1日目(1) 異世界への招待

 ふわりと足元から撫で上げるように吹く風に包まれ、地面に降り立つ。パンプスで踏みしめたのは、ふかふかと柔らかな土。さわさわとストッキング越しの足首を撫でる草が、少しくすぐったい。

 顔を上げれば、先ほどまでの部屋の様子はどこにもない。視界を埋め尽くすのは、桧皮色の背の高い木と、青々と茂る新緑の若葉。見上げた夕暮れ間際の空はオレンジと藍色が混ざり合い、見慣れた色をしている。でも浮かぶ白金の月は、二つ。満月と小さな三日月が並んでいる。

 そっと息を吸い込んだ。つんと鼻をつく、独特な緑の匂いが肺を満たす。あの白い部屋に行った時点で信じてなかったわけではないけれど、こうして目の当たりにするのとは違う。

 私は一体、どれほど遠くまで来てしまったんだろう。

 麻のジャケットの袖から少し腕時計を覗かせて、時間を確認する。どうやら、こっちの時間には合わせていないようだ。


「本当に、帰れるのかしら……」


 ひとつ、息をつく。ハンドバッグを肩に掛け直す。

 想定外のことが多すぎて、まるで頭は働かない。それでもどうにか記憶を辿り、ひとまずここに至るまでの出来事を思い返すことにした。

 そう、あれは、数時間前————。



 ×××××



 弟が目の前で消えてから一週間と少し。それでも朝はやってきて、日常は始まる。

 会社の厚意で休暇をもらい、思いつく限り手を尽くして探してみた。警察や探偵も頼ってみたが、未だに捜査中で結果は芳しくない。……状況が状況だから、ある程度予想はできたことだけど。

 一体、弟はどこに消えてしまったのだろう。

 あの日、もしも弟の手を掴むことができれば。無理やりにでも、あの壁を突破できたのならば。あるいは、もう少し早く部屋に行っていれば。弟は、消えずに済んだのだろうか。

 手がかりさえも掴めずに、時間だけが経過する。気持ちばかりが焦って、何も進まない。

 それでも、これ以上会社を休むのも気が引けた。家にいるのも居た堪れなくて、私以上に憔悴する母を父に任せて出社してきた。


「ちょっと、神束さん。大丈夫」


 疲れ切った私の様子を見て、隣席の同僚が声をかけてくる。


「ありがとうございます。大丈夫です。それに、これ以上休むのも申し訳ないですし」

「気にせず、休んじゃっていいのに」


 同僚の言葉に私はぎこちなく笑う。


「私よりも、母の方が参ってしまっていて。正直、見ていられなくて……」

「弟くん、まだ見つからないの?」


 気遣うような視線に、こくりと頷く。本当に、どこに行ってしまったのだろう。俯いたまま小さく唇を噛み、すぐに顔を上げる。


「でも、これ以上、迷惑かけるわけにはいかないですし、気にしないでください。それにそのうち、ひょっこり帰ってくるかもしれませんし」


 心配させないように、なるべく平静を装ってそう返す。

 デスクの上の時計を見れば、九時半を過ぎている。今期からリモートワークも導入したせいか、社内には人が少ない。私はパソコンを起動させると、社内システムにログインする。今日一日のスケジュールをチェックした。

 受け持っていた仕事は、うまく調整してくれたらしい。差し迫った締め切りもなさそうだ。今日の予定も、定例のミーティングがあるだけだった。

 それだけ確認すると、私はただ黙々と、溜まりに溜まったメールの処理に没頭した。



「よし。ランチに行きましょう」


 突然声をあげた同僚に驚いて、顔を上げる。時計を見れば、いつの間にか十三時を過ぎている。


「神束さん、どうせ今日もカロリーメイトだけで済ませようとしていたでしょう。こういう時は、ちゃんと食べなくちゃ」

「いや、でも……」

「いいから、いいから。早く行きましょう」


 結局そのまま同僚に引っ張られるように遅めの昼食に向かう。長めのランチタイムを過ごした後、午後の仕事に戻る。

 メールの振り分けもようやく落ち着いてきた頃、不意に鞄の中から着信音が響いた。慌ててスマートフォンを取り出すと、電話がきている。ロック画面に表示されている名前と番号に、思わず目を見開く。


「……ちょっと、離席します」


 隣の席の同僚になんとかそれだけ伝える。スマートフォンを片手に、足早に執務室を出る。廊下の隅、他の人にあまり迷惑にならない場所まで急いで向かうと立ち止まる。震える指先で、そっと画面をフリックして電話に出る。


