2日目(1) 食材集めは異世界で

 ごうごうと耳元で唸っていた風が止み、ぎゅっと瞑った瞼の向こうで光が急速に収束する。その途端、ふわりと鼻先を掠めたのは、水気を含んだ草の匂い。とす、とスニーカーのつま先が柔らかな土に触れる。完全に足がつくと、私は恐る恐る目を開ける。飛び込んだ景色に小さく息を飲んだ。


 そこには、先ほどまでいたはずの、オフィスのトイレの風景はすっかりない。目の前に広がるのは夕暮れ前の深い森。木々の合間から溢れるオレンジ色が檜皮色の背の高い樹木を染め、新緑の若葉はさやさやと風に揺れる。

 僅かに覗いた夕日色が滲む藍色の空には、白金の少し欠けた月と細い三日月が並ぶ。すっと吸い込んだ空気に、涼やかな緑の気配が混ざる。

 そこは、昨日も訪れた、あの森だった。


 私は握りしめていたスマートフォンを見る。ここに来る時に弾け出た、白い光も幾何学的な文様もすでに消えてしまっている。


「え、何これ?」


 思わず、声が出た。思いがけない展開に、目をしばたたかせる。

 いきなり森ってどういうこと? 急に放り出されて、何をどうすればいいと? 

 状況を掴み切れず困惑としていると、突然スマートフォンから着信音が響く。弟からかかってきた電話に、私は慌ててロック画面に表示されている通話の通知をスワイプする。


『あ、もしもし姉ちゃん? 無事着いた?』

「いや、着いたけど、どういうこと?」


 てっきり今日も、あの白い部屋に寄ってからこっちに来るものだと思っていた。いきなり異世界とか聞いてない。慣れるまではパターンを変えずにやってほしい。


『いやー、十八時からって意外と時間がないし、初めからそっちに行ったほうがいいかなって』


 弟は悪びれる様子もなく、呑気な声を返してくる。私は眉を寄せ、痛む頭に手を添えた。


「それなら、そうと事前に言ってよね。私にも準備とかあるんだから」

『今日はやってきたんじゃないの?』

「そりゃ道具は昨日よりは準備できたけど、気持ちの問題よ」

『えー。そんな構えることないって。気軽に楽しんでよ』

「無理」


 こんなこと、構えないほうがどうかしている。ただでさえ私の理解を超えた出来事だ。踏み込むには、心の準備が必要だ。知らない世界に飛び込むのだって、それなりに勇気がいる。


『姉ちゃん。こういう時は“ガンガンいこうぜ”の精神でいいんだって』

「あなたはまた、わけのわからないことを……」

『まあ、とりあえず楽しんで来てよ。じゃあ、帰る頃にまた電話するね』

「あ、ちょっと、広世?」


 弟はそれだけ言うと、ぷつりと電話を切る。呼びかけても、応える声はない。私はスマートフォンを耳から離すとロック画面を睨む。


「聞きたいこと、あったのに……」


 唇を尖らせ、背中の鞄を背負い直す。

 今日の鞄は仕事の時にいつも使っているハンドバッグではなく、リュックに変えてきた。森を歩くなら両手が空いている方がいいし、色々な道具を持ち込むには大きめの鞄がよかったからだ。

 ただ、私が持っていたリュックは小振りのものしかなかった。このリュックは弟の部屋にあったものを拝借してきたものだ。黙って持ち出してきたから、使用許可を得ようと思っていたのに。

 そっとため息をつく。こっちから電話をかけても繋がらないし、しばらくは無断使用を黙認してもらうしかない。帰る時に改めて、許可を取ればいいだろう。

 私はひとまずそう自分を納得させると、スマートフォンの画面をタップする。攻略本アプリを立ち上げた。


 昨日、こっちに来て困ったのはご飯だ。あの広場の周りには食べられそうなものはなかったし、本を読む場所を求めて彷徨っていた時も見かけなかった。……まあ、見落としていただけの可能性も否定はできないけれど。

