2日目(3) りんごとうさぎと異世界と

 ぱち、ぱち、と火の粉が爆ぜる。ぱき、と火の中で細い枝が折れ、音を立てる。ゆらゆらと赤橙色の炎が揺らぐ中、さらさら流れる川の音が聞こえる。川面を撫でる風は冷たく、涼やかな空気を運んでくる。私は後ろに置いてあったリュックからペットボトルを取り出す。

 こんな夜ならば、普段は飲まないようなキリッとした後味のコーヒーを飲みたくなる。ただ、今はコーヒー豆もお湯を沸かす道具も術ない。私はおとなしくぬるい水を一口飲む。まあ、水は水で悪くはないと思えるのも、焚き火の前で飲むからかしら。

 ペットボトルをリュックにしまうと、今度はエコバッグから一つだけとっておいた、りんご(仮)を出す。見慣れたりんごよりも一回り大きいそれは、甘酸っぱい香りを纏い、焚き火を受けてより赤くつややかに、てらりと色を反射させる。

 私は多機能ツールのナイフをセットする。八等分にざっくり切ると、たっぷり蜜の入ったりんごの皮を剥いていく。切ったりんごは、焼きりんごを包んでいたアルミホイルの上に並べる。全て剥き終わるとピックを取り、その一欠片にシャク、と刺す。

 シャリ、と一口噛めば、豊潤な甘みと柔らかな酸味が口の中に広がる。焼きりんごにした時は、甘みを強く感じたけれど、生のりんごだと酸味もほどよく、バランスがちょうどいい。しっかりした歯ごたえのりんごをシャク、シャリ、と噛み締めていくと、甘い果汁がとろとろと溢れてくる。

 これって凍らせたらシャーベットみたいになるのだろうか。果汁たっぷりのりんごシャーベット……ここに冷凍庫があればいいのに。せめてクーラーボックスくらい、用意しておくべきだったかもしれない。それとも、そういうことも魔法ならばできるのかしら。

 そんなことを考えながら、二つ目のりんごに手を伸ばす。

 もう少しちゃんと、魔法関連のページも読み込んでおけばよかった。今更ながら少し後悔する。魔法を使う予定もないし、専門用語が多く読みづらかったから、昨日はついつい斜め読みで済ませてしまった。攻略本は持ってきてはいるけど、ここで本を読むにはちょっと明るさが心許ない。


 空からは柔らかな月明かりが斜めに差し込んできている。ちりちりと燻る焚き火は次第に勢いを弱めていく。ランタンをつけるとしても、まだ辺りは暗い。それに、ただでさえ下降気味の視力がさらに悪くなりそうだ。アイスの件も含めて、あとでちゃんと攻略本を確認しておこう。

 シャク、と三切れ目のりんごにピックを刺す。

 攻略本アプリに魔法に関する項目もあればよかったのだけれど、内容が煩雑なのか移植はされていない。ただ、それに関しては私ではどうにもできないし、今後の弟に期待するしかない。でも、あまり無理はしてほしくないし。

 シャリ、シャク、とりんごを齧る。

 ああ、どうせなら、もう一つか二つ、余分に採っておけばよかった。そうすればお土産にもできたのに。それに家には冷凍庫もあるし、確かバニラアイスもあった。気になる食べ方をとことん試すこともできただろう。いっそのこと、帰る前にもう一度採りに行こうかしら。

 真剣に悩みながら、腕時計に視線を落とす。次のりんごを一つ取る。

 シャリ、と一口齧ったりんごは、ぬるくてもまだ瑞々しさが残っていておいしかった。



 がさっ。

 六つ目のりんごをシャク、と食べかけた時、不意に音が聞こえた。風が木の枝を揺らすのとも違うその音を不思議に思いつつ、視線を向ける。

 がさ……、がさ……。

 目を凝らせば河原と森の境目にある、背の高い草が、がさ、ごそと動いているのが微かに見える。もしかして、さっき拾ったブレスレットの持ち主でも来たのかしら。それとも、別の何かだろうか。眉を寄せ、暗い森を見つめる。何かが出てくるのをじっと待つ。

 がさり。

 草を掻き分けて、ぴょこん、とこげ茶色の長い耳が見える。薄茶色の顔を覗かせて、周囲を窺うように小さな鼻をひくひくさせている。ちょこんと現れたのは、一羽のうさぎ。

 それは、昨日の帰りがけに見かけた、あのうさぎだった。

 私はすかさず手を付けていないりんごを一つ取り、うさぎにそっと近付く。ゆっくり、静かに、慎重に。そろりそろりと近寄っていく。耳をそばだてていたうさぎは、ぴくっ、と反応すると顔を上げる。紅玉のつぶらな目と視線が合った。


「大丈夫、落ち着いて」


 一瞬逃げようとしたうさぎに優しく声を掛ける。りんごを片手にじりじりと距離を詰めれば、うさぎはふりふりと首を動かす。どうやら、私の手の先のりんごを追いかけているらしい。

 はやる気持ちを落ち着かせて、うさぎの目の前までやってくる。間近で見るうさぎは、ふさふさの毛並みが美しく、つぶらな瞳が可愛らしい。いつもなぜか動物に避けられてしまうから、ここまで近付けるのは久しぶりだ。視線は相変わらず、りんごに向いたままだけど。

 茶色いうさぎはそれほど大きくはない。その毛並みは見るからに柔らかくつややかで、高級な毛皮を思わせる。きっと手触りも優しく、するすると滑らかな指通りになることだろう。それに、とても温かそうだ。……この距離なら、ぎりぎり触れるかしら。

