さっきから猫の鳴き声にしか聞こえない。きっと何か聞きたがっているとは思うのだけれど、その言語を理解できない。
「q@wpeorituy?」
コミュニケーションが取れず固まっていると、聞き慣れない別の言葉が聞こえてきた。
え、今度は何?
視線を向けた、森との境。弓を背負った、高校生くらいの綺麗な女の子が立っている。
真っ先に目についたのは、月明かりに透けるシルバーグレーのストレートヘア。白いシャツとリーフグリーンのミニスカートを身に付け、ハンターグリーンのジレみたいな服をさらりと羽織る。さらさら靡く髪の隙間からは、鋭く尖った長い耳が覗く。
……ん? 鋭く尖った、長い耳?
初めて見るその姿に、完全に思考が停止する。銀髪少女(仮)は猫耳少女の首根っこを掴み、私から引き剥がしてくれる。それからエバーグリーンの瞳でじっと、私を見る。
「alskdjfhg?」
窺うように、銀髪少女が話しかけてくる。でも、その言葉は意味をなさないまま、私の耳に届く。
どうしよう。なんて言っているか、さっぱりわからないわ。何か、聞かれているであろうことは、かろうじてわかるけれど。
固まったまま動けないでいると、銀髪少女は小首を傾げる。その耳元で、しゃらん、とイヤリングの飾りが揺れる。それは、シダ植物のような、独特な葉っぱのデザイン。
「あ」
思わず、声が出た。二人に視線を向けられて、口を噤む。
銀髪少女は軽く握った拳を唇に当てて下を向く。そっと目を閉じ、首元のチョーカーに触れた。
「————」
聞き取れないくらいの小さな声で何事か呟く。その途端、指先に銀色の幾何学的な文様が浮かび、チョーカーの周りがぽわりと光る。光は飾り部分の宝石に収束する。一連の動作が終わると銀髪少女がそっと口を開く。
「……貴女は、もしかして、他の世界から、いらっしゃった方ですか?」
それは、私がよく知る、言語だった。
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