 そもそも、どこにあるか、ましてや食べられるかもわからないものを探すのはリスクが高い。あいにく私はそんな知識も、無鉄砲さも持ち合わせていない。昨日はカロリーメイトがあったからよかったものの、それがなければ水だけで過ごすところだった。そう思うと、昨日の同僚には感謝しなくちゃいけないかもしれない。

 だから今日は、暗くなる前にまずは食材を確保しておきたかった。攻略本アプリには、食べられるきのこや木の実の情報も数多く載っている。朝の電車の中で、気になるものもいくつかピックアップしてきた。

 私はリュックの中から、エコバックと百均で見つけた、八つのアイテムが詰まった多機能ツールを取り出す。アプリ内にお気に入り登録していた情報を呼び出し、地図に赤い点で表示された採取ポイントを確認する。でも、そこではたと気付く。


「そういえば、ここってどこなのかしら?」


 困ったことに現在位置がわからない。考えてみれば、そうよね。ここは仮にも異世界。GPSなんてあるわけがない。地図に採取できる場所が表示されてはいるけれど、どこに向かえばいいのかしら。

 木々の合間の空を見上げれば、すっきりと晴れた藍色の空にオレンジが溶け込んでいく。ここで考えている時間は、あまりなさそうだ。

 私はひとつ息をつく。

 周囲を見回す。足元に注意しながら、夕暮れ間際の森をゆっくり進んでいった。



 ×××××



 陽が沈み、明るさの余韻も徐々に消えていった森を黙々と歩く。森の中は薄暗いけど、まだ辛うじて周囲は見渡せる。木々の合間を縫って、足元を一つずつ確認しながら慎重に進む。


 しばらく歩いていくと、不意に濃密な土の匂いがした。顔を向ければ、焦げ茶の木の根元にマッシュルームみたいな、小さくて真っ白なきのこがぽこぽこと生えている。私はそっと木に近付いた。

 近くに来ると、小さいと思っていたきのこは案外大きいことに気付く。一度スマートフォンに視線を落とし、攻略本アプリを確認する。拳大くらいの肉厚なきのこは、『ビハダケ』との名前が書いてある。添えられた説明文によると、食べると美肌効果があるらしい。事前にチェックしていたきのこのひとつのようだ。

 私はその場にしゃがむと多機能ツールに収納されているナイフをセットする。きのこの根元を切って、軽く土を払う。そこまでするとエコバッグに入れる。同じ場所にはまだいくつかビハダケがある。まとまって生えていたそれを全て取る。


 立ち上がって周りを見れば、他にもきのこがある。その中の一つに近付いて、しゃがみこむ。

 幹の下の方に生えていたのは、シイタケみたいな形のきのこだった。黒くて艶やかなきのこは美しい黒髪のごとく、かさの部分に天使の輪のような光のリングが輝いている。アプリを確認すると『カミツヤダケ』というきのこのページに書いてある特徴と一致している。説明文によると髪が綺麗になる効能があるらしい。事前に目を付けていたもののひとつだ。……こんな輪っかみたいに光っているなんて、スマートフォンの画面上ではわからなかったけれど。


「……これ、食べられるのかしら」


 自分の髪に触れ、その場でしばらく考え込む。なんだかこの辺りが少し明るいと思っていたけど、このきのこのおかげかしら。ランタンがなくても、近い範囲ならば十分に見通せる。


「でも、流石にこれは、私にはハードルが高いわ……」


 髪は綺麗になりたい。でも、一部でも光っているきのこを手に取るのは躊躇われた。攻略本アプリによると食べられるし、味は悪くないらしいけれど……。うん。帰ったら、ちょっといいトリートメントでも買おう。

 そう結論出すと、一際、土の香りが強く漂う木に移動する。根元には丸っこくて真っ白なきのこが頭を覗かせていた。スコップは流石に持ってきていないので、多機能ツールにあったマイナスドライバーで、がしがしと土を掘る。転がり出たのはジャガイモみたいな形の、白いきのこだった。