 うさぎはじっと手の先のりんごを見つめている。りんごを持っていない左手で触ろうとするけれど、一定の距離から近付いてこない。耳をピンとそば立てたまま、鼻をヒクヒクさせてこちらの様子を窺っている。手を伸ばしてみても、なかなかあと少しの距離が、届かない。

 不意に、うさぎが跳躍し、目の前からいなくなる。あ、と思う間もなく、シャリ、と指先を鋭い爪が掠める。たす、と着地するとそのまま森の中に逃げていく。

 本当に、一瞬の出来事だった。気がついたら、持っていたはずのりんごが消えている。私は左手を伸ばしたまま、うさぎの背中を見送る。


「撫で撫で……」


 こんなことならば、もっと近付いてすぐにでも触ればよかった。できたかどうかは、わからないけれど。

 がっくりと項垂れて、腕を下ろす。折り畳みイスまで戻り、食べかけのりんごに手を伸ばす。シャク、と一口食べる。

 そういえば私と違って、弟は昔から動物に懐かれていた。あのうさぎも撫でたことがあるのかしら。私だって動物は好きなのに、なぜかいつも逃げられてしまうのよね。一体、何が違うのだろう。

 息をつき、最後の一切れに手を付ける。シャリ、と齧ったりんごは相変わらずおいしかったけれど、今はこの甘さも少し酸っぱかった。



 さらさらと川が流れる。時折、水面がちゃぷんと跳ねる。ちりちりと燻る焚き火が、ぱち、と小さく音を立て、緩やかな煙が立ち上る。満天の星の中輝く白金色の少し欠けた丸い月と三日月は、森の際に近い空から、柔らかな光を落とす。

 シャク、とりんごを食べ終えると、腕時計を見る。現在時刻は二十二時過ぎ。今ならまだ、りんごを採りにいく時間があるかもしれない。私は使っていたピックをティッシュで軽く拭き、多機能ツールに戻す。

 立ち上がるとイスを畳み、鞄にしまう。魔道ランタンのスイッチに触れ、明かりをつける。

 焚き火はだいぶ、落ち着いてきている。でもまだ中のほうで、赤橙色の火が燻っているのが見える。


「ネットだと、焚き火を水で消しちゃダメとも書いてあったけど……」


 少し迷った後、枝や葉っぱを拾ったスーパーの袋で川の水を汲む。バケツがあればよかったのだけれど、嵩張るから流石に持って来られなかった。バケツを抱えて会社に行くわけにもいかないし、百均で買ったとしても、リュックには入らない。私はスーパーの袋の中の水を焚き火にかけると、それを何度か繰り返す。

 黒く焦げた枝が少し冷めてきたら、リュックから小ぶりのオイルポットを取り出す。

 キャンプ用品? の中には火消し壺というものがあるらしいけど、このオイルポットでも代用できるらしい。蓋を開けて中蓋を取ると、燃え残った枝や葉っぱ、灰を拾い集めて中に入れる。中蓋と蓋を戻した。

 オイルポットに触ると表面が少し熱い。もうちょっと、置いておいたほうがいいかしら。

 今度はきのこやりんごを包んでいたアルミホイルを拾って、濡れたままのスーパーの袋に入れる。まだ乾き切っていないけれど、捨てるものだし大丈夫でしょう。それに、帰るまでには乾いているだろうし。袋の口を縛って、オイルポットと並べて置いておく。

 私は焚き火をしていた場所にしゃがみ込む。黒く残る焦げあとにトングで砂をかけて均す。黒い部分が大体隠れると、周りと同じように石や小石を被せておく。

 立ち上がるとリュックを持ち上げる。下に敷いていたレジャーシートを中にしまい、リュックを背負う。ランタンを手に取り、ぐるりと周囲を見回した。……うん。他に、ゴミは落ちていない。

 そこまで終わると、背中のリュックから着信音が聞こえた。腕時計を見れば、現在時刻二十二時五十分。思っていた以上に、片付けに時間がかかっていたらしい。このあと、りんごを採りに行きたかったけれど、その時間もなくなってしまった。

 少ししゅんとしながら、スマートフォンを取り出す。画面をスワイプした。


『もしもし? 姉ちゃん? そろそろ時間だけど、大丈夫?』

「ありがとう。今日は大丈夫よ」


 私は電話を受けながらその場に座り込む。電話を持っていないほうの手の指先でオイルポットに触れる。うん。さっきよりは、だいぶ冷めてきた。オイルポットの取っ手を取り、一緒にスーパーの袋も掴むと立ち上がる。


「あ、そうだ。今日は家に帰る前に一旦、そっちに寄らせて」

『直接帰ったほうが楽じゃない?』

「聞きたいことと、置いていきたいものがあるの」

『ふーん。わかった』


 私は最後にもう一度、周囲を見た。うん、大丈夫。焚き火のあとは自然の状態に戻したし、ゴミも落ちていない。それに忘れ物もないはず。


『じゃ、行くよ』


 弟の声がそう言うと、スマートフォンの画面から光が弾け、足元に白い魔法陣が浮かぶ。吹き上げる強い風と眩しい光に思わず目を閉じた。



 異世界生活二日目。

 まだまだ慣れないところはあるけれど、星空は綺麗だし、きのこもりんごもおいしかった。

 家に帰れば、昨夜ネットショッピングで注文した、キャンプ用品も届いているだろう。明日はもう少し、色々なことができるかしら。

 ただ、りんごとうさぎだけは、少し心残りではあるけれど。

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