1日目(2) 異世界にやって来た

『あ。よかった、繋がった。もしもし? 姉ちゃん?』

「どうしたの? 何かあった?」

『いや、こっちでもちゃんと繋がるかなって思って。ちょっと伝え忘れていたこともあったし』

「伝え忘れたこと?」


 弟の言葉に眉を寄せる。むしろ聞いてないことの方が多い気がする。


『うん。ハンドバッグの中にさ、元々の荷物も多少は残してあるけど、魔石をはめ込むタイプの小型の魔導ランタンも用意しといたから、よかったら使ってよ』

「魔石? ランタン?」


 一旦本を小脇に抱えて、鞄を覗く。なるほど。確かに手前側に手のひらサイズのランタンらしきものが入っている。


『こっちの世界にはさ、電気とかまだなくて色んなものの動力源が魔石なんだ。中には魔法で動くものもあるけど、姉ちゃん、まだ使えないだろうし』

「……今後も使う予定はないけど」

『まあ、こっちの世界なら使う場面もあるかもしれないし』


 そんな場面に遭遇することがあるのだろうか。いまいち実感がなくて首を傾げる。


『あ、あとさ、そっちに攻略本、届いた?』

「攻略本? なんだか、どこかのガイドブックみたいな名前の本は落ちていたわ」


 弟の言葉に鞄を閉じて、小脇に抱えていた本を手に取る。


『そう、それそれ。今までの神様たちの引き継ぎの資料を前の神様からもらったから、俺なりに整理してまとめてみたんだ。よかったら色々参考にしてみてよ。この世界のことは大抵、そこに書いてあるからさ。姉ちゃん、話で聞くより、自分で資料を読み込んだほうがわかりやすいでしょ?』

「確かに、そっちの方がありがたいけど。……こんなに、都合よく用意されているものなの?」

『だって俺、神だから』

「ああ、そう……」


 ぱらぱらとページをめくって疑問をぶつけたら、身も蓋もない返答が返ってくる。こめかみを押さえて、大きく息をつく。小説も漫画もあまり読まないけれど、異世界ってこんなものなのかしら。


『まあ、電話でもいいんだけどさ。まだ電波が安定してないし、かけられるのは俺からだけだし。そのうちこの世界にもWi—Fi繋ぎたいとは思ってるんだけど、なかなか思うようにいかなくてさ』

「ふーん。……それより、約束は忘れてないわよね」


 ぱたんと閉じた本と一緒に思考もやめた。深く考えることは諦めて、ひとまず直近の懸念事項を確認する。


「明日も仕事があるから、二十三時には帰るからね」

『わかってるって』


 軽い調子で弟は続ける。


『じゃあ、帰る頃にまた電話するよ。異世界、楽しんでいってね』


 そう言うと弟は電話を切る。私はスマートフォンを耳から離すと、しばらく画面を見つめる。

 正直、わからないことの方が多い。不安な気持ちも、あるにはある。でも、まあ、ここまで来たらもう、しょうがない。……もう少し、色々話してくれてもいいとは思うけれど。

 ため息をつき、スマートフォンと弟曰く攻略本を鞄の中にしまう。


 とりあえず、どこか落ち着いて本が読める場所がないかしら。

 私は森の中を見回すと、ゆっくりと歩き始めた。

 異世界に来て最初に行った、あの白い部屋での出来事を思い出しながら。



 ×××××



 ぽしゅん、と光が急速に消え去った後。ちかちかと余韻が残る中飛び込んで来たのは、真っ白な部屋だった。

 定時で仕事を終えた、十八時過ぎ。お手洗いの個室で弟からの電話を受けて、異世界? に行くことになった。スマートフォンの画面から、いつか見た白い光と幾何学的な文様が展開され、眩い光が弾けて、今に至る。