 実物を見たことはないけど、確かトリュフってこんな形じゃなかったかしら。アプリを確認すると『ビハクダケ』というきのこの画像と一致している。説明文曰く、美白効果があるらしい。これならばまだ、食べられそうだ。私はその場に生えているきのこを掘り出していく。


「……もう少し、あったほうがいいかしら」


 立ち上がり、エコバッグの中を覗く。エコバッグの下の方には二種類のきのこがいくつか入っている。出来れば、もう少し量が欲しい。私は一瞬、カミツヤダケに視線を送る。しかしすぐに逸らし、周囲を見回す。

 少し離れた木の根元には、エノキダケみたいな細いきのこが密集して生えていた。アプリで確認すると『スッキリダケ』という名前のきのこによく似ている。光っているきのこを食べるよりは全然いい。私は近付くとスッキリダケを採取する。軽く土を払い、エコバッグに入れた。いくつか採ってから中を覗けば、それなりの量になった。取り過ぎても食べきれないし、これくらいでもう十分だろう。立ち上がると、大きく伸びをする。


 夕暮れの気配が消えた森は、流石にきのこから発光する明かりだけでは暗くなってきた。

 私はリュックから、昨日弟にもらった小型の魔導ランタンを取り出す。赤い魔石をはめ込んで、スイッチに触れる。ぽわりと暖色系の柔らかな明かりが灯る。


「さてと」


 できれば、きのこ以外にも食べるものがほしい。私は攻略本アプリの地図に視線を落とす。


「えーと、きのこが生えていたってことは……今ってこの場所にいるのかしら?」


 地図によれば、ここから少し南に進んだ先に、果実がなる木があるらしい。

 それだけ確認すると顔を上げる。ランタンの向こうの森は、薄暗い。立ち並ぶ樹木は黒茶に近い色に変わり、深緑の青葉は静かに風に揺れる。木々の合間に覗く藍色の空にはちかちかと星が瞬く。

 私はリュックから方位磁石を出す。使えるかはわからないが、一応百均で購入しておいた。異世界だとしても惑星であるならば、多少なりとも磁力は発生しているはずだし。……ここって、惑星かしら。そういえばその辺りのことは攻略本のどのページにも書いていなかった。

 幸い、方位磁石は正常に動作した。確か、赤い針が北を指しているはずだから、南は反対側ってことよね。


「こっちかしら……?」


 ぽつりと零し、ランタンの光をかざす。薄暗い森の中を進んでいく。



 しばらく歩いていると、不意に風に乗って微かに甘酸っぱい香りが届く。辿っていくと、りんごのような果実がたわわに実っている木がたくさん生えていた。一つ一つの大きさは、見慣れたものより一回り大きい。ランタンの明かりを頼りにスマートフォンのアプリを開けば、『リンゴーアップル』という果実らしい。説明文には『りんご』の一言しか書いていない。

 ……時々思うけど、この攻略本、説明が雑すぎない?

 それにネーミングも雑だ。せめてもう少し詳しい説明がほしい。いや、助かってはいるんだけど。

 私はため息をつき、多機能ツールのナイフを出す。ランタンを下に置くと、少し背伸びしてりんご似の果実を二つもぎとる。採ったりんごはきのこを避け、エコバックの下の方に入れる。そういえば、きのことりんごって一緒に入れていいのかしら。まあ、少しの時間だし、大丈夫か。


「あとは、どこか火を起こせる場所があればいいんだけど」


 りんご(仮)はまだいいとして、流石に未知のきのこを生で食べるのは気が引ける。火を通せばひとまずは安心できる。

 私はぐるりと周りを見る。ここでも火を使えないことはないが、できればもう少し広さが欲しい。

 ランタンで足元を照らしながら、慎重に夜の森を歩いていった。

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