1日目(3) はじめての異世界

 藍色に変わった空の下、色を落とした森にぼんやりとランタンが灯る。比較的低い位置にある枝に引っ掛けたランタンから溢れるのは、揺らぐロウソクの炎でも、LEDライトの明かりでもない。ガーネットのような赤い石が仄かに光って、柔らかに周囲を照らす。

 森の隙間にぽっかりと空いた、小さな広場。黒茶色の背の高い樹木に寄り掛かって、足元に盛り上がっている根っこに浅く腰掛ける。

 草木が揺れる風の音だけが優しく包む静かな森に、ペラ……、ペラ……、とページをめくる音が混ざる。ようやく見つけたその場所で、ゆっくりと弟が用意してくれた攻略本? を読み進めた。



 ×××××



 ランタンの明かりを頼りに薄暗い森の中を進んでいく。しばらく歩いてたどり着いたのは、そこだけがぽっかりと空いたような、少し開けた場所だった。自然と間隔をあけて立ち並ぶ木々が作る空間は、まるで森の小さな広場のようになっている。

 都合よくイスがわりになる切り株はなかったけれど、地面に張り出た木の根に座れそうだった。足元にランタンを置き、根の表面を軽く払って腰掛ける。ほっと息をつく。

 森の中とあって涼しいけれど、歩き続けていたせいか少し暑い。ハンドバッグの中からハンカチを取り、軽く汗を拭う。ハンカチをしまい、代わりにペットボトルを出す。一口、口をつけて水を飲む。そこまでして、やっと一息ついた。


「さすがに、疲れたわね……」


 呟きながら、ふくらはぎをさする。ずっと森を彷徨っていたから、足が痛くなってきた。


「……違う靴、履いてくればよかった」


 それほど高いヒールではないけれど、パンプスでの森の散策はちょっと厳しかったようだ。仕事に行く時は、スーツよりのオフィスカジュアルでまとめていたから、いつも通りといえばそうなのだけど、もう少し、歩きやすい靴にしてくればよかった。

 せめて、あと一日あったら、準備もできたのに。


「そっか。こっちに来るの、明日からにしてもらえばよかったのかも」


 あの子ならきっと、それくらいの融通をきかせてくれただろう。あの時は予想外のことが続きすぎて、思っていた以上に私自身、余裕がなかったのかもしれない。明日からは念のため、もう少しラフな服装に切り替えて、スニーカーを履いてこよう。またここに来るかは分からないけれど、万が一に備えて。弟の口振りから、また呼ばれそうだし。

 もう一口水を飲み、ペットボトルを傍らに置く。鞄の中から綺麗に装丁された、攻略本? を取り出す。ひとまず表紙をめくる。


「……読みづらいわね」


 地面の上のランタンからぼんやりと明かりが漏れる。でも、それだけでは、日が暮れた森の中で本を読むには心許ない。白金の月もここでは深緑の青葉に遮られて、光が届きにくい。かといってスマートフォンのライトに頼るのも違う気がする。

 上から光が当たれば、もう少し手元が見やすくなるかしら。

 本を閉じて、黒茶に色を変えた木を見上げる。流石に、枝の位置が高すぎて届きそうにない。

 首を巡らせて、辺りを見回す。背の高い木が囲む中、比較的低い場所に枝が生えている木を見つけた。一旦本を鞄の中にしまい、肩にかける。ペットボトルとランタンを持って立ち上がり、木に近付く。少し背伸びをして枝の先にランタンの持ち手を引っ掛ける。


「……これで、大丈夫かしら」


 なんとかバランスを取りながら、ランタンの位置を調整する。それが終わると地面に張り出した、木の根っこに座る。隣にペットボトルを置いてから、鞄から本を取り出す。枝に釣り下げたランタンが照明のように光を落とし、先ほどよりは手元が見やすい。

 準備が整うと、表紙を開く。

 最初にあったのは、目次のページだった。どんな内容が書いてあるか、見出しの下に概要が一言添えられている。上から確認していけば、世界地図の他に地域ごとの詳細マップまで付いている。国や街、町や村などこの世界の地域ごとの紹介ページもあるようだ。各都市の成り立ちから概要、名産品や名物料理も掲載されているらしい。