『あ、もしもし。姉ちゃん?』


 聞こえてきた声に力が抜けて、その場に座り込む。でもすぐに、ここは会社だと思い出して、立ち上がると壁に寄りかかる。


「広世。よかった……。心配したのよ」


 電話越しに聞こえたのは、弟の広世の声だった。久しぶりに聞いた声に、ほっと息をつく。


「突然、目の前でいなくなるんだもの。何があったのかって驚いたわ」

『あはは。あの時は俺もびっくりした』


 弟は普段と変わらず、軽い調子で返す。その様子に、安心とは別の意味で力が抜ける。


「あなたね。もっと早く連絡してきなさいよ。お母さんもすごく心配していたのよ」

『ごめん、ごめん。なかなか通信環境が整わなくてさ。これも、なんとか電波を繋ぎ合わせて、どうにか姉ちゃんのスマートフォンと繋げられたんだ』


 弟の言葉に首を傾げる。確かに、電波が悪いのか、いつもより声を遠く感じた。


「広世。あなた、今どこにいるの?」

『え、異世界』


 一瞬、時間が止まった気がした。……この子は、何を言っているのかしら。

 端的に告げられた言葉は、私の理解を超えている。意味がわからない。


「……あのね。そういう冗談はいいから」

『いや。マジマジ。あの後、色々あってさ。俺、今、異世界で神様やってるんだよね』


 そこまで言うと、まるで宝物を自慢するかのように、弟は続ける。


『こっちの世界も、すごい、いい所なんだ。自然も豊かで、のんびりしてるし。姉ちゃん、絶対に好きそう』


 思考がフリーズして、理解することを拒否している。まるでわけがわからない。

 一旦落ち着こうと、私は小さく咳払いをして、スマートフォンを持つ手を入れ替える。


「もう一度聞くけど。広世。あなた、今どこにいるの?」

『だから、異世界。よかったら姉ちゃんもおいでよ』


 ……この子は、一体、何を言っているのかしら。


「結構です」


 呆然としつつ、なんとか一言返す。反射的に画面をタップして電話を切ってしまった。

 着信履歴には弟の名前が表示されている。どうやら、夢でも幻でもないらしい。

 ————て、言うか、異世界って何よ。

 私はずるずるとその場に座り込む。せっかく弟から連絡があったのに、はぐらかされてしまった。何か変なことに巻き込まれていなければいいのだけれど。……もう、巻き込まれているのかしら。

 私はもう一度、スマートフォンの画面を見る。弟の名前をタップして、リダイヤルしてみた。数秒間呼び出し音を繰り返した後、電波が届かないことを報せるアナウンスが流れる。

 ため息をつき、電話を切る。壁を背に立ち上がったところでまた、電話がかかってきた。ロック画面に表示されているのは、弟の名前。


『ちょっと、いきなり切らないでよ。まだ通信が安定してなくて、繋ぐの、大変なんだから』

「……あなたが、わけのわからないことを言うからでしょう?」

『いや、だからほんとなんだって。姉ちゃんも一回、こっちに来てみたらいいよ。動物もたくさんいるし、絶対、気に入るから!』

「お断りします。そんなの急に言われても困るわよ。何? 異世界って。わけがわからないわ。それにまだ仕事もあるから無理よ。だいたいあなたね、本当に……。広世? もしもし? 広世?」


 突然、ぶつり、と回線が落ちるかのように通話が途切れる。酷いノイズ音がしてスマートフォンを耳から離す。眉を寄せて、画面を睨む。小さく唇を噛む。オフィスの自席に戻った。



「電話、大丈夫だった?」


 席に戻ってからもどこか上の空で、ぼんやりとスマートフォンを眺める。そんな私を心配してか、同僚が声をかけてくれる。


「はい。……弟からでした」

「え! 弟くん、無事だった?」

「はい。なんか、今、異世……いや、なんでもないです。元気そうではありました」


 私の言葉に、同僚もほっと胸を撫で下ろす。


「そっかぁ。よかったね、連絡がついて」

「よかった……ええ、まあ、そうですね……」


 歯切れの悪い私の返答に、同僚は不思議そうに首を傾げる。確かに、久しぶりに声が聞けて安心はした。でも、異世界とか意味がわからない。一体、どうすればいいというのだろう。

 そんなことを考えていると、また電話がかかる。


「弟くんから? いいよ、ここで出ちゃえば?」

「いや、でも……。ちょっと、失礼します」


 スマートフォンを持って立ち上がると、執務室を出てすぐに電話に出る。


『もしもし? 姉ちゃん?』


 聞こえてきた声に、大きくため息をつく。


「だから、今仕事中だって……。ああ、もう、わかったわよ。十八時には終わるから、その時間にまた、連絡ちょうだい」

『ほんと!』


 諦めて返した私の言葉に、電話越しに嬉しそうな声が届く。それから一言、二言交わして、電話を切る。

 ドアに寄りかかり、着信履歴の表示を睨む。こうやって連絡がついたことは、素直に嬉しい。でも、この展開は想定外だ。本当に、わけがわからない。それに。

 私は僅かに眉を顰めるとドアから離れる。履歴から別の番号を選択して、通話をタップした。


「もしもし、お父さん? 今日ちょっと帰り、遅くなる。うん、大丈夫。うん、ありがとう。お母さんにもよろしく。じゃあ」


 それだけ伝えると電話を切る。ああ、帰ったらなんて説明しよう。入館証をかざし、なんとなく重たくなったドアを引き開ける。

 そして定時上がりの、夕方十八時過ぎ。改めて弟から連絡を受けて、異世界? に転送されることになった。



 ×××××



 ……うん。よくわからない。

 なんとなく記憶を思い返してみたけれど、なんの意味もなかった。

 私は暗くなりつつある森の中を見渡す。桧皮色の背の高い樹木。新緑色の青々とした若葉。むせ返る草の香りが立ち上る。天頂近くに並ぶ白金色の二つの月は、徐々に輝きを強くする。

 ひとつ、息をつく。

 ずっとここにいても仕方がない。とりあえず散策でもしてみようと、足を踏み出した。その爪先に何かが当たる。不思議に思って下を向くと、そこに一冊の本が落ちていた。


『異世界の歩き方』


 表紙には、どこかのガイドブックで見たような名前が書かれている。


「……都合、よすぎじゃない?」


 弟の計らいだろうか。それにしても、なんでこんなところに本が置いてあるのだろう。いくら草で覆われていると言っても、これでは折角の綺麗な装丁も汚れちゃうじゃない。それとも、異世界って、こんなものなのかしら。

 でも、背に腹はかえられない。ありがたくガイドブックを拾うと表裏に返して、軽く土汚れを払う。

 そこまでしたところで、不意に鞄から着信音が聴こえきた。慌ててスマートフォンを取り出せば、弟から電話がきている。


「……何かしら?」


 不思議に思いつつも、画面をスワイプして通話を受けた。

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