「姉ちゃん、久しぶり!」


 聞こえてきた声に顔を向ける。思わず目を見開いて、息を飲む。

 嬉しそうに駆け寄る姿は、あの時と同じ。久しぶりに見た元気そうな弟に、言いたいことも全て飛んでしまった。


「広世。……本物よね?」


 目の前に立つ弟にそろりと両手を伸ばして、頬に触れる。温かなぬくもりに、じわりと涙が滲む。


「……よかった、本当に」


 電話越しの声でも安心はしたけど、やっぱり直接見るのとは違う。絞り出した声に、弟は申し訳なさそうに眉を下げる。


「ごめん。心配かけて」


 目の前で弟が消えてからずっと、生きた心地がしなかった。憔悴する母も見ていられなかった。私は首を左右に振ると、触れていた手を離す。滲んだ涙をそっと拭う。


「無事で、よかったわ」


 微笑んでそう言うと、弟は小さくはにかむ。ああ。本当に、無事でよかった。

 弟は私と視線を真っ直ぐに合わせると、にこりと笑う。


「今日は、来てくれてありがとう。とりあえず、座ってよ。色々話したいこともあるし」

「座る?」


 弟の言葉に改めて真っ白な部屋を見回す。

 よく見れば、部屋の中には0.03のボールペンよりも細い輪郭で、部屋の様子が描かれている。朧げな線を繋げていけば、デスクやパソコン、ゲーミングチェア、奥にはタオルケットがめくれたままのベッドもある。無造作に漫画やライトノベルが並ぶ本棚や、ゲームソフトが乱雑に積み上げられたパイプラックは弟の部屋にあるものと同じだ。それに加えて、ダイニングテーブルやイスなど、リビングの要素も兼ね備えている。


「……何、これ」


 目を丸くして、部屋を眺める。何もないと思っていたその空間は、現実味がないのに妙な生活感がある。


「やっぱ慣れ親しんだもののほうが、使いやすいし」

「いや、そこじゃなくて」


 そもそもこれは、何なのだろう。弟は私の横を通り過ぎると、イスに腰掛ける。あ、座れるんだ。促されるまま私も弟の向かいに座る。輪郭だけのそのイスの座り心地は、家のそれと変わらない。なんとも言えない不思議な感覚に、どうにも落ち着かない。

 ぱちんと弟が右手の指を鳴らすと、今度は私の目の前に線で描かれたカップが現れる。ふわりと立ち上る湯気からジャスミンの香りがする。


「どうなってるの? これ」


 自分の前にもココアの入ったマグカップを出した弟は、一口飲むと顔をあげる。あ、これ、ちゃんと飲めるんだ。


「便利でしょ。まだ実物は持ち込めないんだけど、現実にあるものを写し取ることができるんだ」

「え? どういうこと?」


 理解が追いつかず、首を傾げる。弟はちびちびとココアを飲みながら、少し考え込む。


「んー、まあ、イメージしたものが現実に反映される感じなのかな? 俺もまだよくわかってないんだけど。この部屋の密度の濃い魔素と、この世界の高い信仰心があるからこそ、できることとかなんとか言ってたよ」

「誰が?」

「前の神様が」


 どうしよう。弟の言葉の九割九分もわからない。

 一旦気持ちを和らげようと、弟が出してくれたカップを手に取る。そっと口をつければ、飲み慣れたジャスミンティーの味がする。それでも気持ちは全く安らがない。仕方なく息をついて、カップを置く。


「……ところで魔素って何?」


 頭の中は全然整理しきれていないけど、とりあえずよくわからない単語を聞いておこう。


「魔素っていうのは、この世界や空間に充満している空気みたいなものでさ。酸素と同じように空気中に漂っていて、呼吸と一緒に体内に取り込まれたりするよ。まあ、魔法の元になる元素かな」


 弟の言葉に眉を寄せる。なんだか、わかったような、わからないような……うん。よくわからないわね。でもそれ以上の回答も得られそうにないし、そっちはまあ、いいとして、もう一つの気になることもはっきりさせておこう。


「じゃあ、神様っていうのは? ここに来る前、電話でも言っていた気がするけど」

「そのまんまの意味だよ。俺、今この世界の神様なんだ。なんか前の神様がせっかくの異世界転生なのに無双も冒険できないなんて地味だ、とかなんとか言って俺と代わったんだ」


 ……なんだか、情報過多で頭が痛くなってきた。前の神様も気にはなるけれど、今はどうでもいい。それよりも。


「……なんで、そんなことになってるの?」


 思っていた以上によくわからないことに、弟は巻き込まれているらしい。それなのに、なんてことないように、呑気にココアを飲んでいる。


「あー、正直、俺もすっかり忘れていたんだけど。前にネットオークションで『異世界の神様になる権利』ってのが、出品されててさ。なんか面白そうだったから、入札してみたんだよね。いや、まさか本当だとは思わなかった」


 普段と変わらず、軽い調子で返す。私は思わず頭を抱えた。なんで、この子はこうなのかしら。

 今朝までの私なら、何を馬鹿なことをと思っていただろう。でも、実際に自分もこうやって異世界? にまで来た今となっては、そう簡単に否定もできない。この事態がまさかの自業自得とか。


「……それで? いくらで落札したの?」

「三百円」


 それは安いのかしら。妥当なのかしら。相場がわからず反応を返せないでいると、弟は右手の指を鳴らして今度はポテトチップスらしきものを出現させる。


「まあ、神様って言っても滞りなく世界が運営されているか見守る、管理者みたいなものだけど。この世界って特に危機もなくて平和だし」

「ああ、そう……」


 弟の様子にため息をつく。ひとまず今の問題は、このことをどう両親に伝えるかだ。なんだか、胃がキリキリしてきた……。


「……それで、なんで私を連れてきたの?」


 とりあえずの問題点は先送りにして、一番の疑問をぶつけてみる。

 異世界転生だとか、異世界転移だとかいう小説や漫画があるらしいことは聞いたことがあるけど、巻き込まれても迷惑なだけだ。それに、明日も仕事あるし。


「この世界、初めて見た時にさ。絶対、姉ちゃん、好きそうだなって思ったんだよね。それに、姉ちゃん、前に趣味が欲しいって言ってたじゃん。ここなら自然も豊かだし、動物もいっぱいいるし、何か見つかるかもって思ってさ。俺もこっち来てからまだ一週間くらいしか経ってないけど、それでもわかるくらいにはいい所なんだ」


 秘密の宝物を教えてくれるように、きらきらと目を輝かせて弟が言う。……その表情はずるい。文句も何も言えなくなって、まあ、いいかと流してしまいたくなる。


「たまにはのんびりとさ、非日常を味わってみてよ。姉ちゃんも気に入ってくれると思うから」


 そこまで言うと、今度は左手の指をぱちんと鳴らす。その途端、ふわりと私の体が光に包まれる。


「え、ちょ……何これ?」


 わけがわからず慌てる私に弟は笑顔を向ける。


「まあ、とりあえずは楽しんできてよ。あ、姉ちゃんはテイマーにしといたから」

「ちょっと、まだ話したいことが……てゆーか、テイマーって何?」


 ぶわりと一陣の風が吹き上げる。足元には、ここに来る前にスマートフォンから弾け出た、白い文様と似たような図形が展開される。眩い光に思わず目を閉じる。逆流する空気にぐっと口を結ぶ。

 しばらくして、不意に、とん、とどこかに降り立った。足の裏にはふかふかとした、土の感触。柔らかな草がさわさわとストッキング越しの足首を撫でる。

 急速に風と光が収束し、乾いた土と緑の匂いが立ちこめる。強い光が収まるのを感じて、ゆっくりと瞼を開く。飛び込んだ光景に、思わず息を飲んだ。

 目の前に広がるのは、桧皮色の背の高い樹木と新緑色の若葉が生い茂る深い森。オレンジと藍色が滲む空には、白金色の満月と細い三日月が並ぶ。ざわりと揺らいだ風が、足元から天空に昇っていく。涼やかにささめきあい、穏やかで優しい空気を運んでくる。


 そこには、私が知らない景色が広がっていた。



 ×××××



 傾き始めた二つの月が、白金色に輝く。オレンジ色が溶け込み、藍色に染まりつつある空の下。桧皮色の樹木に覆われる森は一段と暗い色を落とす。

 私は鞄の中から小さなランタンを取り出す。一緒に入っていた説明書をスマートフォンの明かりを頼りに確認する。……もう、この光でもいいんじゃないかしら。

 でも、まあ、折角、弟が厚意で準備してくれたものだし、使わないのも悪い気がする。スマートフォンの充電も気になるし。

 立ったままの姿勢で説明書を読みながら、ランタンの所定の位置にガーネットのような赤い魔石をはめ込む。スイッチらしき突起に触れれば、ぽわりと柔らかな明かりが灯る。

 ランタンを片手に辺りを照らす。ほのかに灯った光の先。もうしばらく進んだ場所に、少し開けた空間が見えた。あそこならば、切り株くらいあるかもしれない。

 僅かに覗いた森の広間に、ゆっくりとした足取りで向かっていった。

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