 それ以外にも、植物図鑑や分布図、地区ごとに出現情報をまとめた、動物や魔獣、魔物の図鑑や出現マップまである。


「……これ、広世が一人でまとめたのかしら」


 今までの神様たちの引き継ぎ資料とは言っていたけれど、目次を見ただけでも多種多様な情報が網羅されているのがわかる。元の資料がどうだったかは分からないけど、これを弟一人でまとめたのであれば、すごいことだ。

 一通り目次を確認すると、巻末にあった索引ページを開く。とりあえず、気になる単語を調べてみることにした。


「確か、テイマー……だったかしら?」


 ページ数を確認して、ぱらぱらとめくっていく。目的の単語は、本の後半、職業一覧のカテゴリーにあった。


「テイマーって職業なのね」


 職業名の下には、男の人と一緒に、大きい犬や丸っこい小さな物体————確か、スライムだったかしら————が描かれたイラストと説明文が書いてある。イラストの右下には体力、魔力、知力、攻撃力、防御力と書かれた項目を五段階で評価したチャートまで添えてある。それらの情報が、一ページにまとめられていた。ひとまず、説明文に目を通す。


「えーっと、テイマーは、魔物使いと同義。魔物や魔獣を手懐けて、使役する?」


 そこまで読んで、首を傾げる。……要するに、ペットトレーナーみたいなことかしら?

 弟はなんで私をこの職業にしたのだろう。動物は好きだけど、暇な時にSNSで動物の動画を観るくらいだ。そもそも、職業って勝手に決められるものじゃなくない? この世界には職業選択の自由はないのかしら。

 釈然としないものの、索引ページまで戻る。弟の言葉を思い出しながら、他の単語を探していく。


【魔道ランタン】魔法や魔石の力を用いて明かりをつけるランタン。

【魔法】魔素、呪文、魔法陣を媒介にして発現する。この世界でのみ使用可能。

【魔石】地表や地中に溜まった魔素が結晶化したもの。

【魔素】空気中や体内に存在する、魔法や魔石の元になる元素のようなもの。

【攻略本】ゲームなどでより有利に進行できるように様々な情報をまとめたもの。


 そこまで確認すると、ひとまず、一旦、本を閉じる。


「……」


 えーっと、つまり……どういうこと?

 馴染みのない単語の羅列に、思考停止したくなる頭をなんとか動かす。一応、魔素についても調べてみたけれど、弟が言っていた以上の言葉は書いてない。てゆーか、説明、ざっくりすぎない?

 そもそも、どういった原理で魔素が発生しているのだろうか。それに、魔法についてもよくわからない。呪文とか、魔法陣とか、何それ。なんでそんなものを媒介にして発動できるの? 弟の部屋やこっちに来る時に見た白い文様はちゃんと見てなかったけれど、ルーン文字とか、梵字とか、書かれていたのかしら。そういう文字には、何か不思議な力もありそうだし。あ、でも、ここって異世界だったわ。じゃあ、こっちの文字なのかしら。……そういうの、あるのかしら?

 まとまらない思考に、しわの寄りかけた眉間をほぐす。

 攻略本は弟がまとめたからか、日本語で書かれていて読むことはできる。ただ、内容を理解する前に文字が滑って入ってこない。

 大きく、息をつく。

 初めからよくわかっていないのに、単語だけ見たのが無謀だった。さっき目次を見た時に、魔法に関する項目があったような気がするし、そこならばもう少し詳しく書いてあるだろうか。

 とりあえず、最初から読んでいこう。そう思って、改めて攻略本の表紙を開く。

 一つ目のカテゴリーは、この世界の紹介ブロックだった。ガイドブックみたいで、読んでいるだけで楽しいし、知らない場所のことを知っていくのも面白い。しばらく黙々と文字を追っていると、不意に、くう、と小さくお腹がなる。そういえば、夕飯をまだ食べていなかった。

 森の中だから、きのことか、木の実とか何かしら食べるものはあるだろう。でも、この近くには見当たらないし、今は探しに行くのが面倒くさい。


「そういえば」


 ふと思い立って鞄を開く。お財布やポーチの影に隠れていたコンビニの袋を取り出す。中に入っていたのは、お昼に食べようと思って買ってあった、カロリーメイトだ。

 私は箱から中身を出し、一口かじる。開いたままの攻略本に目を落とす。もそもそと咀嚼しながら、続きを読んでいく。

 その後もわからない単語は、索引から関連ページを探して確かめて、攻略本を読み進めた。



 ×××××



 かさかさと木の葉がさざめきあう。その度にランタンの明かりが大きく揺らぐ。木の陰に隠れていた月も顔を出したのか、仄かな白金の光が斜めに差し込む。暗い森の中、静かに本のページをめくっていく。

 全体の三分の二くらいまで読み進めたところで、鞄の中から着信音が聞こえてきた。本を閉じ、腕時計をちらりと見ると、二十二時五十分を指している。


「……もう、こんな時間になっていたのね」


 本と入れ替えで、鞄の中からスマートフォンを取る。ロック画面に表示されている、弟からの通話の通知をスワイプする。


『もしもし? 姉ちゃん? そろそろ時間だけど、大丈夫?』

「ちょっと片付けるから、五分後にまた、連絡くれる?」

『わかった。じゃあ、また、電話するね』


 通話を切ると、スマートフォンをジャケットのポケットに入れる。地面の上のペットボトルを取り、コンビニの袋に入れてから鞄にしまう。少し背伸びして、枝の先に下げたランタンを取る。念のため忘れ物がないか、ぐるりと確認する。

 一通りの片付けとチェックが終わり、弟からの連絡を待つ。しばらくすると、ポケットから着信音が響く。


『もしもし? 五分経ったけど、もう大丈夫?』

「うん。ありがとう。大丈夫よ」

『じゃあ、そっちに転送用の魔法陣を展開するから、ちょっと待ってて』


 弟がそう言うと、俄かにスマートフォンが輝き出す。その時不意に、背後からがさりと音がした。驚いて顔を向ければ、草むらの合間からウサギに似た動物が覗いている。こげ茶の耳をぴんと立て、鼻をひくひくさせながら周囲を窺う。その目線が、一瞬合った。


『それじゃ、行くよ』

「あ、ちょ、ま……」


 途端に、スマートフォンから真っ白な光が弾け出る。幾何学的な白い文様が展開されて、ごうと風が唸る。黒茶色の背の高い木が、深緑の青葉が、大きく震えてがさがさと音を立てる。

 私は思わず目を閉じた。

 一拍置いて、とす、と固い床に降り立つ。急速に白い光と風が収まっていくのを瞼の裏に感じて、ゆっくり目を開ける。


「何、これ……」


 目を丸くして、思わず、呆然と呟いた。スマートフォンを持っていた腕が、だらんと落ちる。

 目の前に広がっていたのは、細い輪郭線じゃない弟の部屋。ベッドや本棚、パイプラックが並ぶ、見慣れた景色だった。


『もしもし、姉ちゃん? 無事着いた?』


 弟の声にはっとなり、スマートフォンを耳に当てる。


「いや、着いたけど……。ちょっと、何これ。どういうこと?」

『いやー、時間も遅かったし、直接帰ったほうがいいかなって思って』

「それは、助かるけど、そうじゃなくて……」


 私は慌てて靴を脱ぐ。こういうことなら、事前に教えてほしかった。

 てっきり、またあの白い部屋に一旦戻ってから、こっちに帰ってくると思っていた。いきなり室内とか、聞いてない。せめて帰る時くらい、心の準備をさせてほしい。いや、二十三時で帰るって言ったのは、私だけど。

 ああ、あとで、土で汚れたところを掃除しなくちゃ。それに、ランタンとか、攻略本とか、そのまま持って帰ってきちゃったけれど、いいのかしら。


 異世界生活一日目。

 その日は結局、本を読むだけで終わった。

 もしも、次があるとしたら、もう少し何かできるかしら